02
***
「先程は差し出がましい発言をし、本当に申し訳ありませんでした」
今――私の目の前には、隣に座るウィリアムに向かって最敬礼の角度に腰を折る、ライオネルの姿があった。
――今より少し前、スチュワートの呼んだ医者によって本格的な手当てを受けた私は、ウィリアムとルイス、そしてライオネルと共に客間へと移動した。
そしてスチュワートに勧められるがままソファに腰を下ろすと同時に、どういうわけか、ライオネルがウィリアムに向かって勢いよく頭を下げたのである。
頭の項がはっきりと見える程に深い、ライオネルの敬礼。そんな彼の三歩後ろでは、それより更に深く頭を下げるスチュワートの姿もあった。
「伯爵閣下に対する先程の私の失言、申し開きのしようもございません。深く反省しております。どうかお許し下さいませ」
ライオネルは潔い程にはっきりとした声で謝罪の言葉を述べる。
それはまるで上官にでも取るような態度で、私は失礼ながら、ほんの少しだけ微笑ましくも感じていた。
私の隣のウィリアムも恐らくそう感じたのであろう。
不謹慎にも一瞬吹き出しそうな顔をして、それを直ぐに引っ込めた。そして彼はいつものように、……いや、いつもより一層優雅に微笑んで見せる。
「顔を上げてくれ。私の方こそ取り乱してしまいすまなかった。みっともないところを見せてしまったな」
――その美しい横顔に、思わず胸が高鳴る。
私に向けた笑顔ではないのに、どうしてもときめいてしまう。
それは多分……客室を出る時からずっと、私の腰に回されたままの――ウィリアムの腕のせい。
ドキドキ……する。身体が火照って、熱い。
けれどそれでもやはり、拭えない違和感。
先程私を抱き締めたウィリアムは、確かに今私の隣にいて、そして先程誓った通り――さすがに近すぎる気もしているが――こうして私のそばを片時も離れない。
それは紛れもない事実で、真実ではないかもしれないが、現実で。
あれほどみっともない泣き顔を見せた私を、彼は少しも否定しなくて――そして私を愛すると、そう言ってくれた。
ルイスが一体どのようにしてウィリアムをその気にさせたのかはわからない。あの日夜会で私と結んだ――私を決して愛するな、という――誓いを、どのようにして破らせたのかはわからない。けれど――。
部屋の入り口の側でただ一人立っているルイスの表情は、先ほど私に見せたものとは全く逆の淡い笑みで……。
その表情に私はただ困惑しながらも、同時に理解させられるのだ。
きっとウィリアムも、昨日私がルイスからされたのと同じような何かを受けたのだろう、と。ウィリアムの心を変えてしまうほどの秘密を、ルイスは知っているのだろうと。
――私はちゃんと理解している。ウィリアムは決して私のことを愛してなどいない。“愛する”と言った言葉に嘘偽りはないだろうが、けれどもまだ私を愛してはいないだろう。
けれど、そう言わざるを得ない状況にさせられているのだ。他ならぬ、彼が心から信用するルイスによって。
ああ、なんという皮肉だろうか。
でもそれがわかったところで、私にはもうどうしようもない。どうすることもできない。
例え彼が、そして私が……ルイスの掌の上で踊らされているのだとしても。ウィリアムがルイスに騙されているのだとしても。
だって私はもう思い出してしまったのだから。
ウィリアムの腕の温かさを。抱きしめられたときの、胸の高鳴りを……。
それにウィリアムのことを騙しているのは、この私もまた同じ。
――ウィリアムは、顔を上げたライオネルを見据え笑みを深くする。
「こちらこそ、君には礼を言わねばならない立場だ。私の婚約者を――アメリアの命を救ってくれて本当に感謝している。何と礼を言ったらいいのか」
そう言って、今度は私を見つめるウィリアム。
その視線は優しくて、暖かくて。彼の気持ちが偽りのものだったとしても少しも構わないと、そう思ってしまう。
私はじっとウィリアムを見つめ返した。
すると優しく微笑み返してくれるウィリアム。深い緑色の瞳で、昔のように――。
ウィリアムはしばらくの間私を見つめた後、何かを思い出したようにライオネルに向き直った。
「そうだ、君にこれを――」
そう言って、胸の内ポケットから一枚の小切手を取り出した。
そこには既にウィリアムのサインと共に、高額な金額が記載されている。金額は――そう、私ならば一年は暮らすのに困らない程の額。
小切手に並ぶ数字に、ライオネルは目を見張る。
「そ――そんな! やめて下さい、受け取れません!」
ライオネルは首を大きく横に振った。
するとウィリアムはわざとらしく眉をひそめる。
「何だ、額が不満か?」
「いえ、そうではなく……」
「だが今の私にはこれ以外に君に渡せるものがない。君の言い値でもいいのだが……」
そう言いながら、今度は白紙の小切手を取り出すウィリアム。
そんなウィリアムの姿に、ライオネルは今度こそ顔を蒼くした。
「ほ、本当に受け取れませんから!」
ライオネルは拒絶する。その後ろに立つスチュワートも、主人と同様に顔を強ばらせていた。
そんな目の前の光景に、私は心中で深いため息をつく。これは多分、ライオネルへの仕返しだろうと気が付いて。
本来であれば私がウィリアムを止めるべきところだろう。けれど私は今声が出せないわけで。
私は仕方なくルイスに助けを求めることにした。
ルイスは私の視線に気づき、やれやれと小さく溜め息を吐く。
「ウィリアム様、お戯れはそれぐらいになさって下さいませ。ライオネル様がお困りでございます」
「戯れな訳があるか。私は本気だ」
「それならば尚、悪うございます」
「……」
ルイスの言葉に、ウィリアムは眉を寄せた。そして再び私の方を見る。
「君もそう思うか?」
こちらをじっと見つめるウィリアムの瞳。それは驚くほどに真剣で――けれど、そこはかとなく感じる悪意。
――何だろう、ウィリアムは一体私に何を伝えたいのだろう。
彼は目を細め、ゆっくりと口を開ける。
「君が割った窓ガラスと、君の血で汚れた絨毯を張り替えるのに、一体いくらかかるかな」
「――!」
ウィリアム――あなたって人は……!
私は絶句した。
それは今、この場で言う必要のあることなのか。――と思うのと同時に、ライオネルの顔がひきつる。
けれどウィリアムはそんなことは気にもとめない様子で、ライオネルを見据えた。
「君は何か勘違いしているようだ」
「勘違い……ですか?」
「ああ。君だけではない、彼女も――そしてルイスも思い違いをしているようだが、これは厳密には礼などではない、口止め料だ。ルイスは君を信用に値する人物だと評価したが、私はその言葉を簡単に信じられるほど善人ではないんだ。とはいえ、先程の君への言葉は本心。確かに私は君に感謝している。アメリアを介抱してくれた……という、その点についてはな。けれど、彼女が無事だったのはあくまで運が良かったからだ。君のおかげではない。現に、君がアメリアと共に川岸を離れてすぐ、私達もその川岸に辿り着いていた。君が彼女を助けずとも。私達で彼女を救うことは十分に可能だった。――つまり、だ」
ウィリアムは数秒の間を開ける。
「君のしたことは果たして本当に人助けだったのか。一歩間違えれば誘拐罪で訴えられていたかもしれない――そうは思わないか?」
「――っ」
ウィリアムの冷たい声音に、ライオネルの顔が歪む。
「だが、彼女の恩人に礼の一つもしないわけにもいかないのはまた事実。それに、だ。私は周りから”婚約者一人守れない不甲斐ない男”だと不名誉な烙印を押されるわけにはいかないのだよ。――つまり、君はこれを受け取らなければならない。そして今回のことは全て忘れるんだ。もし他言でもしようものなら――わかるな?」
冷徹な眼差しでそう言い捨てるウィリアム。
そんな彼の態度に、ライオネルのみならず私も、ただ困惑するしかなかった。
――何よこれ。いったいウィリアムはどうしちゃったの……?
私は再びルイスを仰ぎ見る。
するとルイスは一瞬だけその口元に人差し指を当て、にこりと微笑んだ。あなたは黙って見ていて下さいね、とでも言うように。




