第６話泣く子と染子には勝てぬ
不法侵入と暴行を働く鶴飛染子が1階へ降りて行く、女子らしい小さな足音は、廊下に響き渡っている。毛布の中に仕込んでいたボストンバックを持ち帰っておらず、彼女がまた戻る事は明白だ。
一瞬、見えた彼女の仮面は、仮面舞踏会で紳士淑女が着けているヴェネチアンマスクだとしばらくして、彼が思い出す。幼馴染へ嫌がらせする為に、わざわざインターネット通販サイトで、あのマスクを購入したようだ。
ようやく素人特有の軸がぶれている、派手な回し蹴りで受けた痛みは引いていき、彼が起き上がる。早速、ボストンバッグに警戒しながら近付く。
「クソッ！ チャッキーみたいな事しやがって」
右側のファスナーを開けていくと、折り畳まれている白い洋服らしきものが目に入った。死体処理の道具で知っている、刃物と圧力鍋が見当たらず、ひとまず知努は安堵する。
手に取り広げてみると襟、前立て、胸元、袖口とスカートへ襞装飾を施されている、袖が無い夏用のワンピースだ。洋服の大きさか調べる為、体へ近付けた。女性ものと思えない程、生地の面積が大きい。
数日前、教室から去り際に言った染子の言葉を思い出し、この白いワンピースの用途が判明する。三中知努が男装している女子で無い事は、彼女も理解していた。どうやら女装させて、淫らな行為に及ぶつもりだ。
「お互いの強い信頼関係を構築出来ていないうちからやりたくないな」
恥ずかしがりながらワンピースを着ている姿を見たかったのかもしれないが、幼少期にスカートの類いは慣れていた。多くの男が幼少期の撮影スタジオでおとぎ話に出てくる姫のドレスを着せられている。
幼少期の知努は並の男より多く両親からスカートを穿かされており、もしかすればズボンより多い。それ所か、小学生になるまで彼は、自分の性別を女と勘違いしていたくらいだ。
制服とズボンを脱いでから久しぶりのワンピースを抵抗無く着た。やはり窮屈さ、肌寒さが否めない。鏡台の前に立ち、１０年以来のワンピース姿を眺める。
分不相応なワンピースを着た知努が、他人から性的魅力を感じさせられるか、まだ分からない。脱いだ衣類とズボンを椅子の背もたれに掛け、ベッドの上へ座る。帰って来た母親への披露が楽しみだった。
染子は１階の居間で呑気に再放送中のドラマ鑑賞しているのか、階段を上がってくる気配が無い。
数十分後、部屋の扉が開く。仄かに香るシャンプーの匂いと濡れた髪は先程まで入浴していた事を示している。まだ知努に正体が知られているにも拘らず、未だヴェネチアンマスクを着けていた。
「なめこくん、その先に深い孤独が待っているかもしれないぞ」
ボストンバックから白い爪切りを取り出した染子は、無言で片手を出すように合図する。拒否権が認められそうに無いと察し、大人しく指を開いて差し出す。他人の爪切りする面白さは彼に理解出来ない。
自らする時に無い恐怖ともどかしさを感じて、爪切りされていた動物の気持ちが分かる。しかし、恐怖を盾に、体の自由が奪われていたこの状況は、段々と慣れてしまい、心地良さすら感じてしまう。
染子の爪も白い部分が見えないように切り揃えている。爪切りとヤスリで研ぐ作業が終わり、知努の耳元へ顔を近付け囁いた。
「私はなめこじゃ無くて《《マスカレードS》》。ここで逃げたら、強〇されたって言いふらす」
自称マスカレードSは、軽く唇同士重ねてからすぐ頬が赤くなる彼の肩を掴み、押し倒す。無知な幼少期と違い、この行為の意味をしっかり理解している。
目元の装飾品をボストンバッグへ片付け、熟れた果実のような胸を彼の体に密着させた。加虐性愛嗜好が強い幼馴染に、伴侶として選ばれているような気分へなり、彼の理性が崩れ掛けた。
「その顔、私の可愛い知努らしいわ。私、交尾する前にテレビ見たい」
「は、恥ずかしい！ リモコンはテレビの横だから勝手にどうぞ！」
多少、夢見がちな世間知らずと似た思考がある知努は、そっぽを向く。すっかり調子が狂ってしまう。
染子はテレビの横へ置いてあるリモコンを取り、彼の隣に座った。付き合っていない男女が2人きりの空間は、知努の心拍数を急激に上昇させる。
リモコンでテレビを点けた染子が、録画リストにある映画の題名を眺めた。大体の作品は知努が劇場で観ている。
平然とした態度を保とうとしている彼女もまた、未知の行為に対し不安を抱いていたようだ。
「妖怪大戦争、懐かしいわ。最後の機怪になったチヌコスリと小豆が溶鉱炉へ心中したシーンは鼻で笑った」
彼女の指が彼の双眸へ押し付けられ、悶絶してしまう。すぐ染子は謝罪するも、どこか赤子を相手にするような言葉遣いだった。
辞書のように分厚い小説が原作となっている映画の題名を見つけ、しばらく彼女の動きが止まる。知努は３月の終わりに従姉と鑑賞したばかりだ。
『脱げ』
その結果、情緒不安定の彼女から凌辱され掛けた。拒絶し、彼は腹部を数発殴られる。正気に戻り、泣き出した従姉の精神的看護も行い、軽度の女性恐怖症を患う。
後半の展開が辛く、かつて劇場で鑑賞した後にあまりの切なさに、隣の染子は周りの注目を引く程、泣いていた。前作の時も同じだ。彼女が助けを求めるように、知努の手を握った。
「明日からどういう顔で生きていくか不安だ。だけど、《《俺もその先の事を染子としたい》》」
彼が握り返した手は温かくなっており、暖房器具のようだ。少し勇気付けられたのか、染子は本編を再生し、履いていた靴下を脱いで、床に落とす。
終盤に差し掛かり、物語が孕んでいた生々しく黒い人間達の歪んだ感情は、容赦無く解放される。急に彼女が左右の親指を顔へゆっくりと近付けていた。
従弟、幼馴染の男子と２人だけの状況下で、この作品は特定女子の抑圧されている感情を引き出してしまうようだ。
大人達の身勝手な思惑に巻き込まれた主要人物の少女は染子となり、虚構と現実の境界線が無くなっている。知努は素早く彼女の両手首を掴み、顔から離させた。
「私が生まれなければ両親もきっと幸せだったはず。どうして生まれてきてしまったのだろう」
独り言のように呟く彼女の手首に自傷痕が無いか確認する。幸い、日常的な自傷は行っていなかった。彼が、後ろから染子を力強く抱き締めながら大粒の涙を零す。
「そんな事気にしなくて良い！ 染子は俺の人生に必要な女の子だからもう自分を傷付けようとしないで！」
知努と同じように彼女も頬を濡らした。思春期特有の情緒不安定だけと考えられない染子に潜む心の苦しみをいずれ彼は、知る必要がある。
一方、従姉の精神を覗くと、恐らく深淵の底へ引き摺り込まれて、２度と日の目を見る事は無いだろう。
物語が終わり、彼女はリモコンでテレビの電源を消してもたれ掛かる。１階か妹らしき足音が聞こえ、知努は夕食の支度を思い出してしまう。
「はい、もうダメ子ちゃんはお家に帰ろうね。バイバイ」
彼が流れていた染子の涙を拭ってから抱き上げ、扉の方へ運ぼうとするも猫のように暴れ出した。妨害の末、恣意的に落下し、床で左脛を打った女は骨折したと喚き散らす。
次第に亡者の呻き声のような野太い声を叫び出しながら左右へ何度も転がる。スーパーマーケットの菓子売り場で親に駄々こねる幼児と似ていた。
「シャワー浴びてくるから少し待ってて。それと出来れば靴下を穿いて欲しいかな」
苦々しい表情の知努は、下品な幼馴染の計画に乗る事を決めた。無理やり帰せば風評被害が待っている。
１時間が経過し、毛布の中に潜り込んでいた彼は、バスタオルを体に巻いている染子と指を絡めた。長い友人関係は、１時間でとうとう崩壊してしまう。これが三中知努と鶴飛染子の人生における大きな分岐点だった。
