第144話健気な監視者
「No Oranghutan」
染子が敢えて英語を使用し、罵る。留守番中のオランウータンへ非を押し付けていた。その意図を汲んだ涼鈴は不憫なアパアパを庇う。
ミユビナマケモノのぬいぐるみを膝へ載せたまま、知努がリュックサックに入れている土産を取り出す。地遊館で購入していたカステラ焼きだ。
それを机の上へ置き、地遊館の展示内容を軽く話す。ジンベイザメやアカシュモクザメなど、軟骨魚類に偏っていた。その横で、染子はタブレットを操作し、話題性の高いイラストを探す。
噴流戦闘機らしきイラストが彼女の目に留まった。銀色の主翼や機体へ赤い星の印を付け、機首の先は巨大な吸気口を装備している。左右の主翼下部に、それぞれ紡錘形の爆弾らしき武装もあった。
「これにイランウータンを乗せて、北方領土の〇ワン共へ爆弾と猿インフルをばら撒くぞこの野郎! そうすれば今よりイクラが安くなって、バケツ一杯食べられるわね」
タブレットの画面を周りに見せ、地遊館の話を中断させる。イラストを描いた人間が彼女へ残酷な現実を突き付けてしまう。当然のように、アパアパを架空病原体の宿主とされている設定は無視した。
「ミーク・ピトナーッツァチビス君のそれ、爆弾じゃ無くて増設した使い捨て燃料タンクだぞ。それと、半世紀以上前の機体で軍施設を制圧出来る訳が無いだろ」
斎方の祖母は、オランウータンの戦闘機操縦士適性を疑問視する。滑走路からの離陸すら高度な技術を要求されていた。知努もそれに同調し、螺旋翼機の操縦士を打診する。
地遊館の展示内容を話し終えた後、涼鈴に促され、彼らは玄関へ向かう。そして、斎方の祖母に見送られながら斎方の家を出た。5年ぶりの交流で、知努の蟠りが解消される。
染子を家へ帰し、1度帰宅した彼は、フタユビナマケモノのぬいぐるみも留守番させて、ユーディットの家へ行く。絹穂との約束を果たす為、この訪問が新たな問題を生む原因となるだろう。
自転車を漕いで正門の前に到着した彼はインターフォンを鳴らす。すぐ玄関から灰色の長袖Tシャツを着たユーディットが出て来た。予め知努は訪問の意思を伝えている。
彼女の両親が出掛けており、非常に好都合な状況だった。クーちゃんは居間で寛いでいるはずだ。庭へ入り、知努が軽く挨拶して自転車を停めた。
何か勘付いているのか、彼の手を握って部屋へ向かうユーディットの表情は険しい。互いに辛い気持ちを招く話が待っており、当たっていた。
「もしかして、私との京都旅行は中止になったの?」
部屋の扉を開けて、彼女は前を向いたまま、訊く。まだ両親へその話をしておらず、彼が即座に否定した。そして、絹穂と知努の、悲しくも残酷な過去の出来事をユーディットへ打ち明ける。
その話を訊いた彼女は振り向き、彼の頬を強く打つ。怒りと悲しみが混じり、睨みながらも双眸から涙を零していた。当事者としての記憶を持たない彼は弁解出来ず、帰ろうとする。
ユーディットが絹穂への認識を改めていれば十分だ。彼女に軽蔑されて当然の所業を行っている彼は、その感情を受け入れた。
しかし、ユーディットが知努の片手を掴んで引き留める。これ以上の会話を望んでいない彼は、旅行の中止を悲しんで誤魔化す。彼女が手を引っ張り、部屋へ引き込んだ。
「今はそんな事どうでも良いわ。どうして私から離れようとするの?」
「いても気まずいだけだから。俺はユーディットを困らせたくない」
知努を床へ座らせ、ユーディットは顔を左右にゆっくりと振る。彼の膝の上へ座り、額同士を重ね合わせた。パキケファロサウルスの習性を知努は連想する。その事を伝え、彼女に太腿を抓られた。
「私はチー坊のした事を赦せない。でも、殺人鬼だなんて言わないわ」
「ありがとう」
彼が感謝して、ユーディットの両肩を軽く押す。しかし、彼女の額は元の位置へ戻る。茶化していないにも拘らずユーディットが訝しむ表情を見せた。
知努の他人行儀な振舞いは、何かの事情を隠している。追及を逃れられないと悟り、彼が先延ばしにしていた問題の解決へ着手する旨を話す。
知努と『般若』の義兄妹関係を解消し、それぞれ別の道を歩むつもりだった。彼女は一家の発展に貢献して、真っ当な人間へ変わらなければならない。いずれ三中家の長男が厄介払いとなる。
解消の関係によって、発狂した『般若』は知努の周辺へ災いを齎す。その対策として、しばらくユーディットに会えなくなる。
「ダメ、私とクーちゃんがしっかりチー坊を監視します」
彼女は抱き締めて、彼の帰宅を阻む。良い返事を聞けなければユーディットの拘束が解かれない。知努はこれまで通り彼女と会う事を約束した。
背負っているリュックサックを横へ置く。すると、ユーディットが前方に体重を掛けて押し倒す。驚く彼の胸へ横向きの顔を移動させた。知努は彼女の髪を柔らかな手付きで撫でる。
主義を貫きつつも、ユーディットが彼を拒絶しなかった。彼女を信用し、通常通りの接し方をする。
「喪った命はもう2度と戻らないから、復讐より周りの命を大事にするよ」
ユーディットが軽く頷いて目を閉じた。唐突に、チャープ上での染子の投稿内容を話す。噴流戦闘機、『ミート・ピーナッツブス』へ搭乗したアパアパを、巨大宇宙船の主砲に体当たりさせるようだ。
その光景と共に、旧ソビエト連邦国歌、『祖国は我らのために』は彼の脳裏で再生された。オランウータン1匹へ国家の命運を託す連邦政府が滑稽だ。
染子の戯言を真剣に取り合っていない知努は、ロシア語で別れの言葉を送る。ユーディットが日本の伝統芸と揶揄した。アパアパの命は蚊同然の認識だ。
2分程会話が途切れ、彼女の方から『般若』との関係解消の必要性について訊く。関係を継続していれば、誰も被害を被らない。
「あっちの両親は俺達の関係を良く思っていないから、遅かれ早かれ終わりを迎える」
「俺の存在が足枷なら、出来れば今のうちに潔く身を引きたい」
彼は別の人間との関係解消も行ったのか、拳を固く握り締める。視野を広く持ち、与えられていた役割を考慮する判断だ。ユーディットは不服そうに鼻を鳴らし、宥めた。
昼食をまだ取っていない彼は、帰宅の意思を伝える。彼女も同じく取っておらず、空腹を訴えた。ユーディットを起こし、知努は居間へ行く。
単独行動に飽きた犬を抱き上げて、彼女が調理する様子を眺めた。彼は冷凍食品の炒飯をフライパンで炒めている。昨夜もアパアパを抱く涼鈴に見守られながら夕食の用意をした。
「頑張って母親やっているヘラに母の日位感謝しないとダメだよ」
数分後、手洗いし、知努が2つの炒飯を机へ運ぶ。クーちゃんを降ろして、手を洗いに行ったユーディットは赤いカーネーションを贈る役目を任す。
着席した向かい合う2人は合掌し、食べ始める。彼女がこの食卓を同棲中の男女と形容した。知努はスプーンで炒飯を掬ってユーディットの口へ届ける。嬉しそうな表情を浮かべ、彼女が食べた。
食事の後片付けも、ユーディットとクーちゃんに見物されながら彼は行う。同棲の予行練習をさせられているようだ。
 




