06
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微かな明かりさえない、その闇に覆われた部屋に差し込むのは、月の弱光だけであった。
ここはウィリアムの自室である。彼は窓の側にあるソファーに腰かけ、その背に身体を預けていた。彼はワイングラスを片手に、静かに月を見上げている。
そしてその側には、彼の付き人であるルイスが、ワインの瓶を片手に白い笑みを浮かべていた。
「今日は大変お疲れ様でございました」
ルイスは述べる。けれどもその言葉には少しも労いの情を感じられない。ルイスの言葉に感情がこもっていないのはいつものことである。けれど、流石のウィリアムも今日ばかりは不満を感じたのか、眉を寄せて小さく溜め息をついた。
「お前は何を考えているんだ」
それはウィリアムの正直な気持ちであった。ウィリアムはワインを一口含むと、ルイスへの不満を述べる。
「全く――お前のせいで余計な心配事が増えた。一体どう責任を取るつもりなんだ」
アメリアをこの屋敷に招き入れる。その言葉は嘘ではない。けれど――。
ウィリアムは自分の右手を見つめる。アメリアを抱きしめたときの、その感覚を思い出して。
「何故お前は知っていた。彼女が俺の手を跳ね除けないと。何故、俺を拒絶しないと――」
ウィリアムにはアメリアを抱きしめるつもりなど毛頭無かった。そうだ。昔の男を忘れられないと言っている少女を、どうして抱きしめることなど出来ようか。そんなことをすれば一層傷つけてしまうだけである。ウィリアムはそう思っていた。だからルイスの提案を、最初は呑むことが出来なかった。
彼女を抱きしめ、愛を囁け――などという提案には。
「答えろ。何故彼女は俺に、あんな顔を向ける」
ウィリアムの腕に残るアメリアの残り香。熱に侵された彼女を抱き上げたときに感じた――不確かな感情。
ウィリアムはその、未だかつて感じたことのない何かに苛立ちを感じていた。
そんな主人を、ルイスは宥める様に言葉を選ぶ。
「ウィリアム様。確かに今回私がアメリア様をあなたの婚約者に推薦さえしなければ、このようなことにはならなかったでしょう。――けれど、アーサー様の件や、アメリア様が声を失ってしまわれたことについては、運が悪かったとしか言いようのないことでございます。ウィリアム様は最善の選択をなさったと、私は心からそう思っております」
けれどウィリアムは、憎らしげにルイスを見据え、その言葉を鼻で笑った。
「――はっ、何という戯言を。ああするしか無かっただけだろう。何が最善の選択だ。――運が悪かっただと?お前の口から運などという言葉が出るとは思わなかった。俺はわかっているぞ、全てお前の仕組んだことなのだろう!」
ウィリアムは語気を荒げ、グラスに入ったワインをルイスに向かってぶちまけた。赤いワインがルイスの白いシャツに染みを作る。それはこの暗がりのせいか、まるで血のように赤黒く見えた。
けれどルイスは顔色一つ変えない。それどころか、彼はどこか嬉しそうに――微かにほほ笑む。
「ウィリアム様、覚えていらっしゃいますか。私とあなたが出会った日のことを。あなたはあの時、泣いていらっしゃいましたね」
「――っ」
その言葉に、ウィリアムはピクリと眉をひそめた。急に何を言い出すんだ――と、彼は顔をしかめる。
「あの日の約束を覚えていらっしゃいますか。あれから早くも十五年の月日が流れました。もう、あなたは子供ではありません。そして、私も……」
「……」
ルイスの表情が、変わる。
「私がここにいられる時間はあと僅かでございます。ウィリアム様、お願いです。どうかアメリア様を、あの方を幸せにして差し上げて下さいませんか。僕のお願いを、たった一つの願いを、どうか叶えては頂けませんか」
「――、ルイス……お前……」
ウィリアムはルイスの震える声に、言葉に――大きく目を見開いた。それはあの日交わした約束。いつかルイスの願いを――一つだけ叶えてやると、固く誓ったその約束。
ウィリアムは、何かを悟ったように俯いた。大切なことを思い出したように、忘れていた記憶を必死に手繰り寄せるように……。
そしてウィリアムは、苦々し気に呟く。
「――それが、お前の願いなのだな」
それはまるで独り言のように――必死に自身に言い聞かせるように。
「……それが……お前の答えなのだな」
ウィリアムの瞳に揺れる葛藤。それは重く、深く――彼の心を抉り取る様な――。
ウィリアムはゆっくりと目を閉じた。そして彼は、決意する。
「……」
再び見開かれたウィリアムの瞳、そこにはもう迷いは映っていなかった。
アメリアを愛するその自信など彼には無い。――けれど、ルイスの願いを叶えてやりたいという、その気持ちだけは彼の瞳に確かに強く宿っていた。
だからもうウィリアムは――それ以上ルイスに何かを言うことは無かった。
ウィリアムはただ黙って白い月を見上げ……そしてルイスはそんなウィリアムの背中を――深い憐れみを込めた眼差しで――静かに見つめていた。
***
***
そしてまた同じ時刻に――同じように月を見上げる者たちがいた。
城の一室――開け放たれた窓から覗く青白い月を、アーサーは呆然とした様子で眺めていた。
部屋はやはり薄暗く、ベッドの脇の小さなランプの赤い炎がちらちらと揺れるのみである。
アーサーの頭はヴァイオレットの丸みを帯びた薔薇色の太ももに乗せられていた。そして彼女はそんな彼の銀色に輝く細い髪を、その白く美しい掌でゆっくりと撫でていた。
「アーサー様、今日は一段とお元気がありませんのね。皆心配しておりましたよ」
ヴァイオレットは囁く。けれどアーサーは答えない。
その代わり、彼は寝返りを打ちヴァイオレットの下腹部に顔をうずめた。
「……俺は……どうしたらいいんだ」
アーサーは苦しげに呟く。
「……何故、こんなことに」
その声は震え、いつもの飄々とした彼の面影の欠片も無い。
ヴァイオレットはそんなアーサーの姿に目を細めると、彼を宥めるように、再び優しく頭を撫でた。
「私、当てて差し上げましょうか。――ウィリアム様と喧嘩なさったのでしょう?」
「……」
ヴァイオレットの腰を抱くように回されている、アーサーの腕がピクリと反応する。
「本当にウィリアム様のことを愛していらっしゃるのですね」
「――ッ!それは、違う!」
何を言い出すんだと、流石のアーサーもこの言葉には顔を上げざるを得なかった。
けれどアーサーの瞳は酷く動揺した様に揺れている。――それが意味するものは、果たして……。
「さっさと謝ってしまえばいいのではないですか?」
ヴァイオレットは、やっと顔を上げたアーサーを見つめて微笑んだ。しかしアーサーは再び顔を背け、ヴァイオレットの柔らかい身体に顔を沈める。
「……俺は何もしていない。謝らないといけないことなど、何もしていない」
アーサーは今度こそはっきりとした口調でそう言った。それは多分本心で……だからこそ、彼は為すすべもなく苦悩しているのだと、ヴァイオレットは理解した。
ならば――、と彼女は続ける。
「よくお話しするしか無いですわね。何も後ろめたい事が無いのなら、相手の目を見てまっすぐに訴えれば良いのです。きっと、心は伝わりますわ」
「……」
ヴァイオレットの声は、まるで母が子をあやすように柔らかで、愛に満ち溢れていた。
その声音に、アーサーはヴァイオレットを仰ぎ見る。
そして、自分を軽蔑した様に見つめるウィリアムの姿を思い出し――同時に過ぎる、ルイスと、そしてアメリアの顔。
二人に騙され――自分を蔑むウィリアムの、残酷な顔。
「あぁ……ヴァイオレット。俺は……」
アーサーは右手を宙に掲げ、そしてヴァイオレットの長い髪を指に絡めた。それは薄い月明かりに照らされ、まるで星の様に輝いている。美しく、妖しく、そして艶やかに――。
アーサーはゆっくりと身体を起こした。そして、自分を見つめるヴァイオレットの背中に腕を回すと、その薄紅色の唇に口付ける。何度も、何度も――全てを支配し、奪う様に、アーサーはその肢体に唇を落としていった。
***
――静かに夜が更けていく。
止まっていた時計の針は、ようやく音を立てて動き始めた。
果たしてその先にあるのは、光か闇か。幸か不幸か。呪われた運命に――秘められた力に、彼らは、彼女らは打ち勝つ事が出来るのか。
けれどそれを知る者は、――まだ誰一人として居なかった。
-To be continued-
ここまでお付き合い下さった皆様、本当にありがとうございました。
引き続き、第二幕へと続きます。もし宜しければ今後ともよろしくお願いします。




