01
「――やられた……!」
アメリアは自身の拳を机に向けて勢いよく振り下ろした。ゴンと低い音がすると同時に右手に鈍い痛みが走る。けれど、今のアメリアにはそんなことに構っている余裕が欠片も無かった。彼女は焦り――苛立っていた。
ここは彼女の自室。カーテンの締め切られた部屋は陰鬱として重い空気が漂っている。
二十畳ほどの広さのその部屋にあるのは、キングサイズのベッドに一組の机と椅子、ドレッサー、ソファ、そして本棚。彼女の部屋にあるものといえばそれくらい。それこそ家具はすべて両親が見立てた一級品であったが、彼女自身の私物は非常に少なく、本だけは膨大な量があるが、それ以外のものはドレスや宝石に至っても最低限の量であった。
今この部屋にいるのはアメリアただ一人。ウィリアムを呼んでのお茶会から十日が経っていた。お茶会が終了してからアメリアは、ウィリアムからの縁談の取り下げを待っていたのだが、待てど暮らせどその通知は来ない。それどころか父親のもとに、ウィリアムの父であるウィンチェスター侯爵から息子を宜しくとの手紙が届く始末。何かがおかしい――そう思ったアメリアがようやく執事にウィリアムのことを詳しく調べさせたのが三日前。そして今彼女の右手拳には、ウィリアムの付き人ルイスについての報告書が握りしめられていた。
「この男、何者なの……」
アメリアは唇を噛む。
――ウィリアムの付き人ルイス。アメリア自身と、アメリアに対する使用人の評価を調べ上げた張本人。だが伯爵家の情報網を持ってしても、ルイスについての殆どを知り得ることが出来なかった。出自も年齢も不明。わかったことと言えばただ一つ、ウィリアムの付き人として十五年、ウィンチェスター侯爵家に仕えているということ。そしてこれはあくまで噂だが――ルイスはもともと孤児であったという。親も無く家も無い。そんな彼を、ウィリアムが拾って付き人にしたのだと言う。噂ではあるが、それならば出自も年齢も不明なことに納得がいく。けれど、それでは困るのだ。
アメリアは苛立ちを抑えきれない様子で、その長い髪を掻き上げる。
普通ならばルイスはウィリアムの指示でアメリアとその周辺を調べたと考えるのが妥当。けれど、お茶会でのウィリアムはそれを知った風では無かった。ということは、指示したのはウィンチェスター侯爵か……もしくはルイスの単独か。
どちらにせよルイスは知ってしまったのだ。アメリアが全ての人間に対して嫌悪を露わにするのではないということを。そして気付いたのであろう。お茶会でのアメリアの傲慢で冷酷な態度、それが偽りの姿であったことに。そしてそれをウィリアムに進言した。
もしかするとルイスは、アメリアがただの令嬢では無いことにも勘づいているのかもしれない。いや――そもそもアメリアが過去の記憶を持つことを知っている可能性もあるのではないか。だって普通ならば有り得ない。社交場での散々な評判を知っていれば、いくらそれが偽りであると知ったとしても、わざわざそれを主人に伝えるようなことはしない筈。――いや、流石にそれは飛躍しすぎか。
アメリアは何とか気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をする。
「とにかく、このままじゃまずいわね……」
このまま外堀りを固められてウィリアムと婚約――などとなってしまったら本当に取り返しがつかなくなる。もしそうなってしまったら――今までそうであったように、どちらかが死ぬしか無くなるのだ。それだけは何とか避けたい。
ようやく訪れた平穏なのだ。簡単に手放したくは無い。それにアメリアが死んで次の生を受けるとき、今より更に彼との距離が縮まってしまう可能性が高い。であるから、なるべく一度の生で長く生きる必要がある。
アメリアは考える。
ルイスについてわかることは少ない。彼の考えもわからない。手札が無いまま近付くのは危険。だがウィリアムならば、まだ付け入る隙があるかもしれない。こうなれば正攻法だ。押して駄目なら引いてみろ。昔からそう言うではないか。順序は逆だが……お茶会では引いてしまったのが最大の敗因。ならば次は真っ向から断ろう。ルイスのいないときを狙い――ウィリアムと二人きりになって縁談を正面から断れば良い。今さら手段など選んでいられないのだ。
「――ウィリアム・セシル、待っていなさい。……私があなたを決して死なせはしないわ」
アメリアは己の心に刻みつけるように呟く。その声は低く、重く、けれど誰よりもよく通る美しい声。
彼女は窓に近づきカーテンを開けた。木漏れ日が部屋に降り注ぎ、部屋の重苦しい空気が一瞬で霧散する。そして同時にアメリアの金の髪が白く輝く。
彼女は降り注ぐ光に目を細めて、ゆっくりと空を見上げた。――千年経っても決して無くならない太陽。無くならない――想い。
「……ルイス……あなたは本当に……ウィリアムの味方なのかしらね……」
何も無い空を見つめたままそう呟いたアメリアの瞳に、微かな憂いの色が揺れている。それは心の底から溢れ出す愛する人への切なる願い。
けれど誰もその本当の想いを――アメリア本人すら、知る由も無かった。