プロローグ
――時は夕暮れ。
陽は今にも闇に飲み込まれ、沈みそうである。
橙色と濃い暗青色の鮮烈なコントラストが、極細の輪郭を地平線に描いていた。
本来であれば、人々が家路につく和やかな時間――だが、今日は違っていた。
「急げ! 歩を緩めるな! 突破されるぞ――」
怒声である――物質化して肌に突き刺さるほどの緊迫感があった。
間髪入れずに爆発音――立ち並ぶレンガ組みの兵舎や武器庫から、火の手がもうもうと上がる。
がちゃがちゃと重々しい金属擦過音――分厚い装甲をまとう兵たちが駆けている。
携えたるは肉厚の大口径・長大なる携帯火器――まるで黒鉄でできた大筒である。
「布陣――ッ!」
号令と同時に突然走行を停止、ずらりと整然に方形陣を敷く。
素早く砲身に手を掛け、太い金具を引き、撃鉄を起こした。
砲身を肩に担ぎ、膝立ちに構える。
生身で撃ち放とうものなら、肩関節を破壊せしめるであろう重厚な火器――もはや携帯型大砲だ。分厚い装甲の補助無くしては反動に耐えることができず、まともに撃つことすらできないだろう。
その砲身を、隙間無くぎっしりと密集させたのだ。
鋼鉄の砲台群を連想させるような、壮観な密集陣形。
弓矢、剣、槍、銃などの攻撃では傷一つさえ付かぬだろう。
それもそのはず――大陸最大の版図と覇権を誇るミルドラント帝国、その軍主力たる装甲砲兵騎士団なのだから。
旧世界で『戦車』と呼ばれた陸戦兵器を彷彿とさせる威容的な外観。
正面突破殲滅力では、他国の追随を決して許さぬ戦闘能力。
そのミルドラント帝国軍を向こうに回すなど、正気の沙汰とは思えぬ所行だ。
だが、これほどまでの物々しい戦闘布陣はどうしたことか?
一体、どれほどの相手を迎撃しようというのか?
隊列を組む装甲砲兵たちは、息を殺していた。
自分たちの拠点を急襲し、戯れるがごとく戦線を突破し、その存在意義を愚弄し蹂躙する相手を待っていたのである。
そして待つこと数分――相手は、現れた。
闇空を覆うように燃えさかる炎を背に、立ち上る黒煙をかき分け近づいてくる。
地獄の業火を思わせる紅蓮の光が、その姿を浮かび上がらせた。
果たして、誰が予期できたであろうか――十代半ばとおぼしき愛らしい赤髪の少女が現れようとは!
二つに結い分けられた長い赤髪が、熱風にたなびく。
背の丈は約百六十センチメートルほどだろうか。雌豹を思わせるしなやかな体躯だ。
全身を覆いたるは暗灰色の密着服。文字通り素肌をぴったりと包み込んでいる。
触れれば吸い付くほどきめ細やかな肌に、美しく整った目鼻立ち――まさに青春の美の結晶だ。
しかし、その瞳には尋常ならざる獰猛な光があった。
「――ねえ、お兄さんたち……もうちょっと、がんばっちゃう? あははっ……いいよぉ、あたし、もっと付き合ってあげてもいいよぉ?」
場違いなほど無邪気で、それでいて艶然とした声だった。
目をきゅっと細め、小首を傾げる。嗜虐的な笑みを浮かべ、頬を染めていた。
鋼の意志さえ飴のように溶かしてしまうであろう、しっとりと濡れた唇に幻惑的な微笑。
だが、尋常ならざるは魅力だけにあらず。
少女の右手は、もはや動かぬ全身装甲の兵の首を掴んでいた。
事も無げに、小枝を放り投げるかのごとく――全重量百キロを優に超える装甲ずくめの身体を放り投げたのだ。
「なっ……」
密集陣を組んだまま、装甲砲兵たちは驚愕の声を上げる。
犠牲となった兵は緩やかな放物線を描き、ズシャリと無機質な激突音を立てて地面に激突した。
もはや、人ならざる膂力。
赤髪の少女の可憐なる容貌に惹かれたら最後――ざっくりと身体もろとも命を刈り取られよう。
なれど引かぬ装甲砲兵たち――それは大陸最強たるミルドラント帝国軍たる誇り、または討たれし戦友の弔いか。
「もはやこれまでだ……覚悟せよ、人外の魔性ッ!」
「あははっ! 当ててごらん……当ててごらんよ!」
口が裂けんばかりに、喜びの哄笑を上げる赤髪少女。
戦端は開かれた。
装甲砲兵たちが引き金を引く。起こされた撃鉄が弾底を打ち叩く。銃身内圧が急上昇、銃口からぱっと閃光を放つ。強烈な反動が装甲の肩部に伝搬。ずらりと居並ぶ肉厚の砲身が、一斉に猛烈な火線を噴く。
無数の砲弾が、少女の肉体を貫き、引き裂き、惨たらしくも美しい深紅の散花に変える――かのように見えた。
だが、そうはならない。バンという破裂音と同時に、少女の姿が消えたのだ。
つむじ風が吹き荒れる。周囲の炎、黒煙がぶわっと乱れ揺れた。
その直後、密集陣形の一翼を担う装甲砲兵数名がいきなり宙を舞ったのだ。
砲弾のごとく兵舎に激突、外壁が同心円状に陥没――そのまま地面にずり落ちて動かなくなった。
瞬間的であった。
赤髪の少女は、一気に間合いを詰め密集陣に肉薄していたのである。
その一撃は奇術にあらず――音速を超え、大気の壁をぶち破った突進拳打だったのだ。それは零距離砲撃に等しい威力である。
「お、おのれッ……」
隣接する装甲砲兵が、照準を即応的に変更。赤髪の少女の額に狙いを定める。
だが、引き金は引かれなかった。
機先を制した赤髪の少女の脚が、首に食い込んでいたのである。
百八十度近く開いた脚が放った回し蹴り――優雅に弧を描き、しなり打つ鞭のごとき鮮やかな回し蹴りだった。
装甲砲兵は宙に浮き、くるくると回転。地面に落ち、数度痙攣――動きを止めた。
今度は何を思ったのか。
赤髪の少女は、装甲砲兵たちの密集陣形の前方に躍り出たではないか。
「……ねぇ、まだ当たんないのぉ? はやくぅ、はやく当ててよ♪」
いかにも困ったような顔をして、指先で頬をつつき、挑発してきたのだ。
激怒の罵声の代わりに、撃鉄を起こす音が無数に連なる。陣形前方の少女めがけて、十字砲火が放たれた。
赤髪の少女は、クスクスと笑いながらステップを踏んだ。
脚を伸ばし、手を伸ばし、身体を仰け反らせ、砲弾を回避する。
流れる様な動きで、バック転を繰り返す。
「あはっ……あははっ! どうしよう、どうしよう? あれ、あれれ? 当たんないよ、当たんないよ!」
一瞬たりとも煽るような笑みを忘れず、恍惚とした様子で砲火を避け続けたのである。
赤髪の少女は跳躍を繰り返し、一人の装甲砲兵に接近――逆立ちの姿勢で着地した。
その刹那、しなやかな両脚が蛇のごとく装甲砲兵の首に絡みつく。
「あっ――」
砲身を手放し、己が首の拘束を解かんとするが時既に遅し。
赤髪の少女は両腕を支柱に、両脚と背筋を巧みに操って旋回――装甲砲兵をナタのごとく振り回した。
全身甲冑の体が、遠心力を受けて回転――周囲の装甲砲兵たちに激突、十名前後をまとめて薙ぎ飛ばした。
「ぐっ……う……うおおお――ッ!」
装甲砲兵たちが喚き散らす。
あまりに人間離れした相手に、ついに恐慌状態に陥ったのか――無我夢中の様子で砲撃を展開した。
赤髪の少女は笑みを絶やさず嬉々として、飛び跳ねる。
装甲砲兵たちの間に飛び込み、俊敏に動いて攪乱した。
ふいに、一人の装甲砲兵がその場に倒れる。
「やっ……やめ……俺は……」
苦しそうに呻いた。
装甲のあちこちが陥没し、弾跡が開いている――友軍砲火、同士討ちになってしまったのだ。
装甲砲兵たちの間に著しい動揺が走る。誰も彼もが身体がすくみ、攻撃の手を止めてしまう。
もはや、赤髪の少女に翻弄されるばかりだった。
「あれれぇ……どうしたの、お兄さんたち? 手ぇ、止まってるよぉ?」
いきなりだった。
赤髪の少女が、陣形前列にいる一人の装甲砲兵の真ん前に姿を現したのだ。
無邪気そうに首を傾げるこの少女――なんと、自分に向けられた砲身を、ぐにっと左胸に押し付けるではないか。
なまめかしくも、相手を馬鹿にするような笑みをニイっと浮かべていた。
「ほら……ほらほらほら! どうする、どうする? これなら当てられるよね!」
迫られた装甲砲兵は、唖然とする。
カチカチと装甲が震えていた。視線が落ち着かない。
「ねぇ、どしたの、どしたの? 撃ってみてよぉ♪ はやく、はやく!」
赤髪の少女はさらに迫る。身体ごと砲身にのしかかった。
黒い砲身が適度に膨らむ少女の左乳房に、ずぶりと沈み込む。
少女は、首を少し伸ばし、顔を装甲砲兵に近づけた。
片目の細め、大きくため息をつく。
「だめだよぉ、ちゃんと突き刺して、撃ってくれなきゃ……じゃあ、あたしが手伝ってあ・げ・る♪」
赤髪の少女が、ぱっと砲身に手を伸ばす。
硬直している装甲砲兵の指に、己の指を重ねた。そして――ぐいっと引き金を引かせた。
砲身内部の圧力が劇的上昇――そのまま破裂。
赤髪の少女の左胸と砲身、両方で同時に小爆発が発生。
爆圧で、赤髪の少女の上半身が反り返る。
金属片、木片が周囲に飛散した。装甲砲兵の前腕装甲部がひしゃげる。
装甲の間から血がにじみ出した。
砲身は内側から破裂しており、もう使い物にならないだろう。
「あ……おお……おああぁ」
装甲砲兵は腕を押さえ、後ずさった。
赤髪の少女は、弓の様に後方に身体を反らしている。
だらんと両腕を伸ばしていた。今にも倒れそうだが、辛うじてバランスを維持している。
周囲の装甲砲兵たちは、警戒態勢を崩さない。
震えを懸命に堪えながら、砲身を赤髪の少女に向けた。
一定の間合いを維持しながら、赤髪の少女を包囲する。
「……う、うぅ……ん」
とても気だるげで、湿った少女の声だった。
赤髪の少女は、綺麗な円軌道をゆっくりと描き、上半身を起こす。
砲身爆発を受け、柔らかな膨らみは四方八方に無残に裂け、鮮血の花弁をまき散らす――かと思われた。
だが現実は――否。
砲弾の至近距離からの直撃を、その柔らかな肉でしっかりと受け止めていたのだ。
みるみるうちに左乳房の陥没が盛り上がる――そして、ひしゃげた砲弾をメリメリと吐き出した。
身体には傷一つなく、膨らみも元通り復元している。
暗灰色の密着服が破れた様子もなかった。
赤髪の少女は、ぴたぴたと左胸を触る。
陥没の跡を確かめるように、つぷりと指先を差し込み、数度なぞった。
「ふうぅ……あれぇ? まぁ、こんなものかなぁ……旧世界の骨董品じゃ、こんなもんかなぁ……」
どこか興ざめしたように、短くため息をつく。遊び飽きたオモチャを放り出すみたいな雰囲気だ。
赤髪の少女は両手を組み、思い切り伸びをした。
「ふあぁ……ねぇ、お兄さんたち、聞きたいことあるんだけど。どこに行けば『エリュシオーネ』に会えんの? ねぇ、ねぇ――」
大きくあくびをして、装甲砲兵たちを一瞥する。
とても眠たげな声で、一方的に尋問を開始した。
「こ……この痴れ者が! 貴様のような無信心の輩の前に、『世界の守護者』が降臨される訳がなかろう!」
「会うだと? 会ってどうするというのだ。日頃の悪行の懺悔でもするのか?」
「そんなにご神体を拝みたいのか? ならば、まずは武装を解除し、投降せよ……全てはそれからだ!」
装甲砲兵たちは包囲網を維持しつつ、懸命に恐怖と向かい合うように声を絞り出す。
「ふうん……なぁーんだ、全然知らないんだ……じゃあ、ちゃっちゃと終らせよっか――」
赤髪の少女は、包囲する装甲砲兵たちにくるりと背を向けた。
少女の肉体の中で最も柔らかな部位さえ、砲弾で突き破れぬのだ。一体何ができようか。
ずらりと並ぶ砲身など、まるで意に介していないのは明らかだ。
その時だった。
炎の明かりが作り出す少女の影が、急激に形を変え、うごめき出したのだ。
まるで、粘着質で真っ黒のコールタールが、どろりと流れ出すみたいだった。
どんどん広がってゆく。アメーバが浸食するみたいに、影が周囲に広がってゆくのだ。
そして赤髪の少女は振り返り、うっそりと呟いた。
「――攻性ナノマシン群体・フィエルンド、拠点制圧モードで起動……」
すうっと右腕を伸ばし、管弦楽団の指揮者のごとく五指を振るう。
広がっていた少女の影が、液体のごとく波打ち始めた。
ごぼごぼと音を立てて、漆黒の塊が盛り上がって来る。
止まらない――漆黒の塊の膨張が止まらないのだ。
黒い液塊がどんどん形を作ってゆく。
人間的な上半身、異常に長い上腕、八本の節足を伴う蜘蛛のごとき下半身――まさに悪夢から飛び出してきた蜘蛛型の悪魔。
十メートルを越す漆黒の悪魔的な巨体が三つ、赤髪の少女の背後に出現――馳せ参じるようにたたずんだ。
「……こ、これと戦えというのか」
「ゆ、夢……なのか」
「俺たちは……い、一体何と戦ってたんだ……」
絶望――漆黒の巨体を見上げる装甲砲兵たちの顔は、まさにその色に塗りつぶされていた。
がちゃり、がちゃりと砲身を落とす音が連なる。
大陸最強のミルドラント帝国軍・装甲砲兵騎士団――その誇りと自負は、打ち砕かれ、すり減らされた。微塵の欠片も残されていなかった。
「あははっ……大丈夫♪ この子たち、あたしより随分優しいんだよ……じゃあ、後はよろしくね!」
赤髪の少女は、唇に手のひらを当てて投げキッスをする。
直後、その姿が水面のごとく波紋を打ち、透け始めた。
クスクスと肩を振るわせる赤髪の少女――やがて、完全に姿が消滅する。
三体の漆黒の悪魔が、ゆっくりと動き出した。
のっぺりとした頭を、ぐるりと回して周囲を睥睨。
緑色に明滅する紋様が、さっと全身に走ってゆく。
虚脱する装甲砲兵たちめがけて、巨大な破城槌のごとき前腕が打ち下ろされた。
† †
「……ずいぶんはしゃいでいるな、アイツは」
痩躯の若い男が、広い部屋の中でぼそりとつぶやいた。
暗灰色の密着型スーツが、その四肢をぴたりと覆っていた。
室内の照明はかなり控えめだ。幾何学的形状のタイルが床を埋め尽くし、ぼんやりと光を放っていた。
男の前方には、空間立体映像が投影されている。
ナノマシンで構成される密着型戦闘装甲をまとう赤髪の少女――縦横無尽に映像内を駆け巡り、全身甲冑の兵団を蹴散らしていた。
漆黒の悪魔的形状の巨人――造作もないといった様子で腕を振るい、兵を払いのけ、建造物を見境無く砕いてゆく。
あまりに一方的な戦闘が、そこに再現されていた。
「未知との接触に、心躍っているのよ。旧世界へのロマン――とでも言うべきかしら?」
男の隣から若い女が、美しく理知的な顔で柔らかく笑いかけた。
腰まで届く長くつややかな髪に、すらりと伸びた手足の持ち主だ。足元のタイルが放つ幽玄な光が、起伏に富んだ体躯を照らし出す。
男と同じく、暗灰色の密着型スーツに身を包んでいた。
「まるで歴史博物館を見ているようなもんだ。だが、ここまで文明が退行しているとなると……完璧に侵略者じゃないか、俺たち」
若い男は、どこか自嘲気味に笑い、肩をすくめた。
「戦勝気分に浸るのはまだ早いわ。エリュシオーネたちの手からこの星を奪還するまでは」
「ああ……もちろんだ」
若い女が、すらりと伸びた右腕を水平に振るい、宙を切った。
前方の立体映像が消失。入れ替わるように、外部の光景が飛び込んできた。
無限に広がる宇宙の闇に浮かぶ一隻の船――巨大な両刃剣を思わせる漆黒の船体だ。表面は鏡のごとく滑らかだった。
船の前には、鮮烈なまでに青い球体──地球があった。
「降下準備完了まで七十二時間……意外と長いもんだな」
「あら、待ち遠しいの?」
若い女が目を細め、微笑みながら問うた。
「いいや、先行したウチのお姫様が、ちゃんとうまくやっているか心配なだけだ」
誤解を打ち消そうとするように、ひらひらと手を振る若い男。
「大丈夫。現地の協力者たちとは十分友好的にやれているみたい。随分と気に入られているそうよ」
若い男は腕を組み、地球を見据えた。
浅く息をひとつして、キリッとした表情になる。
「そうか、なら安心だ。後は俺たちが――」
「どうしようもなく長引いた聖戦に、終止符を打つ……でしょ?」
若い女は、すうっと発言に割り込み、合いの手を入れる。
若い男は口元をかすかに緩め、
「そうとも。一万二千年に渡る因縁にケリをつけるのは俺たちだ……この星の真の所有者が誰なのか、今こそ思い出させてやろうじゃないか」
不敵な笑みが張り付いた顔で、双眸の奥がギラリと輝いた。