04
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空は厚い雲に覆われている。
日が昇ってから、既に二時間が経過していた。約束の時間はとうに過ぎている。
城門は既に開かれていた。門は普段から、朝日が昇ってから日が暮れるまでは常に開け放たれたままである。そして城をぐるりと取り囲む堀、その上には街と城門へと続く石造りの橋が架かっていた。
ウィリアムはその橋の側の木の下で、城門を出入りする人々を横目で眺めながら、アーサーが来るのを独りで待ち続けていた。
「――遅い」
ウィリアムは珍しく、その表情に苛立ちを露わにしていた。
ルイスのフクロウは間違いなくアーサーに手紙を届けた筈である。そしてアーサーが待ち合わせの時間に遅れたことは、今までに一度も無い。確かに今回は、ウィリアムからの一方的な誘いであったが、都合が悪ければ誰かに言伝を頼めばいいだけである。けれどそれも無い。――ということは、アーサーは確かにここに来るつもりであると言うこと。
それなのに何故、アーサーはここに現れないのだろうか。
――やはり、何かあったのか?
ウィリアムは考えるが、城の様子は何時もと何ら変わりはない。
「――……」
木の幹に背中をもたれ、腕組みをしながらアーサーを待ち続けるウィリアムは、時が経つほどに眉間の皺を深くしていった。
そして、それから更に三十分が経過し、いよいよウィリアムはもう帰ろうかと、そこを離れようとした時――。ようやく、アーサーが現れた。
アーサーは焦った様子で城門から飛び出してくると、すぐに橋の側に立つウィリアムに気付いたようだ。彼は息を切らせながら、ウィリアムの元に駆け寄る。
「――遅い」
ウィリアムは、息を切らせるアーサーに厳しい目を向けた。そんなウィリアムの苛立つ様子に、流石のアーサーも申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「すまない。その……寝坊した」
「寝坊!?」
アーサーのその言葉に、ウィリアムは信じられないと言いたげに、声を荒げた。有り得ない……、そう目元をひきつらせるウィリアムに、アーサーは気まずそうに目を伏せる。
「本当に……すまない」
「――……」
けれどウィリアムは、素直に謝るアーサーの姿に、どこか違和感を覚えた。アーサーからは何時ものような覇気を感じられない。
ウィリアムはアーサーへの苛立ちを一旦抑え、尋ねる。
「……本当は、何かあったんじゃないのか?」
アーサーは確かに王子らしからぬ人物だが、それでもやはり王子である。簡単に人に頭を下げたり、謝ることは許されない。そういう教育を受け、彼自身もそれを理解している。
だから、よっぽど咄嗟のことか、余裕の無いときで無い限り、アーサーは人に謝ることは無い。そしてそれは、謝らなければならないような状況に、自分の身を置かないということと同義である。
それがまさか――寝坊などと、正直にも程がある。だからウィリアムは、本当は何か別の理由があったのではないかと考えたのだ。けれど、アーサーは一瞬わずかに目を細めて――ウィリアムの言葉を否定した。
「……いや、何も無い。強いて言えば……悪夢を見た」
「――悪夢?」
アーサーはゆっくり頷く。その表情は酷く強張っていて、確かに余程悪い夢だったことが想像出来る。
けれどまさか――夢などと。
アーサーの悪夢のせいで、俺は一時間以上も待たされたのか?――ウィリアムの抑えていた苛立ちが、再び頭をもたげる。
ウィリアムは呆れたように嘆息した。
「……まさかこの年になって悪夢とは。大の男が聞いてあきれるな」
「……そう、だな。俺もそう思っているよ……」
「……」
ウィリアムは今、わざとアーサーの気に障るような言い方をしたのだ。それでもアーサーは言い返してこない。
ウィリアムはそんなアーサーの姿に、苛立ちと共に猜疑心を募らせる。
ウィリアムは昨夜から、ずっと考えていた。
昨日の夕刻、アルデバランからこちらに一人で戻って来た、ルイスの言葉の真実を――。そしてそれを確認する為に、こんなに朝早くからアーサーを呼び出したのだ。
アーサーが見たと言う悪夢。それだって、ウィリアムにアメリアのことで呼び出されたその理由、そこに後ろめたい心当たりがあったからでは無いのか。……ウィリアムはそう、考えてしまう。
「アーサー。君に聞きたいことがある」
ウィリアムはその顔からなるべく表情を消して、淡々とそう言った。するとアーサーの表情も、それに応えるように張り詰める。
「……何だ」
アーサーは声を低くして答える。彼の心は、ルイスへの猜疑心で溢れていた。
アーサーは、ウィリアムが自分を呼び出した理由、そこにルイスが関係していることだけは予想していた。けれど、内容だけはどう考えてもわからなかった。
「――……」
二人は一瞬、見つめ合う。
ウィリアムは、アーサーの纏う空気が何時もの彼のものに変化したことに、心なしか安堵していた。そうでなければ、ウィリアムはアーサーに本気でぶつかることが出来ない。
ウィリアムはアーサーを見据える。
「単刀直入に聞く。湖で、君はアメリアと二人きりになっただろう。そのとき、君は彼女に何かしたか?」
「……」
真っ直ぐにアーサーを見つめるウィリアムの緑の瞳。そこには微かに怒りの色が見え、アーサーは眉をひそめた。
「……何故、そんなことを聞く」
アーサーは返す。けれど、ウィリアムはそれをぴしゃりと退けた。
「質問に答えろ。何か後ろめたいことがあるんじゃないのか?」
ウィリアムの眼光が鋭くなる。ウィリアムの瞳に映る、アーサーへの懐疑的な感情、それが一層色濃くなる。
「――っ」
そのウィリアムの瞳に、アーサーは思わず目をそらした。――うっかり、彼の思考を読んでしまいそうになって。
けれど、ウィリアムはそのアーサーの目を反らした理由、それが、アーサーに何か後ろめたい理由があるからだと、確信してしまった。
ウィリアムは目を細める。
「……アーサー、君はとんでもないことをしてくれたな。前々から君の女遊びにはほとほと呆れていたが……今回ばかりは愛想が尽きた」
彼は氷のように冷たい声でそう言うと、軽蔑した瞳でアーサーを睨みつけた。けれどアーサーには、その意味がわからない。
「――何だ、お前は何の話をしている」
アーサーはウィリアムに問いかけるが、怒りに支配されたウィリアムにはもう、その言葉は届かなかった。
ウィリアムは語気を強め、憤る。
「しらばっくれるつもりか!アメリアは君のせいで声を失った!……ルイスは彼女から直接伝えられたそうだ。彼女は事故で川に落ちたのではなく……自ら落ちたのだと。カーラには謝っておいて欲しいと言われたと。――彼女は、死ぬつもりだったのだ、お前のせいで!」
「――ッ!?」
アーサーはウィリアムの、その尋常でない話の内容と、そしてその表情に、思わず声を詰まらせた。彼の背中に、ひやりとした汗が伝う。
「君はこの国の王子だ。だから――普通の女性ならば、君の手を振り払うことは無いだろう。けれど、彼女は違う。
俺は確かに彼女のことを愛してはいない。君はそれに気付いていて手を出したのだろう。だが、それは決して許されることでは無かった。彼女には決して――手を触れてはならなかった!」
「――……」
アーサーはウィリアムの言葉に、顔を歪ませた。彼の心に、深い闇が広がっていく。――ルイスと、そして……アメリア。二人の嘘に騙されている、ウィリアムの姿を目の当たりにして。
けれどこうなってしまっては、自分の言葉がウィリアムに届くことは無いだろうということを、アーサーは一瞬で理解していた。だからもう、アーサーはウィリアムに、何も言うことが出来なかった。
「――アーサー。君からしたら、伯爵家の娘などただの遊び相手にしかならないのだろうが、それでもこの国を支える者の一人。君が犯した間違いによって、私の信頼が――そして我が侯爵家の信頼が揺らぐのだ。彼女のお父上はきっとお怒りになるだろう」
「――ッ」
確かに、ウィリアムの言うとおりだ。もしそれが、“真実“であるのならば……。けれどウィリアムは間違っている。ウィリアムは、ルイスに、そしてアメリアに騙されている。――だがそれを伝えるということは、自分のこの力をウィリアムに知られてしまうということ。
それだけは、言えない。言いたくない。――アーサーはぎりりと唇を噛んだ。
しかしアーサーのその様子を何か勘違いしたのか、ウィリアムは自虐的な笑みを浮かべる。
「……安心しろ。伯爵に君のことを伝えるつもりはない。これは俺の責任だ。彼女の側を一時でも離れた俺の――。……俺はこれからルイスと共にアメリアを迎えに行く。けれど金輪際、彼女には近付くな。……もし今後彼女の前に姿を現すことがあったら、俺は君を、本当に許さない」
「――……」
そう言ってアーサーを睨むウィリアムの暗い瞳は、何の迷いも無く――。
アーサーは、ウィリアムの背後に――居るはずのないルイスの姿を垣間見た気がして、ただそこに――恨めしそうな目を向けることしか出来なかった。




