02
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まだ日の入りは遠い。けれどここ連日は雨ばかりが続いていて、今日も空はどんよりと曇っていた。それはまるで自身の心を写し出しているようで、アメリアは窓の外の景色を眺めて目を細める。
「またそのようなお顔をなさって……ほら、出来ましたよ。本当にお美しいですわ」
ハンナは声を弾ませ、鏡の向こうで誇らしげに微笑んだ。そしてその手前に映るアメリアは、髪を後頭部より少し高い位置で結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。首には大粒のルビーがあしらわれたチョーカーがはめられ、耳にはそれとお揃いのルビーの耳飾り。それらは部屋の照明に反射してきらきらと光り、アメリアの金色の髪の輝きにもまるで劣らない。
「お嬢様が夜会に出席なさるなんて何ヶ月ぶりでしょう。これでファルマス伯爵様も、お嬢様のお美しさに心打たれること間違いなしです」
ハンナは独り妄想を浮かべ、うっとりとした表情を浮かべた。それに対してアメリアは呆れた顔で溜め息をつく。
「ハンナ……言った筈よ。ファルマス伯からの縁談は断ると」
「ええ、わかっています。――けれど、けれど!ファルマス伯爵様はお茶会でのお嬢様のあの態度を見ても、縁談を取り下げなかった強者ですよ。きっとあのお方はお嬢様が本当は心のお優しい方だとわかっておいでなのです……あぁ、それなのにお嬢様ときたらこの期に及んでまだあの方のお心を弄んだりして……なんと罪深いことなのでしょう……!」
「……」
ハンナは独り部屋の中をくるくると周り、自分の身体を両手で抱きしめ――床に膝をつき、切なげに涙を流す振りをしてみせた。――けれどアメリアはそんなハンナを椅子に腰掛けたまま、ただ黙って見つめるだけ。ハンナはそんな反応を示そうとしない主人に対し、少し残念そうな表情をしたが、すぐに身を翻してツカツカとアメリアに歩み寄った。
「お嬢様……!私は――、いえ、使用人一同は、お嬢様のお幸せをいつも心から願っております!ファルマス伯爵様ならきっとお嬢様をお幸せにして下さいます……!」
ハンナの表情は真剣そのもの。それはきっと、心からの言葉。心から――アメリアの幸せを想う気持ち。
――アメリアは考える。今までの千年の人生の内、ここまで誰かに自分の幸せを願って貰ったことがあっただろうか。恐らく、あったのであろう。けれど私はそれに気付こうとしなかった。あの人の影ばかり追いかけて、他のことを気にしている余裕など無かった。自分の幸せを……そして他の誰かの幸せを、真に願ったことも無かった。それが、今、自分の幸せを心から願ってくれる人がいる。それを真っ直ぐな瞳で、言葉で、伝えてくれる人がいる。――なんと嬉しく、有り難いことだろうか。
まだ二十歳にも満たない少女が、決して恵まれた身分ではない侍女として働く少女が、こんな私の幸せを願ってくれるなんて……。出来るならば、応えてあげたい。その気持ちだけでも受け止めてあげたい。――アメリアは、願う。
「……ありがとう、ハンナ。あなたがそう言ってくれて、私はそれがとても嬉しいわ」
アメリアはその透き通るような白い手でハンナの両手を取り、祈るように眼を閉じた。――ウィリアムと幸せになる未来は無いけれど、あなたが私の幸せを願ってくれるなら、ほんの僅かでも、私はあなたの願う私になりたい。
アメリアの心に、ほんの小さな明かりが灯る。そして彼女は決意した。今度こそ本当に、決して誰にも気付かれずに、全てを完璧に――。
アメリアはゆっくりとまぶたを開けた。既にその表情は無口で無愛想ないつものアメリアでは無かった。
初めて見る主人のあまりにも穏やかな表情に、ハンナは思わず息を飲む。
「……お嬢、……様?」
アメリアはそんなハンナを真正面から見つめ、――にこりと微笑んだ。
「行ってくるわね」
その声はいつもの様に落ち着きのあるものだったが、淡々とした冷たさは感じられず、何もかもを包み込むような温かさを秘めていた。所作もゆっくりと淑やかで、それはもう、ハンナの知るアメリアでは無かった。
アメリアは呆然と立ち尽くすハンナを部屋に置いたまま、玄関ホールへと向かう。一階へと向かう階段を降りると、既にホールには夜会へ向かう準備を終えた両親の姿があった。
アメリアは十八歳の少女らしく、涼やかな声で両親の名を呼ぶ。
「お父様、お母様」
二人は聞き慣れない声音に一瞬、訝しげな視線を向けるが、視線の先のアメリアの姿を見て、まるで夢でも見ているかの様に瞳を揺らした。
「お前……一体どうしたんだ」
アメリアの父、リチャードの視線の先には、鈴蘭のように軽やかな足取りで駆け寄ってくる娘の姿。その顔には明らかに微笑みが浮かべられていて、いつもの娘とは似ても似つかない。別人かと見紛う程に――。
リチャードは隣に立つ妻に目をやる。彼女も同じように思ったのか、いつもの凛とした佇まいにどこか綻びを感じさせた。そしてそれは使用人たちも同じらしく、執事もメイド長も手をとめて呆けた表情を浮かべている。
そんな彼らの葛藤を知ってか知らずか、アメリアはまるでそれがさも当然であるかのように皆の前で自らのドレスを揺らしてみせた。
「お母様、このドレス、少し派手じゃないかしら。あまり目立ち過ぎるのも良くないわよね……。こんなことならウィリアム様の好みをもっとよく聞いておけば良かった……」
アメリアの頬に朱が挿す。それは誰がどう見ても恋する年頃の乙女の姿であって、その場にいる全ての者がアメリアに何があったのかと考えさせられる。
「あ……アメリア、あなた、何かあったの?」
アメリアの母、マリアンヌも娘のあまりの変わりように驚きを隠し切れなかった。今朝朝食を共にしたときは、いつもの無口で無愛想な娘であったというのに。しかもアメリアは今、ファルマス伯爵のことをウィリアムと、ファーストネームで呼んだのだ。親しい間柄で無ければ、自分より身分の高い相手をファーストネームで呼ぶことは許されないのにも関わらず。
アメリアは母マリアンヌの問いに、少し恥ずかしそうに俯く。
「ハンナに説得されたの……。私、この前のお茶会でウィリアム様に失礼なことをしてしまったのだけれど、ウィリアム様は許して下さって……ハンナが、そんな素晴らしいお方は他におられないって……。そう言われて、本当にそうかもしれないって……。だから、私――」
アメリアは一瞬間を置いて、両親の顔を真っ直ぐに見つめ、告げる。
「今日ウィリアム様にお会いしたら、お伝えしようと思うの。縁談のお話、お受けしますって……。――いい、かしら?」
少し切なげに不安げに揺れるアメリアの碧い瞳。それは今までのアメリアならば決して表に出さない類の感情で、リチャードとマリアンヌはお互いの顔を見合わせる。
勿論――願ったり叶ったりだ。侯爵家の嫡男との縁談、アメリアさえ承諾すれば直ぐにでも受けるべき話だった。――リチャードは娘の問いに頷く。もはや念押しさえしない。
「――よし。今日はウィンチェスター侯爵もお見えになるだろう。そこで直接、縁談の申し出を拝受する旨をお伝えする。つまり正式な婚約だ。――マリアンヌ、お前もそのつもりでいるように」
「え……ええ。あなた」
リチャードの瞳がぎらりと光る。――アメリアは父のその瞳の奥の野心を確かに感じ取り、無邪気に微笑んでみせた。