01
体調でも悪いのかというほどに蒼白な顔色をした彼は――その後ろに立つ無表情のルイスとは対照的に――私とライオネルの姿を見て一瞬言葉を詰まらせる。
泣きはらした顔でベッドに横たわる私と、私の右腕を掴んだまま寄り添うようにベッドに片膝を乗せた体勢のライオネルの姿を目の当たりにして。
彼は何事かを悟った様子で、鋭い眼光をライオネルへと向けた。
「――何を、している」
それは私の知るウィリアムの声ではなかった。彼はいつもより数段低い声で呟いて、ライオネルの襟元を掴みにかかる。
「彼女に――何をした」
その表情に、言いようのない怒りの色を滲ませながら――。
そんなウィリアムの姿に、私は驚かずにはいられない。だってウィリアムがそんな顔をする理由がないのだ。少なくとも、私にはその心当たりが全くない。
もちろんライオネルも、いわれのないウィリアムからの言葉に、そして向けられる視線に。その顔を困惑気に歪ませた。
けれども彼はすぐにウィリアムの過ちに気が付いて……にらみ返す。
「……ファルマス伯爵――でしたよね。何か勘違いされているようですが、僕はただ怪我をした彼女の手当てをしているだけです。貴方が今何を想像なさっているかは知りませんが、どうかお気を鎮めてくださいますよう。彼女が驚きます」
そう言ったライオネルの全身から一瞬殺気が放たれる。それはウィリアムに対する明らかな敵意で……そしてそれは確かに、命の駆け引きをするときのオーラで。私はその懐かしさに、全身を震わせる。
だがウィリアムの方は、自分に向けられたその敵意がまるで生まれて初めて向けられたものであるかのように、茫然とした様子でふらりと一歩後退った。
ライオネルはそんなウィリアムを軽蔑したような目で見つめる。けれどそれ以上は何も言わずに、ウィリアムの横を通り過ぎた。そして、部屋の外で茫然と立ち尽くす執事を呼びつける。
「スチュワート、薬を」
するとスチュワートはようやく意識を取り戻し。薬箱を主人へと手渡した。
私はライオネルから手当てを受けながら、ウィリアムの背後に立ったまま未だ一言も発しないルイスの様子を伺おうと視線を向ける。
するとすぐに目が合った。彼は私を真っ直ぐに見据えると、にこりと――微笑む。
それは昨日――契約を取り交わした直後――の、あの狂気に満ちた暗い瞳で。
「――ッ」
刹那、私は理解した。
ウィリアムの様子がおかしい原因は、私を心配しているように見える彼の態度は――今のウィリアムの、深い葛藤に満ちた表情も――それら全てが、ルイスの策略によるものなのだと。
――ルイス、あなたは一体ウィリアムに何をしたの? 何を吹き込んだの?
たった一日。私がルイスと契約を交わして、まだほんの一日しか経っていない。けれどその間に、たったそれだけの短い間に、既に状況は変わってしまった。いや、変えられてしまったのだ。ルイスの手によって。
――ああ……このままでは……このままでは本当にもう……後戻りは、出来ない?
「――ッ」
全身の産毛がぞわりと逆立つ。
視線の先のルイスの唇がニヤリと歪む。それはまるで私を嘲笑うかのように。
「……アメリア、もう少し横になっていた方がいいよ」
手当てを終えたライオネルが、私の顔を心配そうに覗き込む。
けれどもう、私にはその声がよく聞こえなかった。
何もかもを飲み込んでしないそうなルイスの暗い瞳に、私はもう、何も考えることが出来なかった。
「――っ」
声にならない声が……私の喉から漏れる。
私を見つめるウィリアムの辛そうな表情に、ルイスの歪んだ口元に――私の心が悲鳴を上げる。
――あぁ、駄目だ。もう……限界だ。
そう感じた瞬間、私の意志とは関係なしに、頬に伝う……何か。
私の心を守っていた壁が……ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。今まで必死に造り上げてきた私の鎧が、私の心を守っていた硬くて厚い何かが、無理やりにはがされていく。
私の中の……弱い自分が……本当の私自身が、さらけ出されていく。
「――――!」
ああ、痛い。痛い、痛い――痛い。もう……心が……痛くて。
自分ではもうどうすることもできない。この涙を止めることができない。勝手に溢れ出す涙を……もう、私には……。
「……アメリア?」
私の顔を覗き込むライオネルの顔が、涙で滲んで……もう、見えない。
――ねぇ、エリオット、エリオット。あなたは一体どこにいるの。どうしてあなたはここにいないの。どうして私を抱きしめてくれないの。
私の心が泣き叫ぶ。あの頃の彼と同じ顔をしたウィリアムを、縋るように見つめながら……。
「――アメ……リア」
ウィリアムの顔が歪む。苦しそうな声で私の名を呟いて、その美しい瞳を、葛藤と焦燥感に揺れ動かす。私の大好きな大好きな、深い森や草木の色の瞳に――私の姿を映しながら。
――あぁ、エリオット。私……あなたのことを、心の底から愛しているわ。
私の中で、エリオットに微笑みかけるあの日の私。とめどなく溢れ出る私の涙とは裏腹に、ウィリアムに微笑みかける昔の私。
――あぁ、それは……何という狂気か。
「……アメリア」
引きつった表情で、私の名前を呼ぶ彼。
それだけでも嬉しくて、切なくて、そして――愛しい。
「アメリア……俺は……」
ウィリアムの瞳が揺らぐ。そこに映るのは愛情か、それとも同情か。
でも今の私には、そんなことどうだっていい。彼の本心なんて関係ない。
今の私にとって重要なのは、彼が私を見つめているということだけ。彼が彼の本心から、私のことを考え悩んでくれているという、その一点のみ。
私はただ――涙で滲む視界の中で、ウィリアムの姿を捉え続けた。絡まる視線の心地よさに、息をするのも忘れてしまいそうになる。
そんな時間がどれくらい続いたのか……ようやくウィリアムが、絞りだすような声で言った。
「すまない、俺を、許してくれ」――と。
彼はその端正な顔を歪ませて、私にただ許しを請う。
それが一体どういう意味か、私にはわからなかった。けれど……。
ベッドで狂ったように涙を流し続ける私の傍らへ寄る、ウィリアム。その切なげな表情に、私の心は震えた。
「――アメリア、すまない」
ウィリアムは再びそう呟く。そしてその腕で、そっと私を抱きしめた。
「――」
――ああ、ウィリアム。
私にはウィリアムの謝罪の意味がわからなかった。けれど確かにその腕は私の望んでいたもので。ずっとずっと、私が欲しかったもので――。
けれど同時に、それがどうしても信じられなくて。この幸せは許されないもので。決してあってはならないもので。彼の腕の中にいる今の自分が、少しも信じられなくて。
「……っ」
私の喉から再び漏れだす擦れた空気。それは驚きと――切なさと、歓喜と。そして……。
――ウィリアムの声が、吐息が、私の耳元に触れる。
「アメリア……本当にすまなかった。君のことを守れなくて、本当に――。今俺は、とても後悔しているよ。君の傍を一時でも離れたことを、後悔している」
あぁ……懐かしいエリオット。私の愛しいエリオット。彼が、今――私に触れている。
私の背中に、私の髪に、私の――心に。
愛している、愛している、愛しているわ。あなたのことを――。
そう囁く、昔の私。それは誰に対しての愛なのか。私にはもうわからない。でも――。
「君が昔の恋人を忘れられないことは承知している。けれど、それでもいい。それでもいいから――これからは、俺に君のことを守らせて欲しい。俺を許してくれとは言わないから。憎んでくれて構わないから」
苦しみと葛藤に震えるウィリアムの声。私を強く抱きしめる彼の逞しい腕。それはとても暖かくて、優しくて、……どうしようもなく、苦しい。
「アメリア……お願いだ。これ以上、自分を傷つけるのはやめてくれ。もう泣かないでくれ。これからは俺が君を守ると誓うから。俺が君のことを愛すると約束するから」
――あぁ、それは何と懐かしい言葉。あの日彼と誓い合った、深い愛の契り……。
もう二度と叶うことはないと諦めていた。けれど今、確かに私は彼の腕の中にいる。
ルイスのおかげで、再び彼に抱きしめてもらうことができたのだ――。
――嘘でもいい。これがウィリアムの本心だなんて思わない。けれどそれでもいいの。それでも、私はもう十分幸せよ。
私は彼の言葉に応えようと、彼の背中に腕を回す。私を愛してくれると言った、彼の言葉に……。
すると彼はとても驚いたように、私の顔を見つめた。
「――アメリア。君は……俺を、許すのか……?」
「……?」
正直、私にはその意味が少しもわからなかった。けれど、私は彼のために、精いっぱい微笑んで見せる。
するとその瞬間、大きく見開かれる彼のヒスイ色の瞳。――そこにはもう、迷いは見えなかった。
ウィリアムは、私の顔を真剣な顔で見据える。
「君を必ず幸せにする。神に誓おう――君の傍を、もう二度と離れないと」
そう宣言した彼の姿は、まるで本当にあの日のエリオットの様で――。
私は溢れる感情を抑えきれずに、ウィリアムの胸に縋り付いた。
「……アメリア、愛しているよ」
私の耳元で囁かれる彼の声。愛しい愛しい私のウィリアム――。
――正午を知らせる教会の鐘が鳴り響く。いつの間にか雨は止み、虹の掛かる青空に、澄んだ鐘の音が鳴り響く。
それはまるで私たちの再会を祝福するかのように――何度も、何度も、凛とした音を街中に響き渡らせていた。




