第三話 あなたの名前は、お花ちゃん!
気を失ってから、一体どれくらい経過したのだろうか。
喉にへばりつくような乾きを覚え、タイタニアはわずかに身体をよじった。
「……うぅ……ん……」
今にも消え入りそうな声を上げる。
意識はまだ朦朧としている。
どうやら、ベッドらしきものの上に寝かされているようだ。
気を失う直前、かなり出血があったのを覚えている。
果たして現在、自分の身体は、どうなっているのだろうか?
乾いた血が包帯などに接着していて、動く度に痛みが走りそうに思える。
まぶたも重いし、どうにも身体を動かすのがおっくうに感じられた。
(……ジュリちゃんのこと、どんなふうにしようかしら?
ふふ、まずは添い寝して、一枚ずつ取っ払って、そしたら……)
まどろみの中、ほんのりと甘やかな妄想が広がり始める。
と、その時だった。
「くっ……」
ひんやりとした感覚が、脇腹から太ももにかけて、すうっと広がってゆく。
誰かが、ぬるぬるとした感触の何か液体のようなものを塗り込んでいるみたいだった。
とても滑らかで繊細な指使いだ。
ゆっくりと丁寧な動きで、指の腹で押し広げ、包み込む。
それはとても心地良く、タイタニアにさざ波を連想させた。
しっとりとした指の感触が、腕や肩、腹部にも走っていった。
(……こ、これは、すごい……一体誰かしら?
こんな技能を持った侍女、ウチに居たかしら……)
別に他意はない。
素朴な疑問であり、好奇心だけだった。
タイタニアは重いまぶたを開け、むっくりと上半身を起こす。
はらり、はらり、と何かが身体の上を滑り落ちていった。
「……ん?」
ぼやけた視界に、とても見覚えのある人物が映っている。
「はっ……!」
びくっとした様子で声を上げていたのは、なんとジュリアスだった。
両腕を捲っていて、両手は青いジェル状のもので指先まで包まれている。
先ほど覚えた感触の正体はその青いジェル状のものだろう。
「ジュリちゃん? それに、もしかして、ここって私の部屋?」
タイタニアは、寝ぼけ眼で周囲を見渡した。
寝ていたのは自室の天蓋付きのベッドであり、外から見えないようにカーテンが引かれている。
どうやら、気を失っている間、ここでジュリアスに介抱を受けたようである。
視線を動かし、自分の身体の状態を確かめた。
一糸もまとわぬ裸身で、膝上に数枚のタオルが掛かっていた。
人の頭ほどもある圧倒的ボリュームの膨らみが弾力的に揺れ、左右の胸で威容を誇っている。
「……これって、もしかして……全部、見られちゃった?」
心臓が徐々に早鐘を打ち始める。
体温がじわりと上がり始めた。
「ご、ごめんなさい! その……可能な限り必要最小限の露出で、緊急措置を……ぜ、全部は見ていないはず……です」
あからさまにうろたえるジュリアス。
いつの間にか土下座体勢であった。
平身低頭どころではない。
顔をぴったりとベッドに押しつけて戦々恐々の面持ち。
ぴくりとも視線を上げようとしなかった。
「いや、いやあああぁっ! そんなの、いやあああぁっ!」
タイタニアはジュリアスの姿を確かめると、手で口を覆い、絹を裂いたように悲鳴を上げた。
「ごめんなさい! そ、その、血を拭き取って、お手当をするためには、どうしても服を――」
「言い訳しないで! どうして目をそらすの?
私の裸ってそんなに見たくないの? ちゃんと見てくれなきゃ、いやあああぁっ!」
「えええぇ――っ?」
タイタニアは、非常にショックを受けていた。
ジュリアスに少しは喜んでもらえるかと思っていたのに。
なんと、己の裸身から視線をそらされるとは。
これは、アイデンティティーを揺るがす一大事。
涙目になって、ジュリアスの肩を掴み、身体を揺り起こす。
がくがくと揺さぶり、ジュリアスに訴えかけた。
「ひどいよ、ジュリちゃん……目をそらすなんて。うううっ、お姉さんの魂、もうズタズタ……」
「えっ、いや、その……決して見たくないというわけではなくて……でも、失礼になってはと思い……」
目を白黒させ、息も絶え絶えに返事をするジュリアス。
深呼吸を一つして、気持ちを整え、タイタニアは言葉を続ける。
「いい、ジュリちゃん? 一糸まとわぬ裸の姿こそ、乙女の魂……
それから目をそらすのは、乙女の魂を侮辱し、否定し尽くすことなの。
それでもジュリちゃんは、私の身体から目をそむけるの?」
「ふえっ? えええっ? で、でも……」
熱き血潮をたぎらせて、燃え上がる瞳でタイタニアは力説した。
ジュリアスは、驚愕の余りに凍てついているようだ。
「それに……服を脱がせて血糊を拭き取った際に、もう一通り見ちゃってるでしょ?
もう、何をい・ま・さ・ら♪ ジュリちゃん、男の子でしょ?
さあ、来て……乙女の魂はここよ! がしっと掴んで!」
ベッドの上でぺたんとへたり込むジュリアスに、四つん這いで迫るタイタニア。
「くっ、くくっ……ふん……くく……ぼ、僕は」
ジュリアスは頬を真っ赤に染めて、目をぐるぐる回していた。
これくらいの刺激で虫の息では、先ほどはどうやって介抱をしたというのだろうか。
頼もしいやら、うぶなのやら。
可愛らしい顔と相まって、ジュリアスを見ていると、強烈な保護欲求が湧き上がり、胸の高鳴りが止まらない。
さて、どういじってあげようかしら――そんなことを考えながら、ガバっとジュリアスを引き寄せた。
「それっ、つかまえた♪ さあ、観念なさい!」
「はふっ?」
ジュリアスは素っ頓狂な声を上げ、かちこちに動きを止めた。
タイタニアはジュリアスの背中に腕を回し、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
自分の胸の双丘を、グリグリとジュリアスの胸に押しつけた。
血流が活発になり、吐息の温度が徐々に上昇してゆく。
「さあ、ジュリちゃん……乙女の魂、その全身で感じ取って――」
恍惚としてジュリアスの頬に口づけをしようとした、その時だった。
何か熱い液体のようなものが、胸にかかった感触を覚えたのである。
ぴりっとした鋭い痛みが胸に広がった。
視線を下ろすと、なんと、紅のしぶきが右乳房の裂傷からほとばしっていたのだ。
「あっ……これは?」
ジュリアスの手当が、まだ及んでいなかったのである。
タイタニアが興奮して、血流が良くなりすぎたため、再び出血してしまったのだ。
ジュリアスの上着に、紅の染みが広がってゆく。
ジュリアスを抱きしめるタイタニアの腕から、力が抜ける。
「いけない! すぐに縫合しなきゃ!」
苦悶の情を浮かべていたジュリアスが、ハっとして目を見開いた。
タイタニアの右乳房の裂傷に、手のひらを乗せる。
青く透き通ったジェルを、触れるか触れないかぐらいの絶妙な力加減で塗り広げた。
吹き出す鮮血の勢いが、目に見えて緩やかになる。
「わわっ……えっ、ええっ?」
今度はタイタニアが、咄嗟のジュリアスの行動に呆気にとられる番となった。
ジュリアスが目を伏せ、ジェル越しに乳房の傷に唇をそっと押しつける。
黒い双瞳が、淡い青色の光をぼうっと放ち始めた。
痛みがゆっくりと和らぎ始める。
なんと大胆な。まるで別人である。
だが、それが良い、それが良いのだ。
頬がぼうっと熱くなる。
うっとりとして、目尻がだんだん下がってくる。
胸の真ん中が、きゅうっと締まる感覚を覚えた。
「……くっ……ん、あぁ……」
タイタニアは、思わず吐息をこぼした。
今度は何か柔らかくて暖かいものが傷口に差し込まれ、くすぐったさを覚えたのだ。
身をよじるほど強い刺激ではなく、背筋がぞくっとするような心地よさだ。
見ると、ジュリアスが器用に舌先を使い、傷口部をなぞっていた。
傷口周辺の炎症が引き、静脈、毛細血管、脂肪組織、神経軸索がミクロのレベルで縫い合わされてゆく。
乳房の裂傷が、時間を逆戻しするように縫合されていったのだ。
だが、そんなことはいざ知らず、タイタニアはすっかり舞い上がり、高揚していた。
「ふふっ……いきなりなのに、ちょっと大胆……でも、嬉しい。
ジュリちゃんが……ちゃんと私を見て、触れてくれて……」
もう堪えきれない。
タイタニアはジュリアスの頭をきゅっと抱きしめ、頬をスリスリと寄せた。
どきっとして、ジュリアスが乳房から唇を離し、顔を上げる。
双瞳から放たれていた淡い青色の光が、すうっと消えた。
「はっ! 僕は……こ、これはそのっ、緊急の……きき、きっ」
しどろもどろどころか、言葉になっていなかった。
タイタニアは、ジュリアスの頭にさらに頬をすり寄せ、黒髪をさわさわとなで続ける。
「よしよし、よしよし……それでこそ健全な男の子♪ 欲しくなったら、いつでも言うのよ?
ジュリちゃんならいつでも熱烈大歓迎……ん? あら、傷が治ってる」
「つ、ついカッとなって……じゃなくて! 僕、これは大変だと思って、咄嗟に――」
首を左右にプルプルと振って、必死に何やら弁明めいた言葉を続けるジュリアス。
突如そこに、ベッドのカーテン越しに助け船が差し出された。
「――いかにも。それこそ、御曹司が持つ最大の能力。
液体分子への干渉を基礎とした生化学反応の活性化、及び微視的水準における治癒縫合、組織再生でございます」
恭しい声で告げたのは、ベッドの側で片膝をつき、馳せ参じたレヴィンであった。
「あら、この声は……?」
「カーテン越しではありますが、どうかご容赦を……先ほどは挨拶もなく失礼致しました。
お初にお目にかかります。自分は、レヴィン・ザルスラント。ネレディウス家で武装執事長を務めさせていただいております」
「こちらこそ初めまして、タイタニア・ブリュグナントよ。あなた、さっきデカブツ戦の時、ユーリカを助けてくれた人ね? 本当にありがとう。あの時はもう、私、心臓が止まりそうだったから」
「いえ、礼には及びませぬ。己の責務を果たしたまで」
「ところで、あなた、ネレディウス家の人なのよね。ふむ、ネレディウス家……どこかで聞いたような」
挨拶もそこそこに、タイタニアが思いあぐねていたその時だった。
ジュリアスの表情が明らかに動揺していた。
視線に落ち着きがないのが、はっきりと見て取れる。
一体どうしたというのだろうか?
「ちょ、ちょっと待ってよ、レヴィン! いきなりそんな――」
「御曹司、装甲思念体を見られ、我らの正体を晒した以上、もはや隠し立ては無用。過度の配慮は、かえって非礼となるもの。違いますか?」
静謐さをたたえた落ち着いた声で、レヴィンはジュリアスを諭す。
ジュリアスは下をうつむき、考え込んだ。
「あっ、思い出したっ! ネレディウス家って、ミルドラント帝国の帝都御三家じゃないの?
って、ええっ、どういうこと?」
タイタニアは驚きを禁じ得ず、思わず声を上げた。
帝都御三家――大陸最大の覇権勢力であるミルドラント帝国における準皇族。
ミルドラント皇族の親族家門であり、傍流といえどもその勢力はまさに帝国内国家。
ミルドラントの屋台骨を支える有力家門であり、その領地は帝国中央を守るように北部・南部・東部に位置していた。
また、万が一ミルドラントの皇統が絶えた場合には、その跡を引き継ぐことになる。
もしや、目の前にいる愛くるしい美少年が、帝都御三家の一員だというのか?
いや、だからこそレヴィンは『御曹司』と呼んでいたのか?
「そ、そうなのジュリちゃん? 本当のこと言ってごらん。大丈夫、絶対怒らないから」
タイタニアはジュリアスの肩をふわっと掴み、じっと瞳を見つめた。
にらめっこ開始。
一分も経たず、ジュリアスは完敗した。
「うぅ……はい、僕の名は、ジュリアス・ラ・ネレディウスです。
この度は身分を偽るようなマネをして本当にごめんなさい!」
ジュリアスは、じわりと目を潤ませて謝罪の言葉を紡ぐ。
「やっぱり! でも、名前、偽っていないじゃない。ジュリアスって名乗ってたし」
「あっ、そうだった! えっと、それは……さすがに久しぶりに会うのに、名前まで偽るのは、やはり忍びなくて」
「ああ、なるほどね。ご無沙汰だったのね――って、どういうこと?
私とジュリちゃん、ずっと前に会ったことあるの?」
今日は一体何回、肝を抜かれることになるのか。
タイタニアは、まじまじとジュリアスの目を見ながら、さらに問いを重ねた。
「覚えていない、か……無理もないよね」
ジュリアスは、悲しそうに目を伏せ、肩を落とした。
「ご、ごめんなさい! 何か手がかりとかある? そうすれば思い出せるかもしれないわ」
余りに気の毒に感じられて、タイタニアは慰めるつもりで言葉を掛ける。
「八年ほど前――嵐の中、森で迷子になった僕を捜し出してくれて、その……」
「嵐……森の中、迷子……待てよ、どっかで……」
タイタニアは腕を組み、じっと思考した。
タマネギの皮を剥くように、記憶をたぐり寄せてゆく。
「雷の鳴り止まない中、ずっと励ましてくれて……その時に、僕のことを」
「あれ……まてよ。もしかして……あの時の『お花ちゃん』?」
人差し指をピンと立てて、ジュリアスの様子をうかがうように慎重に切り出した。
「……はい。『お花ちゃん』、です」
ポン、と手を叩き、表情が輝くタイタニア。
その一方、ジュリアスは、照れくさそうに苦笑していた。
さかのぼること今から約八年前――
有力諸侯間の交流の一環として、ネレディウス家がハンザを訪問したことがあった。
当時、タイタニアは九才になったばかり。
ハンザの有力氏族も、ブリュグナント家所有の別荘に招かれていた。
大人たちが社交する間、子供たちは子供たちで、広大な別荘敷地内でかくれんぼうにいそしんでいたのであった。
ところが突然、局地的な激しい雷雨が襲い、子供たちは館に避難せざるを得なかった。
館の中で雨が上がるのを待つ子供たち。
そこに異変が起きた。
一名、ネレディウス家の子息が、行方不明になったのである。
和やかな社交の場は、一変した。
大勢の使用人たちがかり出され、茂みや林の中をくまなく探した。
それでも一向に、ネレディウス家の子息は見つからなかった。
いつの間にか日は暮れ、夜通しの捜索という大騒動になってしまったのであった。
その時、ジュリアスは、別荘敷地内にある管理小屋の中に逃げ込んでいた。
かくれんぼうでなるべく見つからないようにと、奥へ奥へと進んでしまい、道が分からなくなっていたのだ。
突然、ガラガラと巨大な岩が振ってきたような雷鳴が轟く。
『うわああぁっ!』
びしょびしょに濡れた服のまま、ジュリアスは管理小屋の隅っこで震えた。
『こわいよ……だれか、だれか……』
ごしごしと目と鼻をこすり、ジュリアスは必死に恐怖に耐えていた。
『うう、からだもびしゃびしゃで、きもちわるい……』
濡れた服はずしりと重たく、ジュリアスの身体に負担をかけていた。
身体が冷えてきて、ますます不安がつのってきた。
そこに再び、かなり大きな雷が落ちた。
暗い管理小屋の中が、昼間のように明るくなった。
ジュリアスは、飛び上がった。
『うわああっ! いやだ! こんなの、もういやだようっ! いたたっ!』
慌てる余り、壁に頭をぶつけた。
と、その時だった。
管理小屋の扉が、バタンと、勢いよく開けられた。
『ああっ、いたいた! やっとみつかったぁ……もう、たいへんだったんだよ!』
ぎょっとして、恐る恐る視線を向けた先にいたのは、背の高い女の子だった。
柔らかなプラチナブロンドの髪が、雨に濡れて額にぺたっと張り付いていた。
肩を荒く上下させ、息を整えていた。
扉を閉めると、つかつかと中に入ってきた。
『うええっ……ふっく……うう』
ジュリアスは嗚咽しながら、女の子にしがみついた。
ずっと暗い中で一人だったので、あまりにも心細かったのだった。
『ほらほら、かぜひいちゃうよ? さ、ぬいで、ぬいで!』
『えっ?』
呆気にとられるジュリアスの目の前で、女の子はさっさと服を脱いだ。
上から下へと、濡れた服を潔く脱ぎ下ろしていった。
そしてついに、最後の下着一枚を、つま先を器用に使ってぽーんと脱ぎ放った。
文字通り、生まれたままの格好、すっぽんぽんになった。
そのままぺたぺたと小屋の中を歩き回り、何かを引っ張り出した。
それは、大きな毛布だった。
『えへへ、これあったかいよ♪ いつもね、ここにかくしてあるの』
『う、うん……そうなんだ』
これから一体何を始めようというのか。
ジュリアスはまるで事態を把握できなかった。
ただただ、立ち尽くしているばかりだった。
そこに、女の子がジュリアスをせき立ててきた。
『どうしたの? ひとりじゃぬげないの? しょうがないなぁ! おねえちゃんがてつだってあげる!』
『えっ、ええっ、やっぱりぬぐの?』
『もう、あまえんぼうなんだから! ばんざいしてっ!』
そう言うが早いか、女の子はスタスタとジュリアスの背後に回った。
濡れて身体にへばりつくジュリアスの服を、次々とはぎ取っていった。
ジュリアスはなされるがままだった。
『ほら、こっちこっち』
女の子が手招きをした。
ジュリアスは下腹部を手で隠しながら、おぼつかない脚で部屋の隅っこに向かった。
『あっ――』
突然、腕を引っ張られ、女の子に抱き寄せられた。
声を上げる間もなく、女の子は毛布で二人の身体をくるんだ。
ジュリアスは、呆気にとられっぱなしだった。
『ほら、これならあったかいでしょ♪』
『う、うん……』
女の子は腕を回し、ジュリアスを胸に抱きしめた。
ジュリアスの頭を『いいこ、いいこ』と撫でてきた。
何て頼もしくて、優しい子なんだろう――ジュリアスは、ぼうっと女の子の顔を見上げていた。
『かくれんぼうで、はりきっちゃったんでしょ?』
『うん、ぜったい、みつかってたまるかって……』
『あはは、やーっぱり! おや? すんすん、すすん……いいにおい、する』
『えっ、におい? ぼく、におう?』
女の子は、心地よさそうにジュリアスの匂いを嗅いでいた。
『いいにおい! おはなみたい!』
『そ、そう?』
『うん!』
恐る恐る問うたジュリアスに、女の子はひまわりのような満面の笑みで答えた。
『あ、ありがとう……なまえ、なんていうの?』
『わたし? わたしは、タイタニア・ブリュグナントっていうの。
みんな、ティナっていうの。だから、ティナおねえちゃんってよんで!』
『うん、ティナおねえちゃん! ぼくのなまえは、ミルドラントていこく、ごさんけひっとうの、ええと……』
『ああもう! なーがーいっ! あなたのなまえは、『おはなちゃん』! いいにおいするから!』
『えええっ? そんなぁ……』
タイタニアは、得意満面の顔で、ジュリアスに『お花ちゃん』という名前を与えたのだった。
しょんぼりとするジュリアスに、タイタニアは興味津々といった様子で話しかけてきた。
『かわいいかおだね。おんなのこみたい。やっぱり、おはなちゃんだ!』
『……おとこのこだよ』
ぶすっと頬を膨らませるジュリアス。
その頬を、タイタニアはぷにぷにと指先でつついてきた。
『えへへ、あったかい?』
『うん、すごくあったかい……』
『よかった! なら、もうだいじょうぶ。かみなりきてもこわくなーい!』
と、タイタニアが言ったそばから、ど派手な雷がいくつも落ちた。
部屋の中がまばゆく照らされた。
『……こわくないもん。こわ……うわあああっ! やっぱりこわいようっ!』
ジュリアスはタイタニアに抱きつき、顔を胸に埋めた。
『よし、よし。おとこのこは、ちいさいうちに、いっぱいないておくといいんだよ!』
『そ、そんなの……』
タイタニアの扱いに、またしても頬を膨らませて抗議するジュリアス。
『ところで、さっき、わたしのはだか、ぜんぶみたでしょ?』
『あっ……うん、ティナおねえちゃんが、ぬぐっていうんだもん』
『ああ、ひどい! ちょっとくらい、うれしくないの?
それに、わたしも、おはなちゃんのはだか、ぜんぶみたんだよ? うれしくないの、ねえねえ?』
『まだ、よくわかんないけど、すっごくあったかくて、やわらかいから……うれしい……のかな? たぶん』
『よーし! じゃあ、おおきくなったら、おむこさんにしてあげる♪』
『おむこ、さん……?』
唐突な話にジュリアスは、ちょこんと小首を傾げた。
『そうだよ! わたしのはだかを、さいしょにみたおとこのこなんだよ!
おむこさんにならなきゃ、だめなんだよ!』
『そうなの? でも……おむこさんになるには、どうすればいいの?』
『うーんとね、うーんとね……わたしにもまだわかんなーい!』
『じゃあ、ぼくどうすれば……』
『だいじょうぶ! おはなちゃん、いいこだから、きっとだいじょうぶ!』
『だから、おはなちゃんじゃないよぅ……』
『うーん、いやなの? よし! それじゃ、こんどあったときに、ちゃんとしたなまえ、つけてあげる!』
『ほんとう? おとこのこらしいなまえにしてね!』
『もちろん! かわいらしい、おとこのこのなまえ、つけてあげる!』
『そんなあ……』
当時の様子が、タイタニアの脳裏に克明に再現された。
「あああっ! 思い出した! おもいっきり思い出した! 私のハダカを一番最初にみた男の子、『お花ちゃん』だ! そっか、そうだったのね……」
タイタニアは、思わず大きく声を上げる。
「……はい、元『お花ちゃん』です。で、できれば、そろそろ卒業させてください」
「ふふふっ、だから『ティナお姉様』って呼んでくれたのね、ジュリちゃん?」
「はい……やっと、名前付けてくれて、それが嬉しくて」
苦笑を交えながらも、ジュリアスは喜びを押さえきれない様子だった。
きっと、八年前の約束をタイタニアが守ってくれたことが、とても嬉しかったのだろう。
ただし、タイタニア本人は、それとは知らずに『ジュリちゃん』という名前を付けたのであるが。
だが、この巡り合わせを運命と言わずしてなんと言うべきだろうか。
「そうか。だからネザルラントで会ったとき、私、直感したのかな……」
タイタニアは目を閉じ、感慨深く、大きく息を吐いた。
目を開け、ジュリアスの方を見ると、心なしか頬を染めて嬉しそうな表情をしている。
こうして正体を打ち明けることができて、深く安堵し、喜びを感じているのだろう。
「ほらほら、ジュリちゃん、おいで、おいで♪」
「ん? どうしたんですか? どこか傷の具合、あっ――」
タイタニアはジュリアスをぐいっと抱き寄せ、身体を密着させた。
ベッドのシーツをバサっとめくり上げ、二人の身体に素早く巻き付ける。
「こ……これは」
「思い出してくれた? あの時もこんな感じだったよね」
嵐の夜、幼い二人で身体を温め合った時の再現であった。
タイタニアは、ジュリアスをさらに引き寄せる。
頭を腕で抱きしめ、胸にふわんと乗せた。
「あったかい……ああ、懐かしい……雷が鳴る度に、こうやって……」
ジュリアスは、目を細め、安らぎに満たされた顔になっている。
潤んだ目からは、今にも涙がこぼれそうだった。
やはり、昔の原体験というのは、心の中で大きな部分を占めていたのだろう。
ジュリアスがとった行動について、いろいろと合点が行く。
百人以上の愚連隊に囲まれた時、そして、ネザルラントの広場で漆黒の巨体に立ち向かった時。
雷雨の中、タイタニアに抱きしめられた時のことを思い起こしながら、ジュリアスは懸命にタイタニアを守ろうとあがいたのだろう。
(……可愛らしくて、はずかしがりで、それでもがんばりやさんの私の勇者様、か……)
いとおしいという気持ちは、まさに今の気持ちだろう。
タイタニアは、そう確信していた。
ひとしきり、ジュリアスの頭や背中を撫で続け、スキンシップを十分に満喫する。
やがて、欲がちょっぴりと鎌首をもたげ始めた。
「ふふっ、あとは、ジュリちゃんの服を脱がせれば、カ・ン・ペ・キ♪」
「ええっ? なぜ?」
「今、ハダカなの私だけだよ? それって不公平じゃない? 八年前は、いっしょにハダカだったじゃない?」
「じゃ、じゃあ今度は一緒に服を着ましょう! うん、それなら――」
「こらーっ! 乙女の魂を侮辱するのかお主っ! 在りし日に、互いに肌を見せ合ったこのご縁! めおとの誓い立てたなら、さえぎるものは何も無し! それぞ乱世の乙女道! ねっ、そうでしょ?」
口上をびしっと決め、ジュリアスにウィンクをした。
「やっぱり、今ここでお婿さんに……?」
「大丈夫、怖がらなくていいのよ、ジュリちゃん……さあ、身体の力を抜いて。わたしが、これからジュリちゃんを、お婿さんにしてあげるから――」
タイタニアが、ニヤっと口元を三日月のようにつり上げた。
手をわっきわっきと動かし、ジュリアスの上着の背中に指をかける。
「は、はっ、いやっ、その、お婿さんがどういうものか、今は十分わかっているのでその――」
真っ赤に熱せられた鉄みたいに、顔を染めるジュリアス。
もう、ガチガチになっている。
そこに再び、カーテン越しにレヴィンのフォローが入った。
「申し訳ございませぬ。当家の御曹司、未だに筆おろしならず、慣れぬところが多々あります。願わくば、その手引き、タイタニア様にお任せできれば、当家としては誠に――」
「ちょ、ちょっと待って! 筆おろしって、何言ってるの? 主人を追い詰めてそんなに楽しい? この性悪鬼畜執事!」
「はて……追い詰めるとは、これいかに? 全ては御曹司のため。いずれ大公爵となられるお方が、何を取り乱しているのですか? まさか、ここでタイタニア様の申し出を無下になさるなど――」
やけに演技掛かった恭しさで、言葉を紡ぐレヴィン。
「そ、そんなひどいことしないよ! だ……だいじょうぶだよ。ちょっとずつ、ちょっとずつ、なれていくから……」
声の調子を落としながらも、ジュリアスは拒否はしなかった。
大いなる前進である。
タイタニアの魂が、一気に奮い立った。
「ジュリちゃん……男の子の顔になったね。お姉さん、今まで生きてきた中で一番嬉しいかもしれない……」
万感の思いを込め、潤んだ目でジュリアスに語りかける。
「いえ、そんな。僕だってもう十五歳ですし。最初は上着から――って、ああっ、いやっ、僕、全部ハダカになるのは! 一日目は上着だけでご容赦を――」
「けがれ無き、生まれたままのこの姿! 恐れるものなど何も無し! さあ、ジュリちゃん! その八年間の成長を、お姉さんに確かめさせて! そりゃあああっ!」
「い、いやあああぁ――っ! 他にもっと大事なことあるでしょ――バカあぁっ!」
純情な乙女のごとく、可愛らしく身をよじり、あえぎ声を上げるジュリアス。
その姿は、性別を問わず嗜虐心を著しく刺激するかもしれない。
だが、その微笑ましい光景が、突如として破られた。
何者かが、タイタニアの自室の扉を、大慌ての様子で粗っぽく開け放ったのだ。
「た、大変ですお嬢様! 大旦那さまが、大旦那さまが――」
息を切らして駆けつけたのは、ユーリカだ。
また、あの人でなしの父親が何かしでかしたというのか。
しかも、このタイミングの悪さである。
のたうち回る怒気のオーラを、辛うじて押さえ込めるタイタニア。
「ぬはああぁっ! もう、何て間が悪いの! ウチのゲス親父がどうしたっていうの?」
「はい、申し訳っ、ありませんっ、その、縁談の話をっ、急にっ」
タイタニアの中で驚き怒りが劇的に化学反応を起こす。
案の定、どころの騒ぎではない。
娘の人生を文字通りぶちこわしにしようというのか――みぞおちがカッと熱くなる。
「な……何ですって――っ?」
ジュリアスを右腕で抱えたまま立ち上がり、カーテンを引き開けた。
「はいっ、早く来ないのであればっ、さっさと話を決めてっ、先方に返書を――うわおっ? お嬢様、その姿は?」
ユーリカは、シーツ一枚だけを巻き付けたタイタニアの姿に驚愕。どすんと尻餅をつく。
「もう少しで……もう少しで、婿の儀式が始まるところだったのに……ごめんね、ジュリちゃん。ちょっと待っててね」
「……はい、わかりました」
タイタニアは、抱きかかえたジュリアスに頬ずりを一つして、床に下ろした。
バサっと、勢いよくシーツを翻す。
胸から腰にかけてシーツを巻き付け直し、しっかりと生地の両端を結わえた。
「目の前に、巨大な壁があるのなら、当たって砕こう乙女道!
燃え上がる熱き乙女の魂に、破れぬ試練などありはしない!
さあっ、首洗って待ってなさいよ、ゲス親父ッ!」
ぐぐっと胸を大きく張り、五指を威勢良く開いて啖呵を切る。
両脚を開き、重心を落とした。
一拍をおいて、砲弾のごとき勢いで飛び出す。
自室を後にし、邸宅内の廊下を疾風のごとく駆け抜けた。
「あれは、タイタニアお嬢様?」
「な、何という格好……」
「えっ……こ、こっちに向かってきますわよ?」
女性使用人たちが、凝然として立ち尽くす。
それもそうであろう。
裸の上にシーツを巻き付けただけの原始的な出で立ちで、廊下を猛然と疾走してくるのだ。
ちょっとした恐怖であろう。
「ごめん! どいてどいてっ! 時間が無いの――っ!」
「「きゃあああぁ――っ!」」
女性使用人たちのスカートが、タイタニアが巻き起こす風圧で盛大にめくられた。
タイタニアは、父親の部屋がある場所まで一直線に突き進む。
もはや一刻の猶予も許されないのだ。
急がなければ、勝手に婚約承諾の返事が先方に送られてしまうのである。
タイタニアは文字通り、目の前に迫る窓をぶち破って、物理的に直進することを決断した。
三次元的な最短経路を切り開くことで、所要時間を最小化するのである。
「当たって、砕くっ、乙女っ、道――ッ!」
タイタニアは螺旋的回転を加えて右拳を撃ち放つ。
空気が切り裂かれ、前方に衝撃波を作り出す。
鋭角的な前傾姿勢で窓に突撃。
バリバリ、ガラガラと、盛大なガラスの破砕音と共に、タイタニアが伸びやかな姿勢で空中に飛翔した。
地面からの高度、約八メートル。
眼下に広がるのは、邸宅間に広がる中庭であった。
陽の光を受けて無数のガラス片が輝き、タイタニアの花道を宙に飾ってゆく。
腕を広げ、脚を伸ばし、上空から獲物に襲いかかる猛禽のごとき体勢をとった。
綺麗な放物運動軌道を描き、タイタニアの身体が父親の執務室めがけて突き進む。
「このまま直接っ、押し通るっ! まだ出発するなよゲス親父ッ! そりゃあああぁ――っ!」
勇ましい叫びと共に、タイタニアは中庭を飛び越えた。
両脚をぴたっと揃え、全身をドリルのごとくギュルギュルと高速回転させる。
向かい側の館の窓に脚から豪快に飛び込み、ど派手に蹴り砕いた。