小説の無い世界
「そっちへ逃げたぞーッ、追え、追え。撃ってもかまわん!」
背後から追いかける者達の声が聞こえてくる。
「撃て、撃て」
反対側の通路からも声が聞こえる、と同時にワタシに向けたであろう銃声が二発…
―――バス、バス―――
―――ヒュん、ヒュん―――
間一髪、二発の弾はワタシの頬と黒く染めた腰までかかる髪の毛をかすめていった。
ワタシの右手には、小説ビューワー用のアプリと多量の小説が入ったスマホが握られている。
先週お洒落なショップで買ったばかりの、お気に入りのジーンズの裾が汚れるのも気にせずに、狭くジメジメした通路を全速力で駆け抜けるワタシ。
今日の取引情報が、どこからか漏れていたのに違いない。これだけ大勢の狩猟官が出て来るのは珍しい。
それに人数だけではなくて、的確な場所に彼らが配置されているのだ。これは最初からどの場所で取引が行われるかが分かっているからこそ出来る人員配置だ。これでは逃げ通すのは至難の業だ。
幸いワタシは、この町の裏道やけもの道まで知り尽くしているので、多分逃げ切れると思うけど……今回の取引に初めて参加して、この町の地理に詳しくない『よみせん』の人達は確実に捕縛されているはずだ。
今回の摘発でかなりの仲間が捕縛されるのだろう。そして大好きで貴重な小説を無理やり取り上げられて、独房の中でアニメ三昧の洗脳を受けてしまうのだ。考えただけでも身の毛がよだつ。
ワタシが12歳の年に、全メディア小説禁止法が施行された。それと同時に『小説』を摘発するための国の組織『小説禁止委員会』が発足して全国の小説を一斉に駆逐し始めた。
最初は、書籍だけだったが、そのうち電子媒体での小説も対象になってしまう。当然Web版の小説もネットから直ぐに削除された。
小説を読みたくてウズウズしている『よみせん』と呼ばれるグループは、直ぐに社会の闇に紛れた。
そして小説を描きたくてウズウズしている『さくしゃ』のグループに密かに連絡を取る事に成功した。
巨大な複数のネット小説投稿サイトが壊滅に追い込まれたため、小説を描きたくてウズウズしているグループが闇の組織を立ち上げていたのだ。
こうして、書き手から読み手に、自作小説を渡す場所が『闇の書店』として生まれるのに時間はかからなかった。
今日のアンダーワールドの集会は、事前に委員会にリークされていたに違いない。それともスパイが紛れ込んでいたのか?
大丈夫かワタシ? 一応顔を隠して参加したのだが背格好はバレバレだ。もしもスパイが入り込んでいたなら、今逃げ果せてもいずれは追跡の手が来るやもしれない。
でも今は逃げる事に集中しないとダメだ。チェイサーは町の要所要所に配置されているから、ワタシも持てる知識を総動員するんだ。
あの角を曲がったら、確か子供か女性しか抜けられない穴が壁に開いていた筈だ。
ハァ、ハァ。息が切れる。
最近は読書三昧をしていて体力が落ちている様だ。何とか角を曲がって、壁の穴を探す。
バシャ、バシャ、バシャ。
チェイサーはもう直ぐそこまで来ている。どこだ! 壁の穴は。
あった! あそこだ。
ワタシはグレーのシャツが汚れるのも気にせずに穴に向かって飛び込んだ。
穴の向こうは薄暗いビルの一室になっている。このビルは随分前から無人になっていてワタシも時々読書する時に使っている場所なんだ。見つかった時に外に逃げられるんだ、と思って密かにキープしてたけど。今日は道から逃げ込むために役にたった。
バシャ、バシャ、
バシャ、、バシャ、、
「オイ、いないぞ!」
「確かにこの角を曲がったのを見たぞ」
チェイサーの照明が辺りを照らしている様だ。穴からわずかに光が漏れる。
この穴は、明かりを当てたぐらいでは見分けが付かない筈だ。ワタシだって昼間の明るい光の中でやっと見つけた穴だもの。
彼らが諦めて別の場所に移動するのをジット待つ。
フー、フー、フー、
音がしない様にユックリと呼吸を続ける。
ドクン、ドクン、ドクン、
自分の心臓の音がこんなに大きいなんて、今の今まで気がつかなかった。いっそ心臓も止めてしまおうかと思った。
「クッソー、おかしいなあ!」
「もっとよく探せ、何処かに隠れる場所があるんじゃないか?」
どうしよう、なかなか離れてくれない。仲間を呼ばれたら最悪だわ。そう思ってイヤーな気持ちになっていると……
ブー、ブー、
「こちら南通りだ。『よみせん』グループ三人を追跡中。大至急応援を求む!」
チェイサーが持っている無線機から応援を求める声が聞こえる。
「オイ、南通ならこの向こうだぞ。俺たちもそちらの応援に行こう。ここで無駄な時間をとっている暇は無い」
一人のチェイサーが相方に話しかける。
「うん、そうだな。どうせまた『エス』からタレコミ情報が入るだろうからな。隠れちまった奴を探してる暇があったら今いる奴らを捉えに行こうぜ」
バシャ、、
バシャ、バシャ、
良かった。どうやら南通りの方に向かってしまった様だ。この隙にワタシは逃げられるだろう。
しばらく様子を伺ってから、道路に戻る。小説の入っているスマホは危険だからさっきのビルの部屋の秘密の場所に隠す。
小説の入っていないダミースマホを持って、何食わぬ顔をして道を歩き始める。
明かりの灯った大通りに出る。大通りにあるコンビニで適当に買い物をして、さも買い物帰りのふりをするために買い物袋を持って駅に向かう。
駅から電車に乗ってしまえば、もうチェイサーとはオサラバだ。
***
駅前にはテントが張られていた。テントの横には大型の警備車両が何台も止まっていた。車両の横には『小説禁止委員会』のロゴが大きくプリントされている。
「え? どうしてこんな場所に『検問所』があるの」
ワタシは驚きのあまり、思わず小さく声を上げた。
テントの前には長い列が出来ていて全員に検査をしている様だ。良かった、ダミーのスマホを持って来ていて。
「コイツ、スマホなんか持ってないと言い張ってますよ!」
列の前の方で大きな声がする。
「そんなバカなはずがない。このご時世スマホがなければ日常生活も出来ない筈だ。体をひん剥いても良いから徹底的に調べろ!」
そう言われて列の中から連れ出されて、スマホを持っていないと言い張っていた学生風の男性はテント横のレントゲン車両に引きずられていった。
御丁寧に男性用と女性用、それぞれ用意されている様だ。『よみせん』には女性も多いから人道上(?)の配慮かな。女性チェイサーも確かにチラホラといるみたいだ。男性チェイサーが手が出せない部分にスマホを隠すのは女性の『よみせん』の常套手段だからだろう。
どちらにしてもあそこで身体中検査されれば、どこに隠してても見つかるだろう。当然隠してたスマホには多量のWeb小説がダウンロードされているだろうから、直ぐに護送車行きだ。
ワタシはその為に、わざわざダミーのスマホを持って来たのだ。
「あ、おまえ、このスマホには『小説スキャンアプリ』がインストールされてないぞ。直ぐにインストールしてやる!」
別の場所では、小説を自動的にスキャンして『小説禁止委員会』に報告するスキャンアプリをインストールしていないスマホを持っている人が槍玉に挙げられていた。
きっと彼は、スマホの隠しホルダーにWeb小説を保管しているのだろう。スキャンアプリをインストールすると、どこに隠しホルダーを作っても完璧に検知されてしまうのだ。だから、隠しホルダーを持っている『よみせん』達はスキャンアプリを決してインストールしない。
「やめてくれ、お願いだからインストールするのは勘弁してくれ!」
泣き叫んでいる彼は、先ほどの彼とは別の取り調べ車両に、チェイサー達に両腕をガッチリと羽交い締めされて連れて行かれた。
もちろんワタシのダミースマホにはスキャンアプリはインストール済みで、完全に問題無いハズだ。
列の順番が回って来たので、ワタシはおもむろにダミースマホを取り出してチェイサーに見せる。当然スキャンアプリもインストールされている。
「良し、通れ」
チェイサーはワタシのスマホのスキャンアプリを確認したらテントの中に入る様に促す。
あとはテントの中の関門を抜ければ駅に行ける!
***
「次、おまえ。靴を脱いでこの小説を踏んでいけ!」
やはりそうか。『踏み絵』だ……
最も初歩的で心理的なダメージが大きい方法だ。大昔、キリスト教禁止令に逆らって潜伏している隠れキリスト信者達を選別する為に使用された卑劣な方法だそうだ。
テントの中には有名なWeb小説が印刷されて敷き詰められていた。全て『超』が付くほどの名作揃いだ。『よみせん』だったら夢の様な光景だ。
え! 一番手前にあるのは、第20回Web小説大賞金賞の小説じゃあないのっ。しかも有名絵師の挿絵付きだ。
「キャア、夢なら覚めないで」
思わずワタシは心の中で叫んだ。
ワタシの二つ前に並んでいた若いサラリーマン風の青年が、突然泣き出してテントから逃げようとする。
「だ、だめだ。こんな名作達を僕は踏めないよ!」
彼の目には大粒の涙が溢れていた。
チェイサー達は容赦なく彼をテントから引き摺り出して行った。あのまま護送車両に連れて行かれるのだろう。
ワタシも、頭がクラクラして来た。目も涙で滲んでいるのがわかる。
「どうした! そこの女。次はお前だぞ。おまえもこの小説が踏めないのか? なんだ、おまえも泣いているのか?」
どうしよう、チェイサーが疑いの目でワタシを見ているのが分かる。ここで捕まったら、これからも色々な小説を読むことが出来ない。ワタシの人生が終わってしまう。
目の前にあるのは、小説では無くて、単なる印刷物にしか過ぎないのだ。ワタシは目の前の印刷物を踏み付けるけど、それは大好きな小説を冒涜している訳ではないの……そう自分に言い聞かせる。
……
ギュッ、ギュッ、ギュッ、
一生懸命平静を装い、ギリギリと歯を食いしばって、爪が手に食い込むくらいギュッと握りしめながら、ワタシはユックリと『印刷物』の上を渡り始めた。
ギュッ、ギュッ、ギュッ、
ワタシの心はグチャグチャだった。もう目の前がよく見えない。心臓はバクバクして死にそうだった。でも、足は確実に一歩一歩動いていた。
ギュッ、ギュッ、ギュッ、
もう腰がガクガクしているのが分かる。このまま『印刷物』の上にへたり込んでも、ここまで頑張って良くやったワタシ、と褒めてあげたいぐらいだ。
ギュッ、ギュッ、ギュッ。
……
「フゥーッ」
兎にも角にも、ワタシは渡りきったのだ。さっきのサラリーマンの様に拒否レバ、心がここまで痛む事はなかったかもしれない。でも、ワタシはまだ止まるわけにはいかないもの。
この世の中に、まだワタシの知らない名作がきっとあるはずなんだ。ワタシはその為に心を鬼にして前に進む。
「おい女、なんで泣いているんだ?おまえも『よみせん』なんじゃないのか?」
疑り深いチェイサーがワタシを疑いの目で睨む。
「うるさいわね! 彼にフラれて泣いてんのよ。渡りきったんだから、もう良いんでしょ!」
今のグチャグチャな心をチェイサーにぶつける。
「おお、まあな。渡りきったんだから問題無い。駅に向かって良いぞ。お疲れ様、、、だな」
チェイサーは、なんとなく腑に落ちない様だったが、ワタシの迫力に負けて駅に向かうのを許してくれた。
もう変装で使用したアイシャドーも口紅も涙と鼻水でグチャグチャに違いない。家に帰って鏡を見るのが怖い。
目の前には改札口が見える。
***
電車に乗って、やっと安堵する。
扉の窓ガラスに映る自分の顔が、何歳も老けている様に見えた。知り合いが見ても絶対に気が付かないくらいだ。
変装のつもりで濃い目に塗ったアイシャドーが涙でグシャグシャだ。まるでパンダの様で、自分でも可笑しくってフット笑顔になる。
どうやらやっと落ち着いて来た様だ。
気が付くとジーンズの中のパンツも濡れている。え? 緊張のあまりお漏らししちゃったのかな……
手をそっとパンツの中に入れて臭いを嗅ぐ。違った、オシッコではなかった。どうやら踏み絵をした事でワタシの『サド』スイッチが開花してしまったらしい。
これが愛する相手を凌辱する時の気持ちなんだ。そんな気持ちが目覚めてしまったのだ。それで踏み絵をしている間に、つい興奮してパンツを濡らしてしまったのだろう。
ヤバイ、どうしよう、心が壊れかけている。結局無傷で逃げ切れた訳ではなかったのだ。これからワタシはどうしたら良いのだろう。ワタシは途方に暮れた。
窓ガラスの向こうの街の灯りは、ワタシの気持ちとは関わり無く、電車の動きに呼応する様にビュンビュンと流れて行った。
了