第74話いやらしい動物
妹を安心させるために膝へ座らせたり、食事を用意する事は彼の苦痛だった。しかし、痛みを抑制する神経伝達物質の1つであるエンドルフィンが脳から分泌される。
それにより、妹が求めている献身的な兄を演じられていた。その事実は家から出た人間社会の認識に過ぎず、三中兄妹は相思相愛だと信じている。
育児という苦痛が伴う行為にエンドルフィンが分泌されなくなった大人のように、無表情の彼は昼休みの教室で細々と食事していた。
同じ空間で学ぶ人間達に挨拶、会話などの行為はエンドルフィンが分泌されない。そのため教室から実質、孤立していた。
快楽を得るために動物は生存していると知った時、彼は不必要な痛みを得る必要がないという結論を出す。
いつか痛みを生じる危険がある人間達と我慢して関わり、裏切られて苦しむ行為は余程、痛みに飢えてなければしたくなかった。
起床から就寝までより多くの快楽を得る事が1日に掲げている彼の目標だ。食事によって今、得ていた。
ステンレス製プレートの皿に塩ゆでしたジャガイモと粒状のとうもろこし、炒めたコンビーフ、ししゃも2匹が載った趣向を凝らしている昼食だ。
凶器になり辛いプラスチック製のスプーンを彼が使っている事から囚人の食事風景としか見えない。
昼休みの無法地帯となっている教室はある意味、アメリカ合衆国州立刑務所のような雰囲気があった。
その事実を当人達へ知られない形で彼は非難している。食事が終わると1人の男子生徒は彼に近づいて来た。
黒い髪をワックスで跳ねさせている髪形から教室の中心的存在の男子生徒だと彼は気づく。
1度も会話した事が無いにも拘らず、男子生徒は知努を睨み付けながら話し掛けてきた。
「倉持は前々から俺が狙っている女だぞ。何、勝手に横取りしようとしてんだオカマ野郎」
友人が明らかにいなさそうな倉持常盤も異性から好意を寄せられているようだ。身長と胸以外は大半の異性が惹かれる様な魅力があった。
「俺達は友人同士でないから認識の違いがある。何を以てして、横取りと定義するか明示しなければ答えられない」
理屈を並べていた話し方は、興味が無い相手によく彼は使っている。友好的に思われていない事が相手へ伝わった。
苛立ちを募らせ、彼の胸ぐらへ掴み掛り、返答代わりに彼の左頬を殴る。先程まで得ていた神経伝達物質が消えてしまう。
倉持久遠が彼の教室に入った瞬間に知努は暴力を受けていた。素早く男子生徒の元へ近づいていく。
机の上に置いてある皿を持ち上げ、彼の顔を殴ろうとする。久遠が繰り出した回し蹴りは男子生徒の膝へ直撃し、阻止された。
片膝を曲げながら彼女の方へ男子生徒が振り向いた途端、皿を掌底打ちで飛ばされ、彼の鼻へ当たる。
そして、またバレエ経験者の骨密度が高い右足で膝の側面を回し蹴りされ、激痛のあまり、叫びながら蹲ってしまう。
「私が気に入っている玩具を傷つけないで下さい。約束出来ないなら、しばらくキツイお仕置きしてもいいんですけどね?」
教室の中心的な存在だと信じていた男子生徒は、周りの人間に助けて貰えない。柔らかな笑みを浮かべている彼女の中に狂気があった。
他人の弱音が掴める絶好の機会だと喜びつつ、彼女の妹か姉かの倉持常盤は、スマートフォンで撮影する。
知努の脳はドーパミンを分泌し、窘める意欲が湧いた。理屈で考えると動物の行動は快楽無しで成り立たない。
「そこの美人姉妹、暴力と撮影による快楽なんて高が知れている。それより昼食を用意したから食べよう。食事で得られる快楽は性行為の半分、つまりハーフ〇ックスって事さ」
彼の異様な言動に2人が揃って額へ手を近づけてから小首を傾げる。発熱の影響でおかしくなっていると思われていた。
ゆっくり立ち上がり、男子生徒が反撃せず、蹴られていた右膝を押さえながら久遠に文句を言う。
「俺を怒らせた元凶が平気な顔で蹴ってくるんじゃねぇよ! 大体、俺が告白した後に他の男へ手を出すってどういう事だよ!」
因縁を付けてきた原因が分かった知努は、常盤の控えめな胸を一瞥する。すぐ気づかれてしまい、彼女から拾い上げた皿で軽く叩かれた。
違う世界に生きている男子生徒が一体どんな愛の言葉を囁いたか、知努は興味を抱く。彼も染子へ告白したばかりだ。
「周りから化け物扱い受けている久遠くんが、ね。一体、どんな言葉で口説かれたんだ?」
先程まで笑みを浮かべていた久遠の表情は一気に曇り、俯いてしまう。彼は胸騒ぎがしていた。
「い、言いたくないなら別に言わなくてもいいよ。今日は2人のために食べやすい料理を作ってきたから」
無理やり笑顔を作っている彼は、机の横に吊っていたスクールバッグのファスナーを開けようとする。
久遠が男子生徒から受けた告白の内容を明かし、周りの注目は一気にこちらへ向いてしまう。
「首絞めながら〇ックスしたいから〇らせてくれという告白をされました。笑って誤魔化しましたが、とても辛く、家で泣きました」
大衆は正義から外れる事を嫌い、この空間に男子生徒を味方する様な人間は存在しなかった。しかし、必死に正当性を語る。
「こ、これは軽いジョークだろ。それにこいつも親から〇イプされたって言い回っているし、俺がおかしい訳ないだろ! 三中もそう思うだろ!?」
往生際の悪い男の言葉を無視して、彼は彼女の前に立ち、抱き締めた。驚きつつも彼女が胸へもたれかかる。
昨日、彼が妹へ教えた知識を思い出す。女性は異性の父性的な行動に欲情してしまう。少なくとも腕の中でいる彼女は安堵している。
背筋に纏わりつくような快楽と春の陽気のような温かさをしばらく2人は享受していた。
無言で男子生徒が立ち去った後、椅子に座っている久遠と知努の膝の上へ座っている常盤がタコスを食べている。
レタス、トマト、炒めたひき肉にサルサソースをかけ、とうもろこし粉と小麦粉で作った生地を巻いていた。
「こうして見ると2人はフードコートにいそうな親子ですね。パパのお膝で食べて美味しいです?」
「しれっと私の母親面するな。それより、こいつが父親になったら、娘はどんな人間へ育つだろうな」
常盤の髪を指で梳きながら彼は悩む事なく答えた。実質、父親と同じような感情で接していた女子がいる。
「妹の知羽みたいに育つはず。知羽が困らないようにご飯を作ってあげたり、一緒に寝たり、第2次性徴で起きる問題を手伝ってあげたりした」
思春期の女子の繊細な部分まで関わってしまった事を思い出し彼は赤面していた。妹が大人へ近づく段階を間近で見てしまっている。
両親より接する機会が多い兄へ娘が頼ると見越した母親から第2次性徴に関する知識を教えられた。
それを母親がわざわざ従姉達へ吹聴したおかげで彼女達の面倒も見ている。待遇の差に憤慨し、染子はユーディットを数年近くからかっていた。
「よく義妹と実妹はどっちが萌えるか議論されているが、こいつの場合、妹というより、娘だな」
「本当にお互いが想い合って成り立つ関係性、とてもいいですね。私も想像するだけで気持ち良くなってしまいます」
極力、直接的な表現を避けたにも拘らず、久遠はいかがわしい妄想へ耽りながら顔が上気し、目尻はやや垂れ下がっている。
妹の顔を思い出すだけで無性に会いたくなった彼は、早く放課後になる事を願ってしまう。




