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第五話 通行料はこの命! 取れるものなら取ってみよ!

 自室に戻ったタイタニア。

 バルカンヌとのいきさつを説明し、ジュリアスに相談をしていた。


「そのお話は、本当なのですか、ティナお姉様……?」


 向かい合うソファーに行儀良く腰掛けるジュリアス。

 固唾を飲んで、タイタニアの話に耳を傾けていた。


「そうなの。アイツ、私のことを母体としてプロードシアに献上するって、そう言ってたのよ!

 ああいう性格って、昔から知っていたけど……そこまでやるなんて」


 タイタニアは唇を噛み、苦々しさを眉に浮かべ、バルカンヌの非道ぶりを訴える。

 胸から腰に巻き付けたシーツは、邸宅内を疾走した際にぼろぼろになっていた。


「……まさか、大旦那様がそんなことをおっしゃるなんて」


 ユーリカは室内用ローブを持ってきて、後ろからそっと掛ける。

 タイタニアの隣のソファーに腰掛けた。

 どこかタイタニアの心中を察するような、憐憫の色を帯びた眼差しをしている。


「それを分かっていながら、なぜこのタイミングでプロードシアと縁談を……?」


 ジュリアスは腕を組み、うつむいて考え込む。

 レヴィンがおもむろに、ソファーに掛けたままジュリアスの方に身体を向けた。


「恐れながら御曹司、今回の話の流れを察すると、やはり、ブリュグナント公は盟約に背く意向があるのでは」


「ティナお姉様のお身体のことをそこまで把握しておいて、今回の行動。もし、それが本当だとすると……」


 レヴィンの指摘に、静かにうなずくジュリアス。

 その美少女的な端麗な顔に、苦悶の色が広がってゆく。

 よほどの事態が裏で進んでいるとでもいうのだろうか?


「ジュリちゃん、何か知ってるの? ウチのゲス親父、何をしでかそうとしているの?」


 自分を取り巻く真実を確かめたい――タイタニアはローブを羽織りながら、ソファーから身を乗り出した。

 少し間を置いてから、ジュリアスはゆっくりと口を開く。


「実は……僕たちは、新たな同胞としてティナお姉様をお迎えするため、ハンザにやって参りました」


「新たな同胞って……?」


「僕たちが腕にまとったもの、そしてティナお姉様の腕を覆ったあの甲冑のごときもの……それこそエリュシオーネたる何よりの証、『装甲思念体』です」


 室内が、シン、と静まりかえった。

 身を乗り出したタイタニアも、タイタニアの隣に腰掛けるユーリカも、ピタっと動きを止める。


「私の身体が……同胞って、そういうことなの?」


 思わず両肩を抱きしめ、小さく呟く。

 漆黒の巨体を葬ったとき、紅蓮の甲冑のごときものが両腕を覆っていた。

 体内からあのような装甲が生えてきたなど、今でも信じがたいものがある。

 だが、単なる奇病の類とは言えない。

 止めどもなく湧き上がる力の感覚、そして、漆黒の巨体の撃破。

 有翼の鎧天使という異名をもつエリュシオーネ――その神格化された超越種族であることの、何よりの特徴である装甲思念体。

 タイタニアの思考の中で、断片的な情報が次々と結びついていた。


「体内の装甲思念体の覚醒が近づいたら、エリュシオーネの里にお迎えし、そこでエリュシオーネとしての心技体を学んでいただく――それが、帝都の系譜たる各家門と『エリュシオン』との間の盟約なのです」


「盟約……? その『エリュシオン』というのは、どういったものなの?」


 今まで聞いたこともなかった事実が、ジュリアスの口から聞かされる。

 未知の真実との遭遇に思考を揺さぶられながらも、事態を把握すべく問いかけた。


「ごめんなさい、ついうっかり……正式には、汎国家文明統治機構・エリュシオン。旧世界崩壊以後、この地球上の秩序維持を担ってきた、エリュシオーネたちによる組織です」


「うへぇ……そんなものが、この世界にはあったのね」


 タイタニアは驚きを隠せず、ぽかんと口を開けた。

 『エリュシオン』――旧世界の言葉であり、永遠の楽土という意味を持つ。

 無軌道な文明発達を適度に抑制し、長く平和と秩序を維持することを至上命題とする超国家的組織。

 エリュシオーネたちによって構成されている。

 神々しい容姿と天変地異的な戦闘能力を持つエリュシオーネたちをつかわし、あらゆる紛争を軍事的に抑止し、調停を司る。

 自らは表舞台には立たず、これまで歴史上に燦然と輝くいくつもの大帝国を背後から動かしてきた。

 それがエリュシオンであると、ジュリアスは説明したのであった。


「ミルドラント帝国による長き平和の時代、パクス・ミルドラーナを裏から支えてきたのは、そのエリュシオンだったのですね……」


 ふいに、目を輝かせたユーリカが割り込んでくる。

 博識で名が通っているユーリカである。

 いたく知的好奇心を刺激されたのかもしれない。


「お見事なご見識、その通りです、ユーリカさん。これまで六〇〇年もの間、大陸に戦乱が起きなかったのも、ひとえにエリュシオンがミルドラント帝国の後ろ盾になっていたからこそ――」


「おお……」


 ジュリアスの解説に、ユーリカは興味津々と耳を傾けていた。

 だが、急にジュリアスの表情が神妙になる。


「――しかし、今や、その均衡が崩れようとしています」


「「ええぇっ?」」


 思わぬ吐露に、タイタニアとユーリカが同時に言葉を失った。


「ジュリちゃん、それって結構シャレになっていないんじゃないかしら? しかも、この話の流れだと、ウチのゲス親父もそれに一枚噛んでそうな嫌な予感が……だって、ジュリちゃんがわざわざお忍びで来るんだもの」


 タイタニアの思考の中で、大変憂慮すべき事態の全貌が、次第に浮かび上がってきていた。


「とても言いにくいのですが、結論から言うと――エリュシオンは、最近のブリュグナント家の動きに懸念を抱いています」


「うあぁ……やっぱり」


 非常に申し訳なさそうに、ジュリアスが言葉を切り出す。

 ジュリアスの告白は、タイタニアの精神を打ちのめした。

 自分の父親は一体何をやらかそうとしているのか?

 世界規模で大迷惑をかけようとしているのだろうか?

 タイタニアは目頭を押さえ、うなだれ、大きくため息をついた。


「ち、違うんです! 決してティナお姉様を疑っているわけではないんです! ただ――」


「いいの……いいのよ、ジュリちゃん」


 慌てふためくジュリアスに、タイタニアは柔らかな笑みを向ける。

 人差し指をピンと立て、ジュリアスの言葉を制した。


「何か、やっと分かってきた気がするの。やっぱり、娘である私が、ケジメを付けなきゃいけないのかなって……遠慮無く言ってちょうだいね。私は、どうすればいいの?」


「そ、それは、もちろん、今回の縁談を何とかして……」


「もちろんそうよねっ! そう、そうんなんだけど……アイツ、もう先にあちこちに手を回しているのよね。

 まず、これをなんとかしないと……」


 タイタニアの目が、瞬間的に生気をみなぎらせる。

 ジュリアスの提案には大賛成である。

 バルカンヌが決めたあんな怪しげな縁談など、即刻破談に持ち込むに限る。

 だが、すぐに意気消沈。

 今回はバルカンヌに、かなり先手を打たれているのだ。

 下手すれば、外交問題に発展しかねない話だろう。

 自分一人が責任を背負い込むだけで済むのなら、それに越したことはない。

 だが、周囲にもかなり迷惑を掛けそうな気配が濃厚である。

 タイタニアは腕を組み、ソファーに深く腰掛けて、うんうんと唸った。


「確かに、お嬢様の婚約の話が既に各方面に行き渡っているとなると、かなり動きにくい……

 いずれにせよ、ブリュグナント家のメンツは丸つぶれ、ですね。最悪の事態を回避するには――」


 ブリュグナント家で十七歳の若さとはいえ侍女衆筆頭を務めるユーリカである。

 タイタニアをかばいたくても、立場的にも非常に苦しいものがあるに違いない。

 単純に感情にまかせて運命を共にするだけでは、無駄死にも同然である。


「御曹司、いかがなさいますか?」


「そうだね……うう〜ん、あれしかないかな? すごく気が引けるけど――

 花嫁を直前に横取りする形になるなんて!――

 うむむっ! よく考えたらなんて刺激の強いマネを僕はっ!」


 頭を抱え、悶絶するように言葉をひねり出すジュリアス。

 タイタニアも、親が決めた結婚の前に、花嫁の自分が逃避行を決めるというシチュエーションを想像すると、興奮と高揚感、そして背徳的な感触を禁じ得なかった。

 これは悪くない。いや、素晴らしい展開と言っても良いかもしれない。


「御曹司、よくぞご決断を! ご命令とあらば、合戦のひとつやふたつ……」


 レヴィンの瞳の奥に、カミソリのような鋭い光が一瞬、宿った。


「……少し、派手な外交デビューになるかもしれない。迷惑かけるね、レヴィン」


「なんのこれしき。御曹司がより早く一人前になれるのならば」


「もう! またそっちの話? 僕の周りは、みんなそう言う話ばっかり興味持っているんだから!」


 タイタニアは、ジュリアスとレヴィンのやり取りを見て、じっと考えた。

 ジュリアスは、あんな可愛らしい顔をしていながら、なんと決断ぶりだろうか。

 どれほど肝が据わっているのか。

 いくら帝都御三家の一つ、ネレディウス家の次期当主とはいえ、ハンザとプロードシア両国を向こうに回す決断をこの場で下したのである。

 危なっかしいやら、頼もしいやら。嬉しいやら、不安やら。

 タイタニアは、微笑まざるを得なかった。

 だが――


「ジュリちゃん、ありがとう……そこまで決心してくれるなんて。もちろん、すごく嬉しいよ!

 でも、ごめんね。やっぱり、そこまでジュリちゃんに迷惑かけられないの」


「えっ? どうして、どうして……なの?」


 タイタニアの言葉に、ジュリアスが今にも泣きそうな目を向けてくる。


「ものすごく嬉しいの。それは命にかけて本当よ! でもね、このままじゃ……ハンザとプロードシアの婚儀に、ネレディウス家が割り込んで花嫁を強奪する形じゃ、あまりにもジュリちゃんに分が悪いわ。ネレディウス家のみなさんに、迷惑をかけるどころの騒ぎでは済まないかもしれない」


「でもこのままでは、ティナお姉様、不本意な結婚に――」


「今回の縁談、一筋縄では行かないと思うの。

 私が生きている限り、ずっとついて回るだろうし、あのゲス親父、自分の野心をそう簡単に諦めるなんて、絶対思えないわ。

 それにこんなことで、ジュリちゃんの輝かしい未来を、返り血で汚すわけにはいかない……」


「そ、そんなこと――」


 殊の外、強情なジュリアスである。

 駄々をこねる年下の弟をたしなめるように、タイタニアはジュリアスの唇にふわっと人差し指を触れた。


「僕の決断がそんな――っ、ふえっ?」


「こおら! 話はちゃんと最後まで聞くの!

 『私が生きている限り』、アイツは諦めないかもしれない。でも、私が死んだら……?」


 ウィンクをぱちっと決めながら、噛み含めるように言って聞かせるタイタニア。

 ジュリアスは、虚を突かれたみたいにぼうっとしている。


「えっ? それはどういうことですかお嬢様! そのような物言いなど――」


 隣にいるユーリカが、すごい剣幕で迫ってきた。

 侍女として、その反応は当然であろう。

 自分の主が死ぬことを前提とした話など、あってはならない。

 主であるタイタニアがそんな愚挙に出ようとするのなら、身体を張ってでも止めることだろう。


「あなたもよ、ユーリカ。話は最後まで聞きなさい!

 もし仮に、花嫁が死んだということになれば、婚約なんて解消せざるを得ないじゃない?」


「それはそうですが、お嬢様が死んでしまっては――もう、わけが分かりません!」


「ふふふ、うふふふっ……博識の才媛たるユーリカまで、まだわからないの?

 ふふふっ、みんな、まだ分からないの?」


 必死に抗議するユーリカを見て、タイタニアは不謹慎ながら笑いを堪えられなかった。

 ジュリアスもユーリカも困惑しきった様子である。

 自分の人生が、それも運命の恋がかかった事態なのだ。

 タイタニアの知恵が、そこで働かないわけがない。

 しばしの間、困惑する一同の沈黙を楽しんでから、満を持してその秘策を披露した。


「迷惑が一番掛からない方法、思いついたの。

 それはね……タイタニア・ブリュグナントが、公式に死んだことにするの!」


「「ええぇっ!」」


 ジュリアス、ユーリカが声を上げる。

 レヴィンは、黙したまま動かなかった。


「死んだことにするって、そんな……ん? 死んだことにする?

 本当に死ぬわけじゃない、ですよね、ティナお姉様?」


「おおっ、もう気がついたの、ジュリちゃん?」


 タイタニアは口元を押さえ、クスクスと笑いをこぼす。


「お嬢様、どういうことですか? 公式に死ぬって……あれ? 公式? まさかそれって――」


「ふふふっ……そうよ、死亡記録を偽造するの!

 でも、協力者が必要なの。死亡診断を下してくれる人が……そうよね、ジュリちゃん?」


「うわっ! そういうことですか……ブリュグナント家の侍医が、死亡診断を下す。

 それにより、公式記録上、タイタニア・ブリュグナントは死んだことになる。

 そして、花嫁が亡くなった以上、縁談は解消せざるを得ない……」


「ご名答よ、ジュリちゃん! その死亡診断、ジュリちゃんにお願いしていいかしら?」


 タイタニアは小首を傾げ、いたずらっぽく微笑みかけた。

 ジュリアスは身分を偽って潜入し、ブリュグナント家の侍医として着任したばかり。

 最初の仕事が、ブリュグナント家令嬢の死亡診断とは災難ではあるが、今回の政略結婚の大義を粉砕するだけの威力はある。


「お嬢様、なんと大胆な! 確かにそうなってしまっては、いくら大旦那様といえども手の打ちようがありませんね……よくぞそんなお知恵を」


 ユーリカは、目を丸くして感心したように呟いた。


「まあね、人生がかかってるしね!

 そうそう……あとは、その前にユーリカをクビにしなきゃいけないね」


 部屋の空気が、ぴたっと凍り付いた。

 ジュリアスもレヴィンも無言であり、タイタニアの真意を測りかねたような表情であった。


「は……? な、何をおっしゃられますか? なぜ私が――」


 ぎょっとしたユーリカが、震える手でタイタニアの肩を掴んでくる。

 タイタニアは、ユーリカの手首をそっと掴んだ。


「もし、私が死んだことになったとして――その責任は誰に来るの? あなたでしょ、ユーリカ」


「はっ……!」


「嫁ぎ先が決まったと言うことで、円満退職、もとい転職ってことにしようかしら?

 ささやかな送別会でもしておけば、まずあなたが疑われることはないわ」


「そ、そんな……」


「時間があまりないの。そうと決まれば、いそぎましょ、ユーリカ」


 ニコっと笑みを浮かべながら、ユーリカの手首を引こうとする。

 だが、ユーリカは腕に力を入れ、タイタニアの肩から離すまいと頑として抵抗してきた。


「離しなさい、ユーリカ。あなたまで、こんな危険な話に巻き込まれる必要はないわ。だから、ほら――」


「お嬢様は、阿呆ですか……」


「なっ――」


 うっそりと呟くユーリカに、タイタニアは意表を突かれた。


「全部お嬢様一人に押しつけて、そんな形で私が納得するとでも?

 私一人が安全な場所にいて、のうのうとして、それで満足とでもお思いですか?」


 ぎゅうっとタイタニアの肩を掴みながら、ユーリカは顔を紅潮させて迫ってくる。


「待って! 私は決してユーリカをそんな風に――」


「違います! お嬢様は分かってない!

 私自身、そんな卑怯な生き方に納得が行かないということです!

 ジュリアス様っ、私の死亡診断の偽装もお願い申し上げます!」


「……よ、よろしいのですか?」


 ジュリアスが気圧されたように、ユーリカをまじまじと見つめる。


「ええ、もちろん! 私がいなければ、このバカお嬢、何をしでかすか分かったものではありませんからね!」


「ああっ! 侍女のくせに思い切ったこと言うじゃないの!」


「それに――いかなる因果かは存じませんが、お嬢様がエリュシオーネになられるというのなら……

 その行く末、この目で間近で見届けたく思います」


 どうやら腹をくくっていたのは、タイタニアだけではなかったようだ。

 その目を見る限り、ユーリカはどうあっても引く気はなさそうだ。

 しばしにらめっこを展開した後、タイタニアは諦め混じりに、ため息を盛大についた。


「ああもう、仕方がない。強情なんだから……危ないときは、ちゃんと私の背中に隠れているのよ?

 世界で一番安全な場所だから!」


「何をおっしゃいますか? つかず離れず、ほどよい安全確保ぐらいできますよ。

 それにハンザを出奔し、お嬢様に同伴するのも、この私の博識と見聞に磨きを掛ける上で絶好の好機と思っていますので!」


 ユーリカは誇らしげに告げた。

 その顔には、一片の曇りも迷いも見えない。


「御曹司、これで決まりですな」


「ははは……これは参ったね。かなりの大芝居を打つことになりそうだよ」


 苦笑いをにじませながらも、ジュリアスの表情には喜びがハッキリと見てとれた。


「よーし! そうと決まれば、作戦会議よ! さあ、ユーリカ、甘いものと紅茶を持ってきて!」


「はいはい、分かっていますとも、お嬢様!」


 タイタニアの自室が、四人の熱気に包み込まれる。

 

 

 †  †

 

 

 その頃、バルカンヌ・ブリュグナントは、敷地内にある庭園を散策していた。

 プロードシアへ出立する準備の指示を手際よく済ませ、時間を確保していたのだ。

 手入れが行き届いた濃緑色の芝生。

 整然と立ち並ぶ庭木は滑らかに刈り込まれ、まるで緑の壁である。

 その緑の壁が、庭園内でゆったりとしたカーブを描き、迷路的な道を作っていた。


「なるほど、そうであったか……子細の報告、ご苦労である、アーディ」


 赤茶色の地に金刺繍の礼装に身を包むバルカンヌが、庭園の小道を悠然と進む。

 彫りが深く端正な顔が、夕陽を受けて濃厚な陰影を浮かび上がらせていた。

 その傍らに付き従うのは、可憐なドレスをまとう赤髪の美少女――アーディである。


「うん、おじさま、きっと喜ぶと思ってた!」


 アーディは満面の笑みを咲かせる。


「まだ、完全に目覚めたわけではない。それに、実に見事なタイミングではないか。

 エリュシオン側に確保されるより前に、手を打てそうだからな」


「本当に、大発見だったね! あたしもびっくりしちゃった……あっ、もちろん、ちゃんと仕事はしてきたよ、おじさま!」


「うむ、案ずるな、分かっておる。武装勢力による此度のネザルラント襲撃……これでハンザも『被害者』。

 ミルドラントもエリュシオンも、こちらを疑う大義を失おうぞ! ふははは……」


 バルカンヌは、アーディの頭を大きな手で包み、わしわしと撫でた。

 アーディは嬉しそうに、頭を押しつける。

 本日、ハンザの首都・ネザルラントを急襲した漆黒の巨体。

 それは武装勢力こと、アレスのナノマシン機動兵器であった。

 しかも今回の襲撃は、ハンザに対する疑惑をかわすための『自作自演劇』だったのである。


「ねえ、おじさま、うんとね、ティナおねえちゃんのこと、これからどうするの?

 おじさま、エリュシオンから狙われることになっちゃうんじゃないの?」


「そのことか……なに、案ずることはない。

 もはや、種族として存亡の危機を迎えているエリュシオーネなど、それほど恐れる必要は無い……何しろあやつらは、子を産む力を失って等しいのだ。

 我ら帝都の系譜の女の子宮なくしては、種の存続すらままならぬはずだ」


 バルカンヌが不敵に笑み、目を細め、鋭い眼光を放った。


「ふうん、いい感じで弱み握っているんだ。とりあえず、安心していいのかな?」


 アーディは、ちょこんと指をくわえ、身体を傾ける。


「うむ、お前たちの本国政府が懸念する事態にはなるまい。

 たとえ、完全なるエリュシオーネとしての資質を継承した者が現われるとして、その確率は非常に低い。

 種族として、滅亡の運命からは逃れられぬだろうよ」


「そっか、そうなんだ……」


 バルカンヌの返答にもかかわらず、なぜかアーディは沈んだ様子になる。


「どうした、浮かない顔だな? 不服なことでもあったのか? 言ってみよ」


「あのね、おじさま……あたし、この手で、エリュシオーネを倒してみたい。それも、うんとたくさん!」


 アーディはギュッと握り拳をつくり、目に力を込めた。


「ほう、それは勇ましいものだな」


 バルカンヌは、指先であごひげを撫でながら呟く。


「あたしは、あたしたちは……地球でうーんと手柄をあげたいの!

 いや、うーんと手柄をあげなきゃいけないの!

 だから、エリュシオーネが自然消滅するのを待つなんて言うのは嫌なの。

 この手で、みんなやっつけなきゃいけないの!」


 バルカンヌに対して、懸命に自説を訴えるアーディ。

 その双眸には獰猛な光が宿り、劫火のごとく燃えさかる戦意と意志があった。


「……アーディ、少し良いか?」


 しばし考えたあと、バルカンヌは厳かに切り出した。


「うん、何でも言ってね、おじさま!」


「あやつを、タイタニアを生け捕りにせよ。それも、二度と暴れられない身体にしてな……」


「わお、わおおっ! それすごいっ!」


 アーディは、興奮したように手を叩き、目を見開いた。


「遅かれ早かれ、あやつには、手が付けられなくなる前に首輪を付けておく必要があると考えていたのだ。

 それに今回のことが重なった……あやつが、エリュシオーネとしても覚醒が進んでからでは、手遅れになるだろう」


「あはっ、あはははっ! すごく……すごく嬉しいっ!

 ねえねえ、おじさま、抵抗がすごく激しくて、アーディが危なくなったらどうしよう?

 やっつけても……いい?」


「ふむ、抵抗が過ぎるのであれば程度は問わぬ。

 あやつの肉体に、母体としての機能が残っておれば、子宮が機能しておればそれでよい。

 アレスの科学力があれば十分それで事足りよう」


「うん、了解っ! ふふっ、んふふふっ! さぁて、どうしよっかな?

 じゃあ、一度帰還して装備万端にしてこよっかな――」


 うきうきした様子で独りごちるアーディに、突然バルカンヌが割り込んだ。


「何を言っている、アーディ? 今宵決行するのだ!

 あやつのことだ。もう動き出すことだろう。準備を整えてからでは遅い!」


「わお! もう、せっかちで強引なんだから♪

 いいよ、いいよぉ……アーディはすっごく強いんだから……丸腰同然でもエリュシオーネに負けないんだから……あはっ、あはははっ!

 いいよぉ、やってあげる、やってあげるっ!」


 理不尽かつ無謀にも聞こえるバルカンヌの指令。

 それにもかかわらず、アーディは肩を振るわせ、目を闘志と狂気でらんらんと輝かせていたのである。

 

 

 †  †

 

 

 日が沈んでから数時間。

 青い闇の帳が世界を覆い尽くしたころ――

 ブリュグナント家の広大な敷地内のとある区画に、眩いほどの明かりが集まっていた。

 浮かび上がっているのは荘厳な雰囲気を漂わせる巨大な建造物。

 象牙色の石材で出来た外壁に、数多くのレリーフが彫り込まれていた。

 大聖堂と城を融合したような外観。

 まるで、ブリュグナント家の富と権勢を具現化し、誇示するかのごとくそびえ立っていた。

 これぞタイタニアの婚約祝賀の宴の会場である、ハンザ大迎賓館であった。

 

 内部のホールは円筒状で、五階建ての吹き抜け構造になっている。

 壁の至るところに神話をモチーフにした絵画が描かれていた。

 無数の燭台の灯りが、穏やかな橙色の光で迎賓館の内部を照らしている。

 そこには、見事なまでに非日常的な空間が造られていた。

 色とりどりの華やかな礼装に身を包んだ大陸社交界の紳士淑女たちが、一同に介している。

 優雅な管弦楽の調べにのって舞踏を楽しむ者もあれば、旧交を温める談笑を楽しむ者もいた。

 参加者たちの面々を見るだけでも、ブリュグナント家がどれほど影響力を持っているのかうかがい知ることができよう。

 

 その宴の会場の一角で、バルカンヌを囲んだ輪ができていた。


「これはこれは、ブリュグナント公、此度の縁談、誠におめでとうございます」


「なんの、なんの。貴公こそ遠路はるばる、よくぞ参られた。今宵は長いゆえ、存分に楽しまれるがよろしい」


「ハンザとプロードシア……ついにこの組み合わせが来たのかと、ここだけの話、奮い立つものが有り申した」


「さよう。今のミルドラントは老朽化著しい屋敷のようなもの。

 一連の武装勢力騒動を解決できねば、一気に時勢は流れよう……おお怖い」


「だからこそ、ハンザとプロードシア。新しい屋敷への引っ越しするようなものではないか?」


「ブリュグナント公、いやバルカンヌ殿――今こそ御旗を立てられてはどうか?

 少なからぬ諸侯が、待ちわびておりましょうぞ」


 バルカンヌを囲む参加者たちが、せかすように声をかけてくる。


「まあまあ、待たれよ……ブリュグナントは帝都の系譜。

 ミルドラント帝国、ひいいてはミルドラント皇族家を支え、引き立てるのがその使命にて……

 かような物騒な物言いめさるな、諸兄よ」


 周囲をたしなめるように苦笑してみせるバルカンヌ。

 謙遜するようなバルカンヌの言葉に、どっと談笑がわきあがった。

 だがそこに、使用人が駆け寄り、急の知らせをバルカンヌに耳打ちをする。


「どうした? なに……なんだと? 分かった、すぐに参る」


 バルカンヌの目が短い間、ギラリと輝いた。

 参加者側の方を向き直ると、余裕に満ちた笑みで穏やかに告げる。


「実に申し訳ない。所用につき、これより急遽退席しなければならない。この歓談の続きは、また改めて」


「いやいやお気遣い無用、我らは十分楽しんでおりますゆえ」


「名残惜しいのはやまやまではあるが、ささ、遠慮めさるな」


「結婚式典の晴れ舞台、楽しみにしておりますぞ」


 別れの挨拶もそこそこに、バルカンヌは悠然とした足取りで会場を後にしたのだった。

 

 

 †  †

 

 

 ブリュグナント家の邸宅内にある地階の一室――

 普段はほとんど使用されることがないこの部屋。

 ひんやりとした空気が室内に垂れ込めていた。

 室内の壁は、表面を丁寧に研磨されたブロック状の石材を組んだものだ。

 鈍い輝きを放つ壁の表面が、室内の体感温度をさらに下げてゆく。


「それは誠か……?」


 バルカンヌは、短く告げた。

 顔には、なんら感情の色もうかがえない。

 その巨躯から、無言の圧力的な雰囲気をもうもうと放っていた。

 バルカンヌの眼前にあるのは、簡易寝台に横たわる二つの姿。

 一糸まとわぬ姿を大きな白い布で覆っただけの二つの亡骸。

 ひとつは、プラチナブロンドの髪を腰付近まで伸ばした長身の若い女性。

 胸から腰にかけて、大変起伏に富んだシルエットを作っている。

 もうひとつは、ダークブラウンの髪を肩ぐらいに伸ばしており、背丈も身体の凹凸も平均的な女性だった。

 医術用の白い服をまとい、バルカンヌの側に控えているのは、少女と見間違えそうな面立ちの若い侍医――ジュリアスであった。


「はい、私が現場に駆けつけた時にはもう、タイタニア様もユーリカ様も……残念ながら」


 ジュリアスは沈鬱な面持ちで、ゆっくりと言葉をつないでゆく。

 バルカンヌは無言のまま、簡易寝台に寝かされた長身の亡骸に近づいた。

 おもむろに布を掴むと、ガバッとはぎ取る。

 血の気を失い、蝋燭のごとく真っ白な肌があらわになった。

 ふっくらとした起伏に満ちた長身の肉体に、バルカンヌは指を滑らせてゆく。

 特に急所が並ぶ正中線近辺を、首から胸、下腹部にかけて丹念に探っていた。


「……外傷は無いのか?」


「はい、現在の所、目だったものは見あたりません。薬物による可能性も視野に入れ、調査を進めております」


 ジュリアスの返事に、バルカンヌはしばし腕を組んで考え込む。


「ふむ……このことは誰かに知らせたか?」


「いえ、まだ他の方には。こちらに着任して早々にこの事件……ご遺体を運び、検死作業の準備をするので精一杯でした」


「……生きながらえたくば、他言は無用ぞ」


 無表情のバルカンヌが、不気味なほど穏やかに告げた。

 その静けさが、いやがおうにも全身を飲み込むような恐怖を喚起するようだ。

 ジュリアスは、黙したままコクリとうなずく。


「死亡後、時間はどれくらい経過しておる?」


「体温の状態から、まだ一時間も立っていないものと推測されます」


 ジュリアスは、威圧的なバルカンヌの目を見上げながら、静かに述べた。


「直ちに検死解剖を進めよ。特に子宮の状態の確認を急げ――わしも立ち会う」


「なっ……このような生々しい現場、御当主様にお見せするのは――」


「わしが良いと言っておる! 早く作業を進めよ!」


「……はい、かしこまりました」


 バルカンヌがさらに威圧感を増して、じろりと見下ろす。

 問答などせず、一刻も早く遺体の解剖を始めるよう無言の圧力を加えてきたのだ。

 まさか、目の前で検死解剖をさせるとは――この事態は、ジュリアスの予想外であった。

 理由をつけて追い返すなど不可能だろう。

 もしかしたら、疑われている可能性すらある。

 もはや、引くに引けない状況となってしまったようだ。

 ジュリアスは大きく一呼吸をすると、足下の革鞄を開く。

 その中から検死解剖のための道具一式を取り出し、簡易寝台の上に置いた。

 解剖用の刃、切開線を身体に記すためのインクと羽根ペン、血や体液を拭き取るための綿、肋骨など骨を断ちきるための医療用はさみである。

 だが、すぐには作業を始めず、確認の宣言から入った。


「それでは、ただいまより、タイタニア・ブリュグナント様の検死解剖を開始します」


 長身の亡骸の胸に左手をそっと乗せ、インクを付けた羽根ペンを右手にとる。

 かなり丁寧な動きで、亡骸の肌に黒い線を引いていった。

 鎖骨の縁、喉の真ん中から胸の中央にかけて、みぞおちからへそ、下腹部にかけて、ゆっくりと肌にインクの筋を引いてゆく。

 もちろん、わざと時間を掛けている。

 バルカンヌがしびれを切らし、『後でまた来る! 結果だけ報告せよ!』などと言って、退室するのを待つわけである。

 だが、バルカンヌは黙したまま、ずっと立ち尽くしていた。

 まるで、ジュリアスの一挙手一投足を監視しているかのように感じられる。

 

(……本当に、この場で検死解剖をさせるつもりなのか?

 目の前で自分の娘が解体される光景を見ても、何も感じないのか、この人は……)


 ジュリアスの中で、ジクジクと焦りが高まりだした。

 心なしか、額に嫌な汗がにじみ出しているような感触を覚える。

 実はジュリアス自身、『素の状態』では、刺激が強い光景にはあまり長時間は耐えられない。

 装甲思念体の力を発動させ、エリュシオーネとしての能力発現をさせながらであれば話は別だ。

 だがこの場で、装甲思念体を発動させるわけにはいくまい。

 できるだけ時間稼ぎをしなければならない。

 ジュリアスは、切開する線を二度、三度とこれでもかというくらいインクを塗り重ねた。

 また、バルカンヌに怪しまれないように、切開する線を増やし、身体の各所に黒い筋を加えてゆく。

 乳房の下部、脇腹、下腿部――だんだんと原始時代の入れ墨のごとき様相に近づいていった。


「ずいぶんと丁寧な解剖のようだが、時間は無いのを分かっているのか?

 それとも、何か都合でも悪いのか?」


 バルカンヌが一歩、ずいっと迫ってくる。

 脅迫的な光を帯びた目で、ジュリアスをジロリと見下ろした。

 ジュリアスは、唾をひとつ飲み下す。

 緊張を押し殺すようにして告げた。


「これより、開胸の作業に入ります……まず、心臓をはじめ循環系組織に損傷があるかを確認をします」


 意を決して、解剖用の刃を手に取る。

 小山のようなボリュームを誇る乳房をわきに押しのけ、胸骨の真ん中に刃を当てた。

 ゆっくりとした動きで、正中線に沿って刃を走らせる。

 まばたき一つせず、意識を指先に集中した。

 白い肌が、さっくりと裂けていき、わずかに血がにじみ出す。

 綿を切開部周辺に柔らかく押し当て、丹念に血糊を拭き取った。

 もちろん、ここでも時間稼ぎである。

 しかし――


「……時間が無いと言ったはずだ」


 まるでこちらの心を見透かすように、バルカンヌが重圧をかけてきた。


「も、申し訳ありません」


 ジュリアスは顔を伏せ、苦り切った表情を隠す。

 恐らく、ある程度、解剖した結果を見せなければ納得はしないだろう。

 みぞおちの下が熱くざわつくのを覚えた。

 ぐっと唇を噛んだ。

 切開線を確かめるように、慎重な手つきで、繰り返し刃を走らせる。

 後で縫合し直すときに、できるだけ跡が綺麗に仕上がるようにするためだ。

 薄桃色の皮下組織が姿を現した。

 さらにその上に、滑らかに刃を走らせる。

 黄色を帯びた皮下脂肪層がぷりっとせり出し、まっすぐに切り裂かれていった。


(……何て油断無い人だ。でも、ここで見破られるわけにはいかないんだ。何とか乗り切ってみせる!)


 解剖の主導権を握っているのは、あくまで自分。

 最も傷が少なくて済む形で検死解剖を終らせ、バルカンヌを納得させるしかない。

 ジュリアスは己の精神を奮い立たせ、解剖作業を進めていった。

 

 

 †  †

 

 

 深夜のブリュグナント家の敷地内を、二つの人影が駆けていた。

 レンガ畳みの舗装道を、荷物を抱えて進んでいる。

 両者とも、くすんだ群青色の使用人服をまとい、頭巾で顔を隠していた。


「す、少しペースを緩めませんか、お嬢様……」


 息を切らしながら、片方が告げる。

 ぱんぱんに膨らんだ大きな旅行革鞄を、ずるずると引きずっていた。

 疲れがたまっているのか、見る間に進みが遅くなる。


「もう、そんなにいっぱい詰め込むんだから。あなたの力を考えて選びなさいよ、ユーリカ」


「お嬢様、旅というのはっ……かなり準備がっ、いるんですよっ!

 備えあれば憂い無しなんですっ! というかっ、少しっ、休みませんか?」


 これ以上進めない、といった様子で、ユーリカはその場にへたり込む。


「しょうがないわね。じゃあ、ちょっとだけ休憩しましょ」


 タイタニアは、ユーリカの隣に膝を抱えるようにして座った。

 かなりきつめの服であり、やや背中を丸めてなんとか着ている感じであった。

 丁度身体に合う大きさの使用人服が見つからなかったためである。


「ふう……お嬢様、傷口の方は大丈夫なのですか?」


「あら、大丈夫よ。ジュリちゃんがちゃんと丁寧に、しっとりと優しく、愛情たっぷり込めて直してくれたじゃないの♪ 全然平気よ」


「そ、そうですか……それならばいいのですが」


「まあ、多少の無茶ぐらいなら大丈夫でしょ、きっと」


 ケロっと言い放つタイタニア。

 走ってきた疲労もあってか、やや引き気味に苦笑するユーリカ。


「それにしてもウチの敷地って、結構広いのね……まだ半分も来てないわよ、きっと」


 タイタニアは、闇に包まれた敷地内をぐるりと見渡した。


「お嬢様の荷物、あんまり無いのですね。それなら、走るのも楽かもしれませんね」


「うん? これ? そうね、現地調達を基本に考えていたから」


「……やっぱりそうですか。そんなこともあろうかと思って、お嬢様の服や下着類もろもろ、ついでに詰め込んでおきましたよ!」


「おおっ、気が利くのね! さすがはお付き侍女、しかも筆頭! なるほど、晴れ着と下着は乙女の命か!」


「他にも入れてますよ……換金可能な貴金属宝石類、および証文とか債券なども。後できっと必要になるでしょうから」


「さすが! ユーリカ連れてきて、すっごく正解だったかもしれないわ」


 ほぼ勢いに任せて飛び出したタイタニア。

 慎重に荷物を選別し、可能な限り鞄に搭載したユーリカ。

 実に対照的であった。


「ううっ、でも怖いですね。夜中の敷地内って……暗くて、底なし沼みたいで」


「ここは夜中誰も通らないでしょ。昼間も庭師が時折手入れに来るぐらいだし」


「確かに、お忍びするには好都合ですけど……うぅ」


 ブリュグナント家の敷地はかなり広い。

 普段、人通りがないような庭園や散策道もあるのである。

 道の両脇に並ぶ大きな街路樹や、広がっている茂み。

 昼間であれば、木漏れ日が降り注ぐ心地よい散歩道になるだろう。

 それに深夜となれば、誰にも見とがめられることなく通過するのもそれほど難しくはない。

 ただし、お化けや幽霊が出没しそうな、言い知れぬ恐怖を感じさせるかもしれないが。


「さて、休憩がてらに怖い話でもしよっか、ユーリカ?」


「な、何を言っているのですか? 休憩ならもう大丈夫です! さ、さあ、急ぎましょう」


 意地悪な笑みをニヤっと浮かべてタイタニアが迫ると、ユーリカは真顔を引きつらせてさっと立ち上がった。

 どうやら本気で怖がっているようだ。


「あらそうなの? ほら、あの先を見てご覧……ここはね、ずっと昔に墓場だったという話があってね……」


「だから! そんな下らない話なんかしている暇など無く……えっ? あっ、あの、お嬢様」


「あら何? どうしたの? まだ私、何も話していないけど?」


 ユーリカの表情が、みるみるうちに凍り付く。

 タイタニアは訝しみ、キョトンとする。

 怖がるあまり、何か幻覚でも見てしまったのだろうか?


「あ、あの……ここって誰もいない、誰も来てないはずですよね……」


「そうだね。こんな夜中にここ出歩く使用人さんなんてね、いるわけないじゃない?」


「じゃ、じゃあ……あの、ドレスを着た人って、誰ですか? 木、木の上……」


「えっ――」


 怯えきったユーリカが震える声で指さした。

 その先にあるひときわ大きな街路樹。

 その太い枝に、可愛らしいドレスをまとった赤髪の少女が、腰掛けている。

 しかも、こちらを見下ろし、クスクスと笑いをこぼしているのだ。

 手を振って、良く通る声で話しかけてくるではないか。


「こんばんは! あれれ? すごいお荷物もってる。これからどこに行くのぉ?」


 緊張感などカケラもない調子の声だった。

 脚をぶらぶらさせ、二つに結い分けた長い赤髪が背中で揺れている。

 愛嬌いっぱいの年頃の少女のように見えた。

 だが、タイタニアは、並みならぬ危機を本能的に感じ取っていた。

 それはまるで、ねっとりと体中にまとわりつき、絡みつくような禍々しいオーラだ。

 あの身体のどこに、そんなものが封じられているというのか。

 タイタニアとユーリカは、ともに息を殺して見上げる。

 すると赤髪の少女は、五、六メートルはある高さから、いとも簡単にふわりと地面に舞い降りたのである。

 とても静かな着地音だ。ほぼ、無音に近かった。

 並みの身のこなしではない。

 いや、人間の身のこなしではない、といった方が適切だろうか。


「……今日、結構ひどい怪我して、ザックリいってたでしょ?

 もう大丈夫なのぉ? そんなに走っちゃって……傷口がパックリと裂けたりしない? 大丈夫ぅ?」


 赤髪の少女がユラリ、ユラリと迫ってきた。

 キュッと細められた目からは、尋常ではないほど獰猛な光が放たれている。

 それはまるで、触れたものを切り裂くほど研ぎ澄まされた戦意と殺意であった。

 ユーリカは、タイタニアの背中に隠れ、恐る恐る顔を出す格好だ。

 タイタニアも負けてはいない。

 腰を手を添え、胸を張り、迫り来る赤髪の少女と距離を置いて向かい合った。


「あら、心配してくれるの? でも大丈夫。今日、縫いたてほやほやだから。

 飛んだりはねたりするくらい、全然平気よ……ってことで、とりあえず、そこどいてくれるかしら?」


「だめだよぉ、ここから逃げ出すなんて考えてちゃ……そうでしょぉ、ティナおねえちゃん♪」


「どうしてそれを……あなた、一体誰なの?」


 タイタニアも目をすうっと細め、息をひとつして、気迫をぶつけた。


「……それじゃ、すっごい大ヒントあげるね」


 赤髪の少女が、唇をつりあげ、半月のごとき笑みを口元に刻み込む。

 すうっと右腕を水平に振り、宙を薙ぎ払った。


「……攻性ナノマシン群体、フィエルンド・エリート、対象殲滅モードで起動……」


 うっそりとした調子で呟く。

 その直後だった。

 赤髪の少女の背後で、何か粘性の強い液体がゴポッ、ゴポッとわき出すような音がし始める。

 やがて、直下型地震が起きたかのように、レンガ舗装の道が、激しく揺さぶられた。

 レンガ畳みを砕き、突き破り、怒濤の勢いでねっとりとした漆黒の液体が地面から噴出してくる。

 大量の黒色液のプールがまたたく間に形成された。

 巨大な何かが黒いプールから、ザバアっと立ち上がる。

 その高さ、優に十メートル。

 蜘蛛のごとき下半身と八本の節足。

 人間的上半身には、六本の長大な腕が生えていた。

 のっぺりとした頭には、兜の装飾角のごとき鋭い刃状突起が一つある。

 六本の腕が流れるように動き、胸の前で次々と拳を撃ち合わせた。

 眼前で稲妻が落ちたような、耳をつんざくような轟音が立て続けに三つ発生する。

 血のような紅色の光を放ち明滅する紋様が、入れ墨のごとく全身を走っていた。


「……ううっ、うっ……くく」


 ユーリカは過呼吸みたいに息を乱し、背後からタイタニアにぎゅっとしがみつく。

 タイタニアは、ユーリカの手をあやすように撫でながら、巨体をにらみ上げた。

 昼間に出くわした漆黒の巨体よりも、かなりいかつい格好だ。

 そして、どんな仕掛けかは知らないが、この眼前の巨体を召喚したあの少女。

 恐らく、この赤髪の少女こそ、謎の武装勢力のメンバーなのだろう。


「ユーリカ、荷物をもって早く行きなさい! ジュリちゃんとレヴィンさんに知らせて!」


「そんな、またお嬢様を危険に……」


「ユーリカ、二人にこのことを知らせに行くのがあなたの使命……あなたにできることなの、分かる?」


 意地を張っているのか、ぐずるユーリカ。

 タイタニアは、ユーリカの手を握り、そっと力を込めた。


「危険な戦場を駆け抜けて、知らせを伝えることも大事な役割ってものよ、ユーリカ」


「……」


 背中ごしにユーリカを説得する。

 やがて、ユーリカはしゅんとなり、タイタニアの背中にトン、と頭を押しつけた。


「はい……わかりました」


 すごすごと二人分の旅行用革鞄を掴む。

 タイタニアの方を振り返りながら、道を一歩一歩進んだ。


「どうか、お二方が来るまでっ、無茶はしないでくださいね!」


 ユーリカは小刻みに震える腕で重い荷物を支えながら、必死の形相で脱兎のごとく駆けだした。

 見上げるほどの漆黒の巨体――フィエルンド・エリートは、ユーリカを追撃することはしない。

 六本の腕を翼のように広げて展開し、タイタニアと対峙するのみ。

 これで思い切り身体を動かせる――タイタニアは、ゆっくりと肩を回した。


「ずいぶんとお行儀が良いじゃないの、このデカブツちゃん……」


「あははっ! あたしが興味あるのは、ティナおねえちゃんなの! 他はどうでもいいの」


「ずっと私のこと見てたのね、あなた……昼間のあの時から」


「そうよぉ、あたし、ティナおねえちゃんのファンになりそうなの♪ 別にいいでしょ、あはははっ!」


 全く悪びれる様子もなく、赤髪の少女はケラケラと笑みを振りまいた。


「まさか……あなた、あのゲス親父の差し金……?」


「あははっ、やっと気づいてくれた? そうだよぉ、だからここは――と・お・さ・な・い・ぞっ♪」


 赤髪の少女が、さらに獰猛さに磨きをかけた顔で、笑みをむき出しにした。

 タイタニアはわずかに顔を伏せた。

 ジュリアスが言っていたブリュグナント家への疑いとは、こういうことか。

 大陸を震撼させている武装勢力を裏から手引きしているのは、あのゲス親父だったということか。

 タイタニアは肩を震わせ、笑った。

 これはもう、どうしようもない。

 バルカンヌは本気なのだろう。

 あの巨体のバケモノや得体の知れない連中を、手段を選ばず使ってきたのだ。

 もはや、全面的な対決は避けられないだろう。

 タイタニアの闘志、戦意がじわりじわりと膨れあがってゆく。


「そっか、そうなのね……じゃあ、やるしかないわね」


 ぼそっと呟くと、タイタニアはさっと顔を上げた。

 身体が内部から急激に熱を帯びるのを感じる。

 背筋を伸ばし、両拳を強く握りしめた。


「……ふううぅ……くあああぁ……」


 ゆっくりと息を吐きながら、全身に力を入れる。

 きつめの使用人服のあちこちで、生地が裂け始めた。

 みぞおちの下辺りでビリビリと生地が裂ける。

 上着が、胸から上と下の二つに離れちぎれた。

 全身の血流が一気に活性化する。

 血液が流れ込み、乳房と後背部が急激に膨れあがる。

 生地を押し上げ、内側から裂いていった。

 体内の装甲思念体が、じわりじわりと動き始める。


「ふんくっ……ん……んあああっ!」


 両肩の付け根から、皮膚を突き破るように紅蓮の帯がいくつも飛び出す。

 タイタニアの装甲思念体である。

 紅蓮の帯は、肩から前腕、そして指先に至るまでぴったりと巻き付いた。

 絡みあう刃を連想させる、生体装甲を形成。

 鮮烈なまでの青い瞳が、燃え上がる炎のような赤い光を強く放ち始めた。


「――ふんっ!」


 裂帛の気合いと共に、亜音速の回し蹴りを宙に二度繰り出す。

 バシッと、ムチを振るったみたいな鋭い音が発生。

 局所的衝撃波でスカートの生地が裂け散り、丈が膝あたりまで短くなる。


「へええ……やる気まんまんじゃない、ティナおねえちゃん……アーディ、とっても嬉しい!」


 愉悦を堪えきれないみたいに、赤髪の少女・アーディは、小さく肩を揺らした。

 タイタニアは脇を引き絞り、右腕を前に突きだす。


「一度決心した以上、後ろに戻る道は無し!

 いかなる壁があろうとも、貫いてこその乙女道!

 通行料はこの命! 取れるものなら取ってみよ!」


 威勢良く身振りを交え、決め口上を名乗り上げた。

 『命のありかはここだ!』とばかりに、ぐっと握った拳を左胸にドンと叩きつける。


「あはっ、あははははっ! いいっ、すごくいいっ……ああっ、熱い、ゾクゾクしてくるぅ!

 ティナおねえちゃん、はやく来て……その真っ黒の壁を突き破って、エリュシオーネの力を、あたしの身体にぶつけてっ!」


 アーディは、目を爛々と輝かせ、大きく見開き、哄笑する。

 舌先でチロリと唇をなぞり、両腕を抱きしめ、殺意と狂気と悦びに濡れ満ちた瞳でタイタニアを見つめた。

 

 

【次回予告】

 

 可憐なる戦の申し子、アーディ!

 圧倒的戦闘能力でタイタニアを激しく翻弄する!

 なぶり尽くされた肉体で、タイタニアはどうやって勝機を見出すのか?

 

 次回、熱血装甲少女譚、

 

「しかと見よ! 燃え上がる乙女の魂ここにあり!」



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