第138話新世界
射的場へ向かっていた最中、何度も絹穂のスマートフォンから通知音を響かせ、その度に彼女は確認し、溜息を吐く。知努が苦笑しながら心配し、事情を訊いた。
絹穂は『般若』の妄言を延々と聞かされている状況を話す。知努と火弦の諍いや、彼に関する様々な厄介事へ関与出来なかった事で、『般若』が後悔している。
しかし、知努は彼女の無用な関与によって、濡れ衣を着せられた過去があり、安堵している。彼女の両親すら、彼を危険な宗教団体の、教祖同然の認識を持つ。
『般若』が勝手に知努を崇拝すべき存在として祀り上げているが、その実態は傀儡体制だ。赤虎の秋田犬と同じ扱いを長年受けていた。過保護、過干渉の華弥が極力関わらない程、『般若』は恐ろしい女子だ。
「俺が教唆したような扱いを受けるから、ずっと後悔しててくれ」
それに同調し、文月はユーディットの凶暴化の責任を押し付けた。異常な支配欲を抱くまで手が出る事は無かったようだ。腐ったミカン呼ばわりし、ユーディットに勘違いされて頬を強く抓られる
射的場の店内へ入り、数段あった雛壇のような長い台に、多くの菓子箱が並べられている光景を見て、秋菜は驚く。縁日のそれと比べられない規模だった。
中央部には小柄なビリケン像が鎮座している。ユーディットは、父親が居間で観ていた洋画の登場人物を連想するも、人物名を思い出せない。
主人公の刑事から煙草を取り上げようとし、白髪頭の組長に叱責されていた場面だけは覚えている。それを話すと、知努がすぐ俳優名を教えた。劇中で組長の用心棒以上の情報は明かされない役だ。
染子が有名な彼の芸をアパアパに真似させた事を話す。一糸纏わぬ姿という余計な情報を付け加えており、胸板を高速で叩く変質者に仕立て上げた。周りの男女は彼女の思惑通り、ぬいぐるみの行動を軽蔑してしまう。
映画の話題になると、水を得た魚のような饒舌ぶりを披露していた彼は、珍しく映画の内容に触れない。何か察した京希がビリケンの利益に関する内容を教え、取り繕う。
料金を支払い、彼らがそれぞれ遊戯銃へコルクを詰める。手頃な菓子を狙い、コルクを飛ばし的外れな方向へ飛んだり、跳ね返されてしまう。口々に射的の難しさを漏らし、次のコルクを詰めた。
全てのコルクを飛ばし尽くし、何の成果も得られていないユーディットは隣を見る。彼が射撃訓練を行う自衛官のような鋭い眼光で引き金を引く。コルクは菓子箱の角へ当たり、段から落とした。
反対側で同じく見ている絹穂は、『般若』の口調を真似て褒めながら彼の片腕に抱き付く。語尾が若干伸びていたせいか、関西弁のように聞こえる。
腕を解放された後、知努は残りのコルクを飛ばす。次々と景品が棚から落ちて、周りの注目を集める。知努は店主からキャラメルとビスケットの箱を受け取り、小学生2人に渡す。
標的を狙う際の横顔に美を見出し、ユーディットが唖然とした表情で硬直する。石膏像のような無機質ながらも、澄んだ瞳をしていた。
彼女の体調を心配しながら知努は近寄り、背中を擦る。ようやくユーディットが正常な反応を示し、先程の横顔を褒めた。
コルクを狙い通りの位置へ飛ばせず、苛立っている染子は執銃の号令を指揮官と同じ声量で出す。すぐ文月に頭を叩かれ、誰も号令通りの動作を行わなかった。
知努が退店を促し、扉の方へ向かおうとする矢先、絹穂は執銃訓練をさせられた過去を訊く。彼が動揺しつつ否定する。文月はその話題を訊き出す為、彼の腕を掴んで止めた。
観念し、知努がその過去を話し始める。小学生低学年の時期、洋菓子専門店の店主に誘われ、訓練を受けた。動作の正確性を求められ、何度も同じ動作をやり直す。
その甲斐あって、一通り出来るようになった。しかし、現在まで培った内容は全く活かされていない。訓練終了後、母親の涼鈴やその他数名が他人事のように、彼を撮影した。
知努の苦労は彼らに通じず、煽りのような労いの言葉を送られる。ユーディットが小銃を肩へ担いだ軍装姿のチンパンジーを連想した。無意識にチンパンジーの名前を呟く。
「誰や! 今ルタ言うた奴!」
知努は次々に、男女達からチンパンジー扱いを受け始めた事で、ユーディットが彼の苛烈な関西弁を向けられない。そして、射的を済ませた彼らが店を出て、当初の予定に戻る。
大きなビリケン像を設置されていた丁字路で人だかりを見つけ、秋菜はすぐさま確認しに行く。知努が彼女の首根っこを掴んでいなかった事を悔やむ。
人だかりに近付くと、赤毛の秋田犬を若い男女達は触れたり撮影したりしていた。秋菜も無愛想な面持ちを気に留めず、頭を撫でる。飼い主の中年男性から犬好きかどうかを訊かれ、彼女が肯定した。
しかし、『秋菜犬』と言い間違える。周りの若い男女もそれに合わせて呼び、彼女は恥ずかしさのあまり、不貞腐れた。
知努が節操無い秋菜の態度を注意し、飼い主は彼を彼女の母親だと勘違いする。誤解を敢えて解かず、知努が秋菜の粗相を謝罪した。秋菜犬は彼の匂いを嗅いで、そのまま地面へ伏せる。
若い男女達が別れの挨拶を掛け、立ち去ってからユーディットや慧沙は犬の背中を撫でた。繁華街で秋田犬の散歩すると、多くの観光客に注目されてしまう。人馴れしていた犬が一定の警戒心を持ちながら応対する。
友好的な態度を見せない様子に、秋菜は落胆した。自尊心が強い犬種である事を知努は教え、しゃがんだ。後ろの忠清が彼の背中越しに眺め、恐れていた。
「クーちゃんもしっかり躾けしないと、玄関を破壊しそうね」
ユーディットの言葉を誤魔化すように、知努は乾いた笑いを出す。両親が特別甘やかしていないにも拘らず、彼は周囲の人間から非行青年の烙印を押されていた。
散歩を再開する気持ちが戻ったのか、秋田犬は起き上がり、特徴的な巻き尻尾を見せる。そして、飼い主と共に歩き始めた。背中が見えなくなるまで見送り、彼らは秋田犬の印象を話しながら通天閣へ向かう。
中へ入り、近くの券売機で入場券を購入した後、エレベーター前まで広がる長蛇の列へ並ぶ。夏鈴の近況報告を受けた文月がスマートフォンの画面を周りに見せる。
LIFEのメッセージと、灰色のパーカーを着ていた櫻香の画像だ。横須賀のカレーライス店で昼食を取っており、その様子を撮影していた。スマートフォンを向けられ、櫻香は目線を反らしている。
数秒後、新たな報告が送られ、その内容に彼らは憐れんだ。帰りの便が早朝の為、2人は空港の座席で一晩を明かさなければならない。
「もし、同じ状況になったら兄さんが見張り当番よ」
絹穂を危険な目に遭わせられず、知努は渋々承諾した。夏鈴も社会人である身分を理由に、婚約者の睡眠時間を奪う。彼女の就寝後、櫻香は新たな友人のテディベアと役目を担う。
スマートフォンの通知音が鳴り、知努は上着のポケットから出す。日頃と変わらない文章体で常盤がチャープのメッセージを送っていた。
『おい、当然、私の土産も買ってあるだろうな? もし買ってなかったらお前の小さい金〇をスマートボールに使うぞ』
不必要な侮辱を受け、彼は夏織の挨拶を返答に用いる。すぐ彼女が明後日、知努の去勢手術予定を知らせた。




