06
***
雨が降り出した。
しとしとと降り出したその雨は、ひたすらに空から地面へと真っ直ぐに落下していく。……音もなく、ただ、静かに。
私は窓ガラスごしに、暗く淀んだ空を見つめていた。まるでその空は私の心を写し出したかのように、静かに涙を降らせている。
「――」
もうすぐ、ウィリアムが私を迎えにくる時間。けれど私の心は、未だ揺らいだまま、決心がついていなかった。
一晩中考えていた。昨日のルイスの言葉の意味を。そして私は、どうするのかを。
ウィリアムを愛し、愛されるようにせよと……ルイスはそう言った。けれどその理由までは教えてくれなかった。ただそうすれば、ウィリアムは助かるのだと――それだけしか。
でもそれは……私にとって、ウィリアムの死の次に辛いこと。
彼にもう一度愛されたい……そう思って私は、何百年もエリオットの魂を追い続けてきた。彼の為に、彼と一緒になる為に……。けれどそれが一度だって叶ったことは無い。
私はやっと諦めたのだ。諦めようと努力して、ようやく諦めた。諦めきれない自分の心を押し殺して、彼が死ななければいいと、それだけで十分だと自分を騙して……。でもそれが本当は、自分に嘘をついているだけだと言うことを、私は誰よりも理解している。本当は今だって……私は彼の事を狂おしいほど愛している。そんな私に……彼をもう一度愛せと言うのか。
――ウィリアムを愛する。もう一度、エリオットの魂を……。そして私は彼にもう一度愛される……。それはなんて夢の様な話なのだろう。そしてそれが叶い、呪いが解けた暁には……私はルイスをこの手にかけて、彼の隣で笑えばいい……。――ルイスは、そう言った。
「――っ」
でも、そんなことは絶対に許されない。ウィリアムを救ったルイスを、私が殺してしまうなど……。それはルール違反だ。私は今まで何人も人を殺めて来た。それは否定しない。その理由がウィリアムの命を救う為だったとしても、それは結局自分の為だった。――そんなことは、この私が一番良くわかってる。でも、それでも自分の為だけに人を殺すことなんて出来ない。いくらそれが、記憶が消えること無く、何度でも生を繰り返す人間相手であっても……。
ルイスはわかっているのだ。私がルイスを殺せないことを。ウィリアムの為に命をかける自分を、私が殺せないことを。
ならばどうして……私にウィリアムを愛せというのか。必ず訪れる別れを目の前にして、何故もう一度愛し合えと……。そんなの、悲しすぎる。私には――堪えられない。
「……っ」
でも、私には選択肢など無いのだ。それが彼を助ける条件だと言うのなら、そうするしかない。……本当に、容易い条件。だって私はずっと、本当はこの千年の間一度だって、彼のことを一瞬たりと忘れたことは無いのだから……。
後は私が……ウィリアムに愛して貰えさえすれば……この呪いは解ける。でも、この呪いが解けてしまったら、私はルイスと共に彼の側を離れることになるだろう。
――そんなの、嫌、嫌よ、……絶対に、嫌。
愛されたい、愛されたい、あの人に抱きしめられたい。心から……彼の愛しい名前を呼びたい。でも、そうなってしまったら、それが本当に私と彼の最後になってしまうなんて。
どうしたらいい、私は一体どうすればいい。もういっそ、ここから逃げ出してしまおうか。もういっそ、ここで死んでしまえばいいのか。あの人との繋がりが無くなってしまうくらいなら……あの人の姿を見ることが出来なくなるくらいなら……。
――もういっそ、全て……捨ててしまおうか。
「――っ」
心が、嗚咽する。真っ黒に塗りつぶされていく。……もう、何も考えたくない、考えられない……。
私の中の、古の記憶が蘇ってくる。愛しい愛しい私のエリオット。彼の……私を呼ぶ声が。
彼の、温もりが――。
――エリオットに、会いたい……。
そう思った瞬間、私の視界に入る、ガラスに映った自分の姿。
私はそこに映る自分の表情に……戦慄した。
「――……ッ!」
そして気付いたときには――私は思いのまま、拳を高く振り上げて――それを窓ガラスに打ち付けていた。
けたたましい音がして、ガラスが一瞬で粉々に砕け散る。
「――っ」
――何て顔をしているの。これじゃあまるで……昔の自分そのものではないか。
……違う、違う違う違う!こんなの私じゃない。私はもうあの頃みたいに、弱い私じゃ無い――!
私は、窓枠だけ残され、寂しげに涙を降らせる外の景色を睨み付けた。視線の先には……雨に濡れてつららの様に冷たく光る協会の屋根――。
「……」
つう……と、私の右手から滴り落ちる赤い雫が、茶色い絨毯敷きの床に次々と染みを作っていく。
けれど今の私には、そんなことを気にする余裕が欠片もなかった。
ガラスの破片でぱっくりと切れた右手の傷。そこからはだらだらと赤黒い血が流れ出るが、こんなもの、私にとっては傷のうちにも入らない。
――忌々しい、吐き気がする。何故、何故今の私はあの頃の私にそっくりなのか。何故、記憶の底に閉じ込めて来た筈の、あの頃の姿なのか。
嫌だ、嫌だ、思い出したく無い。思い出したく無い。
あの日のことはもう二度と、思い出したく無い。
「――っ」
私は、声にならない声で、泣き叫んだ。
思い出さないように。思い出さないように。自分の叫び声で、考えることを止めたくて、紛らわせたくて……。
でも、それは叶わない。私の声は――声にならず、私の頭に蘇るのは……あの日、私の目の前で殺されたエリオットの姿。
私を助けようとして死んだ、エリオットの姿。
「――――ッ!!」
嫌、嫌だ、思い出したくない、思い出したくない――!!
私は両手で頭を抱えてうずくまる。それでも頭に響くのは、思い出したくもない記憶。悲痛な……叫び声――。
――やめて!やめて!その人に触らないで!やめて!お願いだから、その人を殺さないで!
やめて、やめて――聞きたくない、聞きたくない!
――エリオット!エリオット!お願い返事をして、エリオット……!!
髪を振り乱して泣き叫ぶ、少女の悲しみに満ちた顔……。
「――っ」
嫌だ、嫌……ッ。もうやめて、それ以上は、私の心が壊れてしまう――。
私はただ――うずくまったまま、自分の身体を抱き締める。蘇ってくる自分の記憶に恐怖しながら、震える身体を、精一杯……。
けれど、そんなとき……。
「……アメリア?何をしてるの?今凄い音が……、――っ!」
部屋の扉を開けて、私の名前を呼ぶライオネルの声が、私の耳に届いた。
彼の声音に、私の意識は現実に引き戻される。
「アメリア!どうしたの、何があったの!?」
ライオネルの足音が、私に近づいてくる。けれど私は、顔を上げられない。
「――アメリア?……その手!」
ライオネルの声は焦っていた。顔を見なくてもわかる。
私の右手から、未だ止まること無く流れゆく血液――それが部屋を、そして、私の髪を、服を……汚していく光景に。
あぁ、私は一体何をしているのだろう。人様の家の窓を割り、部屋を汚し、こんな醜い姿を晒して……。けれど、もう自分ではどうにもならない。――身体が震えて、言うことを聞かないのだ。それにこんな顔、絶対に見せられない。
けれどライオネルは、そんな私の心も知らず、うずくまったまま俯く私の右腕を、ぐっと掴んで引き寄せた。
「傷を見せて!あぁ……これは結構深いね。痛かっただろう?早く止血しないと」
彼は……私の顔を見るより先に、右手の傷を観察し、冷静な顔でそう言った。
その表情に、思わず私の涙が引っ込む。あぁ――そうだった、この人は騎士の家の者なのだ。
ライオネルは私の泣きはらした表情など気にする素振りもなく、睨むような真剣な顔で私を見つめる。
「どうしてすぐに人を呼ばないの?ほら、右手は心臓より高い位置に」
「――」
彼は胸ポケットからハンカチを取り出すとそれを私の右手にあてがい、そのまま私の右腕をぐいと上に持ち上げる。
「あとは……」
彼は呟いて、椅子のすぐそばの、窓ぎわに散らばったガラスの破片に目をやった。そして更にベッドに目を移す。
「アメリア、一応念のためベッドに横になった方がいい。顔色がとても悪いよ」
「……」
顔色が悪い……か。それは別にこの傷のせいではない。でも、勘違いしてもらえる方が、逆に都合がいいというもの。
「――ほら」
ライオネルは私の返事も待たずに、私をさっと抱えてベッドまで移動すると、そこに私をゆっくりと下ろした。
そして彼は私の右腕を掴んで上にあげたままの状態で、部屋の外に向かって声をかける。
「おい!誰かいるか!スチュワート、直ぐに医者を呼ぶんだ!薬箱を持ってこい!」
そう言った彼の横顔は、なんとなく凛々しくて、彼の騎士としての姿を垣間見たような気がした。
彼は、私を真剣な、でも優しい瞳で見下ろす。
「大丈夫だよ。こうしてれば血は直ぐに止まるから。……傷は、残っちゃうかもしれないけど」
「……」
そう言って彼は少しだけ悲しそうに眉に皺をよせる。そんな彼に、私は首を横に振った。
傷なんて、私は本当に気にしない。そんなこと、取るに足りないことだ。しかし今は声が出ないので、それを伝える術が無い。
私はただ、じっとライオネルを見上げた。すると彼はかすかに、微笑んでくれる。
――そして少しすると、部屋をノックする音がした。
「ライオネル様、あの、薬箱をお持ちしましたが……その、お客様がお見えになっております」
扉の向こうからスチュワートの声がする。
「――客?あぁ、そうか。君の迎えだね」
ライオネルはそう呟くと、すっかり忘れていたと言わんばかりに眉をひそめた。
「少し待って貰うように伝えてくれ。それより早く薬箱を」
「――いえ、それがその……」
スチュワートが口ごもる。それと同時に、勢いよく開け放たれる扉――。
「――アメリア!!」
そしてそこに入ってきたのは、顔を蒼くさせ息を切らせるウィリアムと、その背後に無表情で佇む、ルイスだった。




