第80話ツキノモノ
鶴飛火弦2号が人間様に暴力を働いたと訴える千景の声を背中へ受けながら2人は教室から出た。チンパンジーと遺伝子の類似性が98%なため、染子の暴力性も常人より高い。
数分後、右手の腱鞘炎を危惧し、染子にスクールバッグを預けられた彼は両手が塞がりながら歩いている。
思春期の男女らしい会話が思い付かなかった彼女は、咄嗟にいつか生まれるかもしれない娘の話題を出す。
未だ反抗期真っ只中の女子が何段階も飛ばし、そのような話題を出した事で驚きのあまり、彼は咳き込んでしまう。
捕らぬ狸の皮算用も甚だしい。彼の意見は染子が敵対視している父親の火弦の心情そのものだ。大なり小なり娘の身を案じている。
「急にどうしたんだ? ついこの前は子供を産む事が嫌だからベンジャみたいな人生を送りたいとか言ってたじゃん」
老人のような赤ん坊から成長していくにつれ、若返る男の映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を連想していた。
同じ監督と主演俳優の映画が好みだった彼は、近くの映画館で忠清と一緒に観た事を思い出す。
記憶力の良い彼から揚げ足を取られた染子が不機嫌そうに鼻を鳴らして語る。まさか言った本人が忘れていた発言が覚えられていると予想していなかった。
「大人になる苦しみを毎月味わっているからその苦労が報われたいの。後、その、わ、私も色々秘密があるのよ」
後半の部分は知られたくないのか、歯切れが悪い。珍しく動揺していると分かるように目を泳がせている彼女を一瞥する。
持っていたスクールバッグを肩へかけた知努は、唇の下にある頤唇溝へ指を当て、しばらく唸った。
染子が隠している秘密を亡き叔母へ訊いているような様子に彼女は少し不気味と思い、距離を空ける。
彼は降霊術等、迷信に縋りつくような人間とも思えず、まして白昼堂々、宇宙人と交信を試みる様な恥ずかしい事も考えない。
「それはソメちゃんが抱えている寂しさの根底にあるモノと密接な関係だね? とても優しいけど、苦しい感情」
その正体は何かを敢えて避けているような表現だが、とても当てずっぽうで言ったと思えない内容だった。
わざとハッタリをかけてまで他人が隠している秘密を吐き出させようという邪推は嫌う人間だ。
目を見開いた彼女は思い付く限りの最低な罵声を彼に浴びせようとするも喉から声が出ない。
知努にその正体に繋がる失言をした覚えがなく、一瞬、過去の記憶が見える異能を持っているとすら思ってしまう。
今、どんな感情を抱いているかすら分からない程、考えが纏まらない染子は苦し紛れに彼の制服を両手で強く掴んだ。
立ち止まり、要望が通らず、怒りを露わにしている幼児のような動きで何度も胸を叩いた。とても叔母の真似をしているような人間に見えず、人へ化けた悪魔のようだ。
人格に備え付けられていた防衛機能が働いているという現実的な結論を出し、彼も同じく足を止めた。
「仰々しい匣の中身を見れば大したものが入っていない事もあれば、そうでない事もある」
「この話はここまでにしよう。えっと染子の娘か、きっと幼い頃から周りの人間に愛される子供だろうね」
「かわいい娘のために染子は月のモノに苦しんでいる訳だよ。三中知努という人間は憑きのモノに苦しんでいるけど」
夏鈴、文月、ユーディット、知羽は幼い頃から両親に愛されて育った。その影響か清らかで素直な性格だ。
攻撃性が突出しており、少年だった頃の知努へ性癖を歪ませるような悪戯ばかりしていた染子も同じく両親に愛されている。
後世の男子が知努と同じような仕打ちを受けないように、しっかり教育しなければならない。そうすればある程度、攻撃性は抑制出来る。
後ろ髪を指で巻き付けながら彼がいずれ生まれるかもしれない娘の思春期を真似た。染子以外に見せられない仕草だ。
「パパ大好きと言っていた6歳の娘が10年後、絶対、髪の毛巻き付けながらこう言う。は? おっさん、臭いから視界に入ってこないで」
適切な時期に適切な行為を行う事は重要である。両親へ少しの反抗すら出来ない抑圧された家庭環境が健全といえない。
子供が両親へ反抗する事はそれだけ信頼関係は構築されているという証拠だ。本当に嫌われている場合、無視する。
「それでいいんだ。そうしていつか好きな男の子でも見つけて、また染子がこの世に産み落とされた意義は増えていく」
嬉しそうな表情で独り合点する彼は、どこか人格の解離性があるような変貌ぶりだ。こういった振る舞いは信用している人間に見せる。
不安とも怒りともいい難い感情が引き、落ち着きを取り戻した彼女は怯えている表情で知努の顔を見据えた。
「今朝の事は椅子で殴ろうとした私が悪いわ。知努の気持ちも考えず暴れた私達が悪いわ。ごめんなさい、だけど、その秘密だけは絶対に隠して欲しい」
目線を合わせながら彼は片手の指同士、固く絡めゆっくりと頷く。しばらく、時間の流れを考えず見つめ合う。
飽きたところで彼女に腕を抱かれながらまた歩き出した。先程の行為から安堵を得られたようだ。
眼前の信号が赤になっている交差点で待つ間、以前の彼女なら恐らくしない大胆な行動へ出る。
腕を抱くだけで飽き足らず、両脚を彼の片脚に絡め付けていた。脳の作用により、神経伝達物質の1種が分泌されている状態だと彼は捉えている。
「お天気もいいし、このまま信号が変わらなかったらずっとべったり出来ていいのにね」
とても彼女の首を折ると脅迫した荒々しい男らしからぬ発言だった。彼も同じく高揚し、だらしなく頬を緩ませている。
ペシペシ、と効果音を発しながら彼女が片手で左胸ばかり何度も叩く。しかし、実際は殴打のような重い音が鳴っている。
連続で叩いているせいか、段々と釘を打つ金槌の音に聴こえていた。心臓の動作不良を彼は心配している。
ようやく信号が青に変わり、戯れているつもりの大きな猫らしき生き物は彼の片足を解放し、歩く。
目的地の洋菓子専門店がもうすぐ見える距離まで来ると染子は珍しく友人の心境を案じていた。
「あの娘達の事も許して欲しい。たとえ、知努が倉持愛羅を許したとしても大事な人を失うかもしれなかった出来事はそう簡単に割り切れないわ」
彼は一切表情を変えず、微笑みながら怒っていない意思を伝える。いつも失敗しない人間などそうそういない。
「分かればそれでいいんだよ。染子の言う通り、大事に想っているからこそ割り切れない。怒りもするよ」
ふと知努が何かを思い出して立ち止まる。彼も財布を忘れてしまったのかと思い、染子は怪訝そうな顔になった。
しっかりと言葉で先程の話題について染子を安心させたいと思った知努が耳元に顔を近づけ囁く。
「染子が抱えている長年の苦しみを入れた匣はいつか手放す日が来る。その日を楽しみに待っているよ」
近い将来、過去の清算をしなければならない日は確実に訪れる。傷が消えなくとも孤独ではない。




