05
すると流石のウィリアムも、その言葉に顔をしかめた。
それはあり得ないだろうと言いたげに、その眉間に深い皺を刻む。
もちろん私もウィリアムに同感だ。
ルイスの膝枕などまっぴらごめん。想像するだけで寒気がする。それならば辛くても座っていた方が何百倍もマシである。
そんな私とウィリアムの表情を読み取ったのか、ルイスは失笑した。
「冗談ですよ」
そう呟いて、彼は私とウィリアムからふいと視線をそらせる。そして何事もなかったかのように、外の景色に目を移した。
そんなルイスの姿に、ウィリアムは何か諦めたように嘆息する。どうやら私の膝枕になる決心がついたらしい。
「……アメリア、このまま横になって眠っていろ。着いたら起こすから」
ウィリアムが私を見下ろす。
その視線は未だ不服そうだったが、微かに赤く染まった耳が彼の心情を物語っていた。
私はじっとウィリアムを見上げる。
するとわずかに頬を染めるウィリアム。
「あまり、見るな。寝ていろ」
そう言って視線を逸らすウィリアム。
あぁ、なんて幸せなんだろう。
熱のせいだろうか――思考が浮ついて、ただ自分の欲望のままにウィリアムを求めてしまう。
なんて、素敵な夢……。
私は熱に侵された頭でそんな事を考えながら、静かに目を閉じた。
傷の痛みはもう感じない。身体は熱いが……それはきっと、ウィリアムの膝の温かさのせい。
彼の、頬に差した朱のせい。
――愛しているわ、ウィリアム。
私はゆっくりと眠りに落ちていった。
千年ぶりの……深い深い、幸せな夢を見るために。
***
***
私は仄かに揺れる光を感じて、ゆっくりと目を開けた。
ぼやけた視界に映るのは……茶色のベッドの天蓋であった。
薄暗い部屋の中で、オイルランプの橙色の光が揺れ天井に薄い影を作っている。
ここはそう、見慣れた筈の自分の自室。殺風景な、私の部屋。
私はぼうっとしたまま、ゆっくりと身体を起こした。そして、思う。
――いつの間に、部屋に?
私は先ほどまで、馬車に乗っていた筈だ。
傷の痛みは引いている。熱も、恐らく下がっているだろう。気分も悪くない。
なのに、なぜだろう。ものすごい喪失感を感じる……。――何故?
そう――そうだ、ウィリアムが……いないから。
――え?何?まさか全部夢だった……?
嘘……そんな筈はない。だって右手には、確かに巻かれた白い包帯。
私はベッドから降りて、裸足のままカーテンを開けた。
既に外はすっかり暗くなっている。闇夜が街を包み、空には白い月だけが佇んでいた。
「……お嬢様?」
そんなとき、部屋の扉が静かに開き、それと同時にとても懐かしい声が、耳に届く。
「お嬢様!!」
私が振り向くと、そこには二日ぶりに会う、ハンナの姿。
とても懐かしい、ハンナの姿。
「ああ――お嬢様!」
ハンナはその目に涙を溜めて、こちらへ一直線に走ってくる。そして私を、強く抱きしめた。
「お嬢様!お嬢様!ご無事で本当にようございました!本当に、無事に帰ってきて下さって……!」
ハンナは震える声でそう言って、私を抱きしめるその腕に力をこめる。
「私、お嬢様が川に落ちたって聞いて、本当に……心配で、もう、居ても立っても居られなくて……っ」
そうして彼女は泣き出した。
大粒の涙をぼろぼろと零して、まるで自分のことのように……。
それはとても清らかな涙だった。
彼女の私を想う強い気持ちが伝わってくる。それは本当に温かくて……私には少しだけ、痛かった。
でも……。
私は、精いっぱい微笑み返す。
私、決めたのよ。もう、偽りの笑顔はやめるって。だから、笑うわ。
「――お嬢様……あぁ、お嬢様」
私は目を真っ赤に腫らせたハンナを、力いっぱい抱きしめた。
少しでも彼女に伝えたくて。心配をかけてごめんなさいと、謝りたくて。
「お嬢様……。私、後悔していたんです。ファルマス伯爵様との外出……本当はお嬢様が乗り気ではないことに気づいていたのに、無理やり送り出してしまったって。でも、今のお嬢様のお顔を見て……私、安心しました」
「――!」
ハンナのその言葉に、私の心臓が一瞬跳ねる。
ハンナの口から出た――ウィリアムの名前に。
「お嬢様、お嬢様はよくお眠りになっていてお気づきにならなかったかと思いますが、この部屋にお嬢様をお運びされたのは誰だと思いますか?――ファルマス伯爵様ですよ。
お嬢様をとても大切そうに抱きかかえられて……。使用人皆もいる中で、旦那様に深く頭を下げられておいででした」
「……っ」
――本当に?
ウィリアムが……私をここまで運んでくれたの?
お父様に、頭を……下げたの?侯爵家の彼が……?
それは普通ならあり得ないことで。
階級社会に生きる貴族が、下の階級の者に頭を下げるなど、絶対にあり得ないことで――。
本当に……夢では無かったんだわ。
私の心臓が、高鳴る。
「ファルマス伯爵様は、旦那様に仰られておりました。お嬢様を、直ぐにでもご自分のお屋敷にお迎えしたいと。もう二度と、お嬢様を危険な目に合わせないと誓うと」
「――ッ」
それは、何という奇跡か――。
神様、神様、嘘でもいい、束の間の幸せでも――私にもう一度機会を下さるのですね。
本当に私に、彼をもう一度愛するチャンスを下さるのですね。
「お嬢様、おめでとうございます。どうか、お幸せになって下さい」
花のようなハンナの笑顔。
野に咲くひまわりのように明るい笑顔。
――私、頑張るわ。もう一度あの人に心から愛してもらえるように。あの人の心からの笑顔を見る為に。
「……お嬢様」
私の目から涙が溢れ出す。嬉しくて、嬉しくて、もう何も言葉にならない。
もう一度あの人の傍にいられると思うだけで、それ以上何もいらないと――それ以上は何も望まないと……。
私、愛すわ。
もう一度、心から彼のことを。あの人ときちんとお別れする為に。あの人の温もりを、この魂に刻み込む為に。
もう二度と、あの人を忘れない為に。
私は涙で滲んだ瞳で、窓に映る白い月を仰ぐように見つめた。
それはあの日、エリオットと眺めていたような、美しい澄んだ色の月だった。
私は月に誓う。
森の中に浮かぶ暗い湖に、白い雪を降らせるようにキラキラと輝いていた――あの日の月に。
彼の熱情に燃える瞳。彼の心、魂を、頭の芯が痺れて溶けてしまいそうな――あの狂おしいほどの愛を……もう一度、必ずこの手に掴んでみせると。




