第17話殻破り
翌朝、染子と話し合った結果、表向きは破局している体で振る舞う事を決めた。そうしなければ、染子の父親と殴り合いの喧嘩が、彼女の誕生日前に発生する。
癒えてない拳で行いたくない為、数日間だけ彼女に父親の思惑通り動いて貰う。親の権限がまだ有効だと彼女の父親は自惚れて、家庭内の波風は立たなくなる。
他にも祖父母の調停や、《《危険な女子》》の助太刀など様々な問題を抱えており、妨害が入らない状態まで知努は争う時機を待つ。
染子の誕生日当日、近所の洋菓子専門店が『頂上作戦』と命名される不定期の催しを行う。茶会の為、特定の客が商品のほとんどを買い占める。
買い占めを受けた後の店内は、暴力団壊滅作戦を連想させるような侘しい光景になった。現店主が『仁義なき戦い』シリーズを好み、そのように命名する。
30年程続いており、店は度々、地元の人間から《《配給制時代の甘味処》》と嘲笑を受けていた。
『頂上作戦』の合図として、当日、鯉口シャツの上に黒の法被を羽織るテディベアが展示され、客をもてなす。
法被の背に、四方の沢庵と中央の白い茶碗の模様があった。『ショーカズ』の名前を付けているにも拘らず、周りの人間は『三代目』や『熊』としか呼ばない。
彼の祖父母が、店側にとって書き入れ時の茶会へ参加する為、日中不在だ。
倒れた男の顔面へ金槌を振るう悪夢を見た影響で、知努は数日間、食事していない。相手の顔や行為の動機を思い出せないもどかしさが、食欲不振を誘発した。
鉄砲玉のような乾いている眼光の彼は、通常通り通学路を歩く。知努の後ろ髪を結ぶ為に使っている黒いシフォン素材のリボンは、今朝、悲しそうな母親が渡してきた。
シフォン生地と色合いのせいか、喪に服す印象を与えるリボンだ。猫の習性同様、苦しんでいる様子を隠していても、彼女に知られていた。
「僕はジャックの無駄な人生です」
空を眺めながら知努が脊髄反射で映画の台詞を引用する。染子の弁当作りの作業だけ唯一、彼の心は人間に戻った。
正門付近で白の箱らしき物体を持つ女子を見つける。白のブレザー制服を着用しており、明らかに校区が違った。
「兄様!」
対面の女子も知努を視認し、珍しい鳴き声を発して駆け寄る。彼は『南極物語』の樺太犬と彼女の姿を重ね合わせた。しかし、先入観が強く、ピューマにしか見えない。
再会を喜ぶ事無く、知努は不快感を示す。かつて彼女の両親の圧力でピューマと距離を置いた結果、命を狙われる。
憎しみを一旦抑えて、猛獣が何かを差し入れに来たようだ。同じ食肉目の家猫と同じく気まぐれな性分だった。染子のような他者への攻撃は基本行わない。
誰かの管理下から逃亡したのか、彼女が腰縄を着けている。獲物を追い詰めて早々、風呂敷で包まれていた箱を押し付け、わざとらしく鼻を鳴らす。
そして、当然の権利の如く、唇を重ね合わせる。怪しい物品のやり取りを公衆の面前で行っていたと勘違いしているのか、学生達は足早に横切った。
紅茶の独特な香りが彼女の唇から漂う。彼は身体を引いて、軽く礼を伝えた。箱の正体が重箱と持って気付く。そして、登校を促すも彼女は首を左右に振る。
「今日は出席せず、私と兄様だけで《《行楽》》を楽しみますわ」
「そろそろおしぼり配達のバイトに行く時間か。あー金が無ぇな」
知努が左手首の内側を注視して、貧乏な落語家の真似をした。提案を受け入れない彼の態度に、ピューマの表情が険しくなる。
「別に構いません。鶴飛火弦という恋人を相手の両親から強奪出来なかった、負け犬にド突かれて泣き寝入りする、意気地無しに用は無いですわ」
「でも良えでっか? 前向いても崖、後ろ向いても崖やで。あんじょう性根入れて歩くこっちゃな」
彼女の突出していた頬が般若の面と似ており、不機嫌な時は恐ろしい面持ちへ変わる。しかし、知努は全く怯んでいなかった。
「儂も余所の傷あり売女に用事無いわボケが。早よ去ね」
活力の無い声で吐き捨てる。重箱を地面に置き、他の生徒達同様、彼が登校を再開した。長年の関係性を一方的に打ち切られ、猛獣は呆然と立ち尽くす。
ピューマを管理していた女性がようやく発見し、腰縄を掴む。カーキ色のミリタリージャケットを着た彼女は、置き去りの重箱から事態を把握する。
「ボクが代わりに渡すって約束しただろ。当分チー坊に接近禁止だ」
猛獣が大人しく縄を引っ張られながら何処かに連れて行かれた。第3者の仲介無しに男女の復縁は叶わない。
数時間後の昼休憩、今朝と大差無い表情の知努が、用意した弁当箱を持って歩く。校舎へ入ってからまだ声すら発していない。
弁当箱の1段目は冷凍食品とだし巻き卵焼き、2段目が3色そぼろ丼だ。
彼女の教室に入ると、染子の座席は誰も使っていない。すぐ当人の姿を奥の窓際で見つけた。女子生徒に陰謀論を吹き込んでいる。
洋菓子専門店の品薄状態が秘密結社によって引き起こされていたと主張し、彼女達はそれを疑わない。何故か店の商品が年貢のような扱いの体で話は進む。
教室の出入口まで彼女の声が聞こえていた。あまりの滑稽さに、知努は笑いを堪える。容姿さえ良ければ多少の目立ちは許容されるようだ。
彼が彼女の座席へ向かい、修道女の服装をした茶色のウサギのぬいぐるみと、鶏卵の装飾品を見つける。
卵全体は橙色に塗られており、波乗り蛙も描かれていた。知努が眉を顰めながらウサギのぬいぐるみから視線を逸らす。持ち主は櫻香の妹だ。
弁当箱を机上に置いてから彼は、教室を出る。いつもと違う髪形のせいか、周りの視線が少し集まっていた。
知努は自分の教室へ戻り、彼の座席が占領されている状態に気付く。特徴的な湾曲を描いていた黄金髪の女子、ユーディットはそこで食事中だ。
正門付近で知努が捨てたはずの重箱を回収し、3段目の料理に手を付けている。女子生徒の1人は彼の存在を彼女に伝えた。
「大丈夫よ。三中負け犬に私を殴る根性なんて無いわ」
部外者に煽られる知努が俯き、老犬のようなゆっくりとした足取りで彼女の方へ歩む。女子生徒に固唾を呑んで見守られながら、ユーディットの隣の座席へ座る。
暴力を振るわない事を確認し、女子生徒はその場を離れた。半分程平らげ、ユーディットが彼の前へ重箱を置く。中身は冷えた『あなご飯』だ。
知努が3段目と2段目を取り外し、全ての中身を確認する。2段目は沢庵と《《大柄なバッタ》》らしき昆虫の佃煮、1段目が牡丹餅数個を詰めていた。
海老の天ぷらと詐称し、染子から何度もバッタの天ぷらを食べさせられている彼は、昆虫全般に苦手意識を持つ。突起のある前脚でイナゴの可能性を失う。
周りの生徒達が見つけて叫び出さないうちに、知努は佃煮を食べる。染子の虐めが原因で、小学生の彼は昆虫への恐怖心が極度に強かった。
その結果、教室でミミズを無理やり食べさせようとする同級生の腕の皮膚を噛み千切ってしまう。約半年間、同級生達から危険な子熊の認識を持たれた。
昼休憩の終了10分前に、彼は昼食を済ませる。数日ぶりの食事が平常時より美味しく感じて、重箱の中身はすぐ無くなった。
「ダメね、この主人公。愛の前に立ちはだかる壁を乗り越えないなんて」
中綴じ冊子を机に置き、ユーディットが内容の文句を呟く。冊子は鶴飛火弦のほろ苦い過去を基に作られた恋愛漫画、『鶴の一人芝居』だ。
作者の櫻香が文月の姉に贈った作品は何者かによって重版され、不特定多数の手へ渡っている。ピューマも重版本で鶴飛家の悲恋事情を知った。
ピューマの『兄様』、従姉の『チー坊』はモンタギュー家の嫡男に見立てられている。一方の染子がキャピレット家の娘として、女子達の分身にされた。
想い人との約束を守る為、三中知努は決断を下す。彼1人の力で鶴飛火弦との全面衝突に臨む。誰の妨害も受けない絶好の時機が今日しか無かった。
 




