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第四話 結局、身体が目当てなの?


「お父様っ、不肖タイタニアッ、ただいま参りました――っ!」


 タイタニアは大窓を突き破って絨毯の上に着地、ズザザッと滑りながら静止した。

 胸から腰に巻き付けたシーツの各所に切れ目が走っている。

 無数のガラス片によって裂かれたものであった。

 全身からもうもうと闘気をみなぎらせ、タイタニアは広い室内をゆっくりと進んだ。


 真紅の絨毯の上で踊る緋色の紋様――紅蓮の業火を思わせる絨毯だ。

 壁を見ると、ふんだんに宝石類をあしらった刀剣類が掛けてある。

 天井を見上げると、戦争を題材とした壮大な構図の壁画――燃え盛る戦場を背に、修羅の形相の戦士たちが血塗れになって剣や槍を交えている。


 正面には応接用の豪華な革製ソファーがあった。

 ソファーの近くには、非常に豊満な肉体を持つ女性の大理石像。

 鷲掴むような形で胸に手を当てていた。

 扇情的この上ないポーズで、生々しいほど艶やかな光沢を放っている。

 他にも、豪華な調度品やら骨董品やら美術品がずらりと並んでいた。


 燃えたぎる野心、尽きることのない好奇心、そして恐れるものを知らぬ傲慢さと自己顕示欲――それらが混ざり合い、濃厚な気体と化して満ちているようだった。


「……この大うつけが。向かいの館から飛び込んできよったか」


 非常に大柄な美丈夫──タイタニアの父、バルカンヌ・ブリュグナントが、執務机から立ち上がる。

 ブリュグナント家の現当主にして、ハンザ商都連邦の国家元首であるこの男。

 長身のタイタニアより、更に頭一つ分は高い。

 優に二メートルはある堂々たる体躯に、豪奢な服をまとっている。

 金色の髪は整髪油で整えられていて、獅子のたてがみを連想させた。

 あごひげを蓄え、齢四十半ば相応の貫禄をたたえている。

 だが、彫が深く整った容貌はいささかも衰えていない。

 ひげを綺麗に剃り上げてしまえば、年齢を感じさせぬ美男子ぶりを取り戻すことだろう。


「ずいぶんと体力が有り余っているようだな……フッ、まあよい。とりあえず、そこに座るがいい」


 そのバルカンヌだが、派手に執務室の窓を壊されたというのに、怒りや不快感は微塵も見せない。

 うっすらと余裕さえにじませているような顔だった。


「それでは――」


 腰付近に巻かれたシーツ生地の端を掴み、ちょこんと膝を屈して会釈をするタイタニア。

 罪悪感など欠片もなく、それどころか己の意志の強さを思い知らせてやると意気込んでいたのだ。

 父親に負けず図太い神経である。

 タイタニアとバルカンヌはそれぞれ、向かい合う形でソファーに腰掛けた。

 ソファーの間には、丈の低い大理石のテーブルが置いてある。


「面白い格好だな。それが最近のお前の趣味か?」


「あら、これは失礼。時間がもったいなかったもので、つい――誰かさんが、本人不在の場所で素晴らしい縁談を決めようとなさるもので」


 不敵な笑みで、皮肉を込めてバルカンヌに言い放つタイタニア。


「ならば喜ぶがいい。実によい知らせだ――お前が持て余すその肉体、ついに使命を果たすときが来たようだ」


「まあ、嬉しい! この私を満たしてくれる殿方がいらっしゃるの?」


 タイタニア、バルカンヌともに、ドスを利かせた笑顔で応報。

 獅子の咆哮のごとき威圧感に満ちあふれるの親子の語らいであった。

 常人の精神なら数分と持たぬほど、重圧と迫力満点の空気であろう。


「……これを見よ」


 バルカンヌは懐から小さな額に入った肖像画と書類数枚を取り出し、テーブルの上に並べた。

 肖像画には、流麗な容貌を持つ銀髪の貴公子が描かれている。

 書類は、高級感のある厚い紙が使われていた。

 タイタニアは書類を手に取り、目を通す。


「誰かしら、この人。フィルドリス……プロードシア?」


 その内容を見て、思わず眉をひそめた。


「さよう。フィルドリス・ヴィルム・プロードシア。プロードシア皇族家、第一皇太子……これほどの相手、まさか不服は言わぬだろうな?」


 有無を言わさぬとばかり、笑顔で重圧をかけてくるバルカンヌ。

 ミルドラント帝国の北方に隣接する大国、プロードシア皇国――伝統的に工業が発達しており、実用性に優れ丈夫な工業製品は大陸でも有名である。

 かつてはミルドラント帝国に次ぐ勢力を誇っていたこともある由緒ある国家。

 その大国の次期国家元首との縁談であった。

 本来であれば、大陸社交界の年頃の娘たちなど狂喜せんほどの相手である。

 だが、問題があった。

 現在、水面下の外交で、プロードシア皇国とミルドラント帝国側と鋭く対立しているのである。

 それは『禁忌技術』と呼ばれ、遙か昔に滅びた高度科学技術の扱いを巡ったものだった。

 ミルドラント帝国は建国以来、『禁忌技術』を危険視し、旧世界の高度科学技術の復活を容認しない方針を貫いてきた。

 一方で、工業技術を国の誇りとするプロードシア皇国は、高度科学技術に対するミルドラント帝国の姿勢に、反発を強めていたのであった。


「この自信過剰な顔、いけ好かないですこと……というよりも、そんな縁談をして、ミルドラント帝国を向こうに回すつもりなの、お父様?」


 タイタニアは明確に懸念を抱いていた。

 自分自身が政略の駒として消耗されるだけでなく、下手すれば大陸全土を巻き込む戦乱のキッカケになりかねない縁談だ。

 強大な経済力を誇るハンザ商都連邦がプロードシア側につくとなれば、世界のパワーバランスに激震が走るのが避けられないからだ。


「早まるな、ティナよ……ミルドラント帝国は未だに健在。正面切って戦争をするなど、そんな愚計をわしが犯すと思うか?」


「それならば、どうして?」


「ハンザが、秩序の使者となるのだ。ミルドラント、そしてプロードシアの双方に太いつながりを持つ我が国が、平和的に紛争の解決へ導くための礎……それが此度の縁談の真意」


「……平和をもたらすための礎ですって?」


 油断無く、大義名分を巨壁のごとく張り巡らせるバルカンヌ。

 タイタニアはすぐには反論できず、ギリっと歯ぎしりをした。


「異論は無いな、ティナよ?」


「うっ……」


 タイタニアは、陰謀めいた笑みを浮かべるバルカンヌを、じっと見据える。

 このまま反論ができなければ、縁談が決まってしまう。

 せっかくジュリアスと運命的な再会を果たしたというのに、政治の力で引き裂かれてしまうというのか。

 ハンザとプロードシア間のつながりを太く強固にするための縁談。

 そんな象徴的な妃を、自分は演じられるだろうか?

 分厚い仮面を被り、冷たく暗い、謀略に満ちた宮廷で生き続けることができようか?

 そんな人生を強制されるくらいなら、死を覚悟し、最後まで反抗を貫くだろう。

 自分のそうした激しい一面をバルカンヌが知らないはずがない。

 では、どうして、そんな危険をはらんだ自分を妃候補としてプロードシアに送るのか?

 ブリュグナントの一族を見渡せば、自分よりずっと駒にふさわしい女性がいるはずだ。

 それしかない。そこを突くしかない。

 タイタニアは唇を一噛みして、口火を切った。


「お言葉ですがお父様、私のような凶暴な女を、それほど重要な縁談に選ぶ真意とは?

 一族内を見渡せば、私よりもふさわしい異母姉妹たちが少なからずいるでしょうに」


「ほう……お前の頭なぞ、付録かと思っていたが。まあよい、教えてやろう」


 実に鷹揚に講釈を垂れはじめるバルカンヌ。


「ぜひとも、後学のためにも、お父様のお考えをお聞かせ頂ければと」


 どのような論拠が飛び出すというのか――挑発的な光を瞳に宿し、タイタニアはバルカンヌの言葉を待ち構えた。


「ただの同盟強化であるのなら、操り人形で事足りよう。されど、此度の趣はさにあらず……用があるのは、お前の血肉ぞ。すなわち、優れた次世代を産み出す最高の母体。全てはそこに行き着く」


 バルカンヌの論陣防御は揺るがなかった。

 だが、タイタニアも負けてはいない。


「……あら、それって結局、身体が目当てなの? ふふふっ、あまりにも身も蓋もないお言葉!

 でもお父様、母体、母体とおっしゃっても、私が産むのは冗談抜きでバケモノかもしれないわ。

 それでもいいの?」


「ほう、どういう意味だ? 言ってみよ」


 バルカンヌの瞳の奥が、わずかに鋭い輝きを帯びる。


「実は今日、ネザルラントの街中で、例の武装勢力の襲撃があったでしょ?

 その時、現場にいたの、私」


「……続けよ」


 バルカンヌが、無口になる。

 腕を組み、タイタニアに発言の続きを促した。

 普段なら、世迷い言扱いで一蹴するであろうバルカンヌ。

 しかしながら、今は違う。

 タイタニアが知りうる事実を聞き出そうという姿勢が、感じられるのだ。

 ここは持てる手札を惜しむところではない。一気呵成に出るべきだ――タイタニアはそう判断し、一気にぶちまけた。


「最初はね、危うく殺されかけたの。もうだめかと思ったわ……でもね、なんとか助かってね。

 それから真っ赤な鎧みたいなものに身体が覆われたの。

 そしたら、もう気持ちが押さえ切れなくって、無我夢中で拳を撃ち込んで、粉々に砕いてやったの!」


「……そうか、あれを倒したのはお前だったのか」


 バルカンヌは、ぽつりと呟いた。

 特に持論を振りかざしてくる様子はない。

 先ほどからタイタニアの話に聞き入っている。

 何か、事情を知っているとでもいうのだろうか?

 いいや、バルカンヌはハンザ商都連邦の国家元首であり、相当な情報網を持っているはず。

 ハンザを襲った漆黒の巨体や、自分やジュリアスの身体に生えた鎧のようなものについて、情報を掴んでいても不思議はないだろう。

 ならば、なおさら好都合。

 タイタニアは、さらにたたみかけた。


「まさか、自分があんなバケモノになるなんて、思ってもいなかったけど……

 ふふふっ、もしかしたら私、プロードシアの皇子様を食い殺してしまうかも……それでも、いいのかしら?」


 かすかに口元に不敵な笑みを浮かべ、バルカンヌの目をじっと見る。

 果たして、今のセリフで効果があるかどうか――

 バルカンヌが黙すること数十秒。

 ゆっくりと口を開き、反論を開始する。


「ふ、ふははは……そうか、そういうことか。すばらしい! 実にすばらしいぞ、ティナ!」


 いきなりだった。

 バルカンヌは、これ以上痛快なことがあるものかと言わんばかりに、大いに哄笑したのである。

 タイタニアは呆気にとられた。

 二の句が継げない。まず、訳が分からない。

 本当に自分のような者を、嫁として送り込むつもりなのか?

 思いあぐねているところに、バルカンヌが切り出してきた。


「よく聞け、ティナよ……我らブリュグナントは、『帝都の系譜』の一員。

 すなわち、『エリュシオーネの末裔』――そう、文字通りの意味でな」


「な、何ですって? 末裔って……どういうことなの、お父様?」


 突然の宣言に、タイタニアは大きく思考を揺さぶられる。

 帝都の系譜――大陸各地を収める有力氏族・諸侯の中で、特に歴史の長い家は、同じ血統の起源を持つとされている。

 その血の系譜は、ミルドラント皇族家を頂点としていた。

 己の家が帝都の系譜であることは、由緒と伝統ある家系の証拠であり、大いなる誇りとされた。

 タイタニアはこれまで、帝都の系譜などという名称は、単に家柄の格式を飾る程度に思っていた。

 ところが、本当の意味でエリュシオーネの末裔とは、どういうことか?

 バルカンヌは、タイタニアが知らなかった事実を告げ始める。


「帝都の系譜に生まれし者は、エリュシオーネの洗礼を受ける。そして、資質が認められれば、並ならぬ力が発現する――各家門の長たる者の間には、そう伝承されている」


「そんな話があったなんて……はっ! ということは、この私の身体は、まさか……」


 並みならぬ資質、という言葉が、タイタニアの思考に掛かっていた霧を次々と打ち晴らしていった。

 人並み外れた力に、ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない肉体の強靭さ。

 食べ物に好き嫌いが無く、良く身体を動かしていたからと思い込んでいた。

 だが、その真の理由が、エリュシオーネの末裔たる恩恵とは。

 とすると、昼間、両腕を覆ったあの紅蓮の甲冑のような生体装甲は――

 悶々と思考を巡らせるタイタニアに、バルカンヌが落雷のごとく気迫を込めた声で告げてきた。


「いかにも! お前はエリュシオーネに選ばれたのだ!

 そして、その強靭なる肉体は、強く優れた次世代を産み出すための最高の母体。

 ゆえに、わしはお前を選んだのだ……ここまで言えば、お前の頭でも分かるだろう?」


 そう言うと、ずいっと巨躯を前に傾け、右腕を伸ばしてきた。


「お前が直感したことは、当たっていたのだ――そう、先ほど自分自身で言ったように、お前は怪物。

 並みの男では手に余すどころの話ではない……だからこそ、わしが取りはからってやろうというのだ。

 その価値を知る者にしかできぬことがある。分かるか?」


 ぼうっとしているタイタニアの顎を掴み、くいっと上げる。

 のぞき込むようにして、タイタニアを威圧的な笑みを持って見下ろした。


「そ……そんな」


 今回の話は、ただの縁談ではないとうすうす感じていた。

 だが、何ということだろうか。

 自分は、人間ではないというのか?

 人よりも、ちょっと身体が頑丈なだけの話ではなかったのか?

 自分を取り巻く事情が次々と暴かれ、タイタニアは精神的な衝撃を受けていた。

 ぐぐっと奥歯を食いしばり、身をこわばらせる。


「どれ、その顔、わしにとくと見せよ……その反抗的な光、実に頼もしい。

 このわしの娘なら、こうでなくてはな!」


「くっ……」


 バルカンヌが指をくいっと動かし、もてあそぶようにタイタニアの顎を傾ける。


「――ただし、お前はエリュシオーネに少々祝福されすぎたようだ」


「祝福……?」


 硬直していたタイタニアの思考と精神が、ゆるゆると活動を再開する。


「ふははは……これは、今まで考えていた以上に面白いことになるやもしれん。

 よもや、お前の血肉を苗床にしていようとはな。行く末が楽しみなものよ。

 お前がエリュシオーネに再生をもたらすのか、それとも終焉をもたらすのか」


 バルカンヌが急に、低く抑えた調子の声で笑い始める。

 その双眸は得体の知れない喜びに満ちており、爛々と輝いていたのだ。

 得体の知れない薄気味悪さが、タイタニアを襲った。


(……一体、何を知っているというの? どうしてそんなに楽しそうにしているの?)


 眉を険しく寄せ、バルカンヌの目をまっすぐに見据える。

 真の狙いは、どこにあるというのか?

 しかも今回の話に、世界の守護者たるエリュシオーネの存在が絡んでくるとは。

 この非道なる父親は、何を企んでいるのか?

 自分の娘が、いくら酷い目に遭おうが眉一つ動かさない父親。

 家族すら消耗品としか見なさぬ冷徹非情な哲学。

 自分の知らないところで、何かが進んでいる――言い知れぬ生理的嫌悪感が、タイタニアの背筋をぞわぞわと駆け抜けた。

 タイタニアが、惚けた意識にムチを打つ。

 キッと表情を引き締める。


「な、何なの? さっきからエリュシオーネがどうのこうのって。

 そんな神話の講釈ばかりしないで、本当のこと教えてよ!」


 バルカンヌの手を掴み、顎から引きはがした。

 バルカンヌはタイタニアの手を振りほどくと、実に晴れがましいといった様子で腕を広げた。


「聞け、ティナよ……今宵、宴が催される。それは、お前の婚約を祝うものだ。

 大陸各地より数多くの来賓がある。くれぐれも粗相無きように致せ。

 ブリュグナント家の一員として大義を果たすのだ」


「……どういうこと? 縁談の返事は、まだじゃなかったの?」


 タイタニアは眉根を寄せ、ソファーから身を乗り出した。

 困惑を禁じ得なかった。

 ユーリカから聞いた話と事情が違う。

 話はもう決まっていたとでもいうのか?

 とすれば、ユーリカにあのように連絡させたのは何故なのか?

 ひょっとすると、自分を呼び出すための方便に過ぎなかったということのか?


「基本的合意は既に先方に伝えてある。あとは、式典日程など詳細について返書するのみ」


 案の定、であった。

 文字通り、だまし討ちである。

 直前まで何から何までタイタニア本人に伏せておき、先に宴の手配を済ませていたのだ。

 タイタニアは、いきなり逃げ道をふさがれた格好になった。


「……今夜にそんな宴があるなんて。どうして土壇場まで黙って――」


「良いか、お前は早く部屋に戻り、支度を済ませるのだ……わしはこれより、明朝のプロードシア出立の準備に取りかかる」


 バルカンヌは眉一つ動かさず、タイタニアの言葉を平然と退けた。

 ソファーを立ち上がると、悠然とした足取りで執務室を後にしようとする。


「私の話はまだ終っていないの! 待って! 待ちなさいっ!」


 タイタニアは、ハッとしてソファーから身体を起こした。

 立ち去ろうとするバルカンヌを追いかけようとしたその時――


「……えっ?」


 両脚が急激に重くなる。

 まるで、絨毯の上に縫い付けられたみたいだった。

 恐怖で脚がすくんだとでもいうのか?

 いいや、違う。断じて違う。

 そんなことがあるはずがない。あってたまるか――満身の力を両脚に込め、床から脚を引きはがそうと試みた。

 今度は、何かが肉に食い込むように巻き付く圧迫感を覚えた。

 太もも、腰、胸にかけて、不可視の太い縄が巻かれたように肉がへこみ、跡をつけてゆく。

 まるで大蛇に締め上げられているみたいな感覚だった。


「ふっ……くそっ……んぐぐっ!」


 何が起きているのか、タイタニアは全く理解できなかった。

 十メートルを越す漆黒の巨体と真っ正面から殴り合ったこの肉体が、一歩すら踏み出せない。

 いくら力を込めても、その場で震えるばかりなのだ。

 タイタニアが苦しみあえぐのを尻目に、バルカンヌは悠然と部屋を去っていった。


「あっ――」


 タイタニアの右手が、むなしく宙を掴んだ。

 焦燥が、どんどんつのってゆく。

 とにかく一刻も早く、この金縛り的な状態から脱出しなければ。

 タイタニアは懸命に四肢に力を込めてあがいた。

 そして、格闘すること数分、


「こ、このっ! 動け、早く動け――って、のわああっ!」


 突然、全身を縛り付ける拘束から解き放たれた。

 タイタニアは勢い余って、前方につんのめる。

 それこそ、胸と腹を絨毯に打ち付け、そのまま前方に数メートル摩擦し続け、壁に頭から激突した。

 まるで、十分に引き絞られた投石機から、射出されたみたいな勢いである。


「あっ、あちち……はっ! 私の身体は?」


 額をひとさすりして、自分の身体のあちこちを手で触れて確かめた。

 鎖や縄の類があるわけではない。

 直前まで身体を縛り付けていたのは、一体何だったのだろうか?

 みぞおちのところまでずり下がったシーツを、鎖骨の所までたくし上げ、むき出しになった胸の膨らみを覆い隠す。

 シーツの端を今一度しっかりと結び直した。

 胸から腰にかけて巻き付けたシーツの乱れを整える。


「はやく部屋に戻って、みんなに相談しなきゃ……しっかりしろ、タイタニア・ブリュグナント!」


 ピシッと頬を叩いて、己を奮い立たせた。

 深呼吸を一回し、外へ向かって助走を付ける。

 先ほど割砕いた窓から中庭に躍り出た。

 芝生の上に降り立つと、四肢をダイナミックにふるって全力疾走。


「このまま私が諦めると思ったらっ、大間違いよっ!」


 大きく体勢を沈み込ませ、一気に両脚のバネを利かせて垂直近く跳躍した。

 中庭の向こうにある館の二階の窓――同じく先ほど体当たりでぶち破った窓――に、すぽっと飛び込む。

 そのまま廊下に転がり込むように着地、疾走を再開する。

 バルカンヌの執務室に来たときの三次元的最短経路を、キッチリそのまま逆走して自室に戻るタイタニアであった。

 

 

 †  †

 

 

 誰もいなくなったバルカンヌの執務室。

 先ほどまでタイタニアが座っていたソファーのすぐ隣で、空間が鏡面のごとく揺らいでいた。

 それはまるで、たゆたう湖面のようにゆらめいているのだ。

 やがて、そのゆらめきが、人のような形をとる。

 くるくるとその場で回転し、次第に透明度が失われていった。

 長い赤髪を二つに結い分けた少女――アーディが、暗灰色の密着スーツを首からつま先までまとった姿で出現する。

 光学迷彩が解除されたのである。


「ふうっ! ほんとにもうっ、なんて乱暴な人! あのままおじさまに襲いかかってたら、もう大変だったんだから!」


 プンプンとして頬を膨らませている。

 だが、それにしてはコロコロと鈴を転がすような、愛嬌のある声だった。

 大きく損壊したテラス側の窓に、歩み寄る。

 砕けて、鋭く切り立ったガラスの縁を、指先でツツーっとなぞった。

 おもちゃでもいじるようにガラスの端をつまむ。

 パチッ、と音が発生する。

 アーディの指先から、砂状にすりつぶされたガラス粉がキラキラとこぼれ落ちた。


「でもね、でもね、だいじょうぶなんだよ。

 このアーディがいる限り、おじさまには手を出させないんだから♪

 さあ、どうする、どうする、ティナおねえちゃん?」


 愉悦のこもった笑みを口元に浮かべ、陽が傾いた空を見上げるアーディ。

 くるりと窓に背を向けると、その姿は再び色を失い、透き通ってゆく。

 光学的に完全に姿を消すと、執務室内にぶわっとつむじ風が舞い上がった。

 


【次回予告】


 卑劣なる父・バルカンヌの策謀!

 このまま、なすすべもなく謀略のエジキと化してしまうのか?

 だがその時、タイタニアは決意を固め、起死回生の大胆な策に撃って出る!


 次回、熱血装甲少女譚、

 「通行料はこの命! 取れるものなら取ってみよ!」


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