第142話襲金
翌朝、大型連休最終日の予定は、楽しかった旅行の余韻を消す。知努が5年ぶりに母方の祖父母と会わなければならない。彼は母方の祖父から恨まれている。
知努が茶色のウサギ、マロンの殺処分を契機に、別の動物も殺してしまった。母方の祖父は許されない過去を棚に上げ、彼の行為を憎む。
「The horror」
仰向けで横たわる茶色のウサギのイラストが、タブレットの画面に表示されていた。知努へ命の軽さと人間の残虐性を教える。製作者の彼はタブレットを持つ両手を震わせた。
対面する相手が身内の為か、黒い長袖Tシャツとジーンズパンツの格好だ。服に『Straight Outta Jokawa』の白い英文を載せており、帰属意識の強さを表現していた。
腰掛けているベッドから立ち、知努がそれを学習机に置く。母方の祖父への恨みは無く、後悔の念だけが残る。孫に冷酷な行為を強要した男は、娘の怒りを買い、無縁仏へ納骨される危機が迫っていた。
知努はアパアパを部屋に連れ戻す為、1階へ行く。目を離した隙に外出していた。部屋で留守番が、今日ぬいぐるみへ与えている役目だ。
誰か入室しているのか、防音室兼物置部屋の扉が開いていた。彼は中を覗くと、演奏用の椅子にアパアパが座っている。紺色の法衣を纏い、首から茶色の本式数珠を下げていた。
知努は引き寄せられるように、ぬいぐるみの隣へ座り、ピアノを弾く。悲しみの種子を人々の心へ蒔いた小さな命を彼が想う。クリスマスと関連性が強い季節外れな曲だった。
読経代わりの演奏を終えると、アパアパを配置した人物は廊下から現れる。そして、スマートフォンで撮影した。知努がすっかり彼女の思惑通りに行動している。
「今日はその格好でマロンの法事だな」
ぬいぐるみを赤子のように抱き上げ、彼は部屋へ連れて行く。ベッドの外側に置き、頓悟の禁止を命じた。荷物の用意をしながら知努がアパアパへ1つの問い掛けを出す。
「ある時、弟子の1人の僧が和尚に訊きました。”犬の仏性はありますか、無いのですか”」
「和尚がこう答えました。”仏性は無い”」
黒のリュックサックとモッズコートを持ち、彼はぬいぐるみに留守番を任せる。霊感の無い空き巣が気味の悪さを抱く不気味な装いは防犯に効果的だ。
知努が階段を降りている最中、知羽も部屋から出た。白猫達の面倒を見て疲弊しているせいか、重い足取りだ。昨夜以降、彼女の開口する姿はどの家人も見ていない。
マロンの存在を確かめた彼が、斎方の祖父と会う覚悟を持つ。小さな命を蔑ろにする人間の批判は、体裁を整えていただけだ。都合の悪い事実から目を逸らしていた。
玄関で靴を履き、彼が扉を開ける。不在の忠文は奉仕活動を行っていた。妻の信頼を回復させる為、洋菓子専門店の雑用係として、開店準備に勤しむ。それぞれ充実した休日を過ごす。
涼鈴が運転する車の助手席へ座っていた彼は、外の風景を漫然と眺める。能動的に話す事が苦手な性格だった。古い邦画の登場人物も寡黙を美徳としており、不器用な人間性へ拍車を掛ける。
検事の家庭らしく、三中家はドイツ製小型乗用車だった。ピザを彷彿とさせる、名称の常時四輪駆動機構が大きな特徴だ。手動で変速する仕様の為、涼鈴は運転に気を抜けない。
「ちーちゃん、1度別れちゃったからモテるけど、なかなか結婚出来ない男になりそうだね」
「〇ルシェや〇ェラーリーに乗っているマイアミの道楽刑事じゃ無いから、大丈夫と信じたい。ウーサー」
染子がいない今を狙って、彼女は本音を漏らす。彼が左右の耳朶を摘まみ、虚勢を張る。後部座席の知羽は全く話題に興味を示さなかった。
鶴飛家の門の前で停車し、他家の老人から集金する女子が後部座席へ乗り込む。黒と白のボーダー柄のセーターを着ていた。可憐さを強調し、他家の老婆を味方へ付けようと画策する。
「Ola chica。これから悲しい過去を知る事になるけど、他言無用で頼むぞ」
「チーカの弱みを握るの楽しみね。それよりオノレ、オランウータン保護促進税はよ払わんかい」
新しく定められた目的税は、染子の私腹を肥やす結果しか生まない。その催促だけ粗暴な似非関西弁となっていた。納税義務の無い知努が母親へ代理を頼み、解決する。
動き出した車内で、染子は車両窃盗未遂の出来事を話す。ある夜、金槌とスコップを持った車両窃盗男達が、老夫婦宅の車庫に入る。人気の高い国産SUVを駐車していた。
しかし、家主に見つかり、格闘となる。彼らの何人かは手足を飛ばされた。車両窃盗が未遂に終わり、その国産SUVは盗もうとする人間の手足を飛ばす車両と噂されてしまう。
彼女が母親とアパアパに合う車種の話をした時、その事件を教えて貰ったようだ。洋菓子専門店の店主も、所有する乗用車を度胸試しで窃盗しようとした男達を叩きのめしている。
「第1世代の7〇はレアだから特に狙われやすい。窃盗犯達が災難だな」
「頑固そうなオランウータンにお似合いよ。私の母親もそう言ってたわ」
老人の国産SUVは堅牢の車体構造と高い悪路突破性能を持つ。オランウータンが好物のいちじく狩りや野営へ出掛ける際、適していた。しかし、好みの分かれる内装だ。
知努は、圧縮着火燃焼機関搭載車に必要な燃料の種類を教えた。昨日まで染子がレギュラーガソリンを全ての自動車へ給油しようとしている。
彼女は圧縮着火燃焼機関の大きな駆動音に文句を漏らす。授業参観日の朝、染子が件の国産SUVで学校へ送迎して貰い、乗り心地を体感する。
運転手の老人を鶴飛家の小間使いとして、教室の級友達に紹介したようだ。それを当人に伝え、日当を要求される。涼鈴が苦笑を浮かべて窘めた。
すぐ何かを思い出し、彼女は急に神妙な面持ちとなり、染子へ忠告をする。茶々を入れられない三中知努の深刻な問題だった。
「ちーちゃん、マロンも斎方のお爺さんの事も覚えているけど、おーちゃん達の父親だけ忘れているから絶対口にしないで」
夜中に洋菓子専門店からレジスターを盗んだり、男子小学生の奇襲を受けて瀕死状態となったりする過去が有名な男だ。知努も何かしらの被害を受け、その男の存在を記憶から抹消した。
集金に差し障る事態を避けたい為、彼女は頷く。退屈凌ぎで隣のスマートフォンを操作している、兄の腰巾着へ曰く付きぬいぐるみの怪奇現象について訊いた。
「知らない。起きていると思うなら起きているし、起きてないと思うなら起きてないよ」
知羽の含みのある返答が不気味さを醸し出す。超常現象を信じない涼鈴はアパアパに守って貰うと軽口を叩く。展示していた洋菓子専門店が今日も変わらず営業している状況はその答えだ。
数分後、2階建て日本家屋の小さな庭へ駐車して、彼らが降りる。染子は呼び鈴を鳴らさず、不躾に玄関の引き戸を開けた。
知羽の名前を騙り、数年分の年玉を要求しながら血縁者の誰より早く屋内へ入る。




