第82話喧嘩の仕方を知らない者達
猫は魚を好んでいると分かっている一方、どのような種類が好きなのかについて全く知らなかった。
ティラミスを食べ終えてから猫が好んでいる魚について彼女は訊くと一瞬で固定概念が崩れてしまう。
「昔の日本人が魚しか食べなかったから猫も食べるようになっただけで基本、犬と同じ肉食だぞ」
「一部魚介類は猫にとって毒なんだよな。長生きさせたいならキャットフードと専用のオヤツだけ食べさせるべき。分かった? 霊長類の猫太郎さん」
2人から少し離れた席に座っていた女子生徒が猫へかつお節を日頃あげていると言った。猫の好物として長年、知られている。
しかし、猫を育てていくに当たり、食べさせてはいけない食材を調べていくとかつお節は少なからず害がある情報へ辿り着く。
「たくさん食べさせたらダメらしい。元々、腎臓関連の病気にかかりやすいからそれで拍車が掛かると言われている」
いつか自由奔放に生きる白猫達は、生物が等しく決められていた命の終わりを迎える。そこで祇園京希は生きる事の意味が問われるだろう。
死とは無でしかないのか、無に至るため全ての生物が生きているのだろうか。死生観は人それぞれ違っており、唯一の答えが存在しない。
辺りが少し薄暗くなり始め、青春を今日も十分に謳歌していた男女はケーキ屋から次々と出て行く。
ほぼ染子と一緒にケーキを食べたり、雑談しかしていない知努が染子を家まで送った後、帰宅して夕食作りに取り掛かる。
母親らしく見えるという妹の要望を聞いて、彼は青色のエプロンを着けていた。家事代行業者の印象が強い。
麻婆春雨と白飯を机に運んですぐ母親が帰宅し、今夜は3人で食事する。今朝から慌ただしかったせいか、すっかり彼の気は抜けていた。
旅行の準備を明日の昼に整える事だけ考えて彼が食事していると妹の知羽は、とんでもない話を出してくる。
「今日の昼休みにバカショーが教室で告白してきたよ。間に合っているからいらないってフッたけど」
訪問販売員を断るような感覚で知羽に告白を一蹴された男子生徒が哀れなあまり、彼は苦笑してしまう。
恋愛は出来るうちにしておかないと後悔する事を涼鈴が伝える。彼女は中学生時代から恋愛をしていた。
「私はお兄ちゃんしか信用していない。一応、お兄ちゃんに玄関のドアと靴箱をまた壊されたくなかったら近付いて来ないでって脅しておいたよ」
「バカショーって庄次郎の事かよ。お兄ちゃんはか弱い男の子なのでそんな事、出来ません」
対面の母親は怪訝そうな表情で彼を見ている。昨夜、殺されかけたにも拘らず、平然としている知努の態度が不気味だった。かなりの精神的苦痛がかかり、普通の人間なら何かしら反応する。
食事を終えて、知努は後片付けに取り掛かっていると固定電話の着信音が鳴った。ちょうど近くにいた知羽は受話器を取る。
電話相手はユーディットの母親らしく、とても世間話をしていると思えない妹の言葉が彼の耳へ入った。
「お兄ちゃんがキツく叱ったならそれで解決だったよ。殴ればやり返されるのは当たり前。ユーディットはお兄ちゃんの言う事しか多分聞かないよ」
息子が親子喧嘩の仲裁に行かなければならない事を会話から察した涼鈴は大きなため息を吐く。女1人で解決出来ない程、普段、大人しいユーディットが凶暴となっているようだ。
「ちーちゃん、あまり無理したらダメだよ。ちーちゃんに何かあった時にはーちゃんを制御出来る自信ないからね」
親子で行われている出来事は喧嘩から殺し合いと変わっているかもしれない。姉の夏鈴を恐れている文月と違い、ユーディットが目上の権力に歯向かうだろう。
大事な従姉に取り返しがつかない失敗をさせたくないと考えていた彼は、急いで居間から出る。
焦りのあまり、喧嘩の仲裁に相応しくない格好のまま、ユーディットの家へ向かっていた。一時期、流行っていたドラマを彼は思い出す。
家庭環境の改善や重い過去を抱いている点は、ドラマの家政婦と似ていた。彼女のような冷静さが求められる。
春の夜風に当たりながら自転車をこいでいる彼は、いつも他人から期待され、貧乏くじばかり引いていた。
今回の1件で最も立場がない人間は彼の叔父だ。反抗期の大事な1人娘を諫められず、父親の存在意義が感じられない。
頬に切創があり、一見、威圧感ある人間のような印象の彼は子煩悩だった。娘から嫌われる勇気を持っていない。
三中次男家宅の敷地に到着した彼が自転車を玄関横へ置き、屋内に入る。居間から親子の罵り声が聞こえた。
幼馴染の染子と父親の火弦が繰り広げていた口論もこれ程、勢いがある。忠文は息子の暴言をいなしてばかりだった。
2人がいる居間へ行くと非日常的な光景に彼は絶句する。互いが包丁を向け合っていた。最早、喧嘩と形容出来ない。
幸い、床にティッシュ箱や雑誌が散乱していたも奥のケージで伏せている子犬は無事だった。
「更年期障害のクソババアに殴られた娘の気持ち、考えた事ある? 羊水、腐っているから分からないと思うけど」
染子の母親へ年齢弄りしている彼もさすがにこのような言葉は決して言わなかった。売り言葉に買い言葉、ユーディットの母親が娘を罵り返す。
「《《周りの反対を押し切ってお前みたいな悪魔、堕胎してやれば良かった》》。全く可愛さの欠片もないわ」
叔父が単身赴任でいなくなったこの家庭はすぐ瓦解するだろう。到底、2人に家の留守を任せられない。
母親から暴力を受けたユーディットの怒りや娘に侮蔑される彼女の母親の怒りは理解していた。しかし、どちらも悪い。
背後へ忍び寄り、切り掛かる彼女の右手首を上から掴み、内側からくぐらせた反対の腕と一緒に関節を極めた。
「お前、気に入らないから家族を殺す気か? あ?」
彼の怒りが籠もっている低い声で彼女は逆らえば家族と思われなくなる事を理解する。
瞬時に両腕を解いてから持っている包丁を取り上げた。抵抗する手段がないユーディットは立ち崩れる。
「テメェも軽々しく堕胎してやれば良かったなんて言ってんじゃねぇぞ、おい!」
怒鳴られた彼女の母親がクーちゃんのケージの方へ避難し、安全な位置から主に染子を巻き込んだ罵声で対抗した。
それを無視して、彼は包丁を片付け、茫然としていたユーディットの元へ近づき、軽く頭を撫でる。
「ユーディットは悪魔じゃない。いけない事をしたら叱る、ただ、それだけ」
笑みを浮かべようと表情筋へ力を入れようとするも微動だにしない。今の知努は機械だった。
その様子を以前、彼が変貌した無気力な状態と勘違いしている彼女は、怯えるように蹲ってしまう。
「ごめんなさい、私が悪かったからいつもみたいな笑顔を見せて。貴方に嫌われたら私、死んじゃうから!」
久遠関連の出来事から立て続けに精神的苦痛を伴う出来事へ巻き込まれていたせいか、彼はおかしくなってしまったようだ。
無言で立ち上がった知努は、彼女の母親に軽く挨拶し、玄関へ向かう。死を意識させられる状況はあまりに苦痛が大きい。
外へ出て、自転車に乗った彼はゆっくりと漕ぎ始める。星々が浮かんでいない空はどこか深淵のようだった。




