02
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これは遥か昔、まだこの地上が暗闇に包まれ――太陽も月も山も無く、人々も生まれていなかったころの話です。
地上の空のずっと上に、神々のおわす天界がありました。そこは小鳥がさえずり、花が咲き乱れ、ただ穏やかに時が過ぎる、まさに楽園と呼ぶに相応しい場所でした。
けれどそれ故に、神々は非常に退屈しておりました。何もする事がないのです。
ある時一番偉い神が言いました。地上に楽園を造る、と。
そして地上に、七人の神々が降り立ちました。神々はまずその空に、太陽と月を造りました。そして天界から運んできた草木の種を地上に蒔き、更に雨を降らせます。すると、地上はすぐに緑豊かな土地になりました。
最後にようやく神々は人間をお造りになり、人々に愛と勇気と知恵を与えました。そして人々は神々の統治する土地で、何不自由なく幸せに暮らし始めました。
けれどそれを良く思わない神もいました。それは、地上に降り立つ七人に選ばれなかった――死と再生の神、ハデスです。
彼は神々の中でただ一人、真っ黒な髪と瞳を持っていました。そして彼はその自分の姿が、周りの神々から良く想われていないことに気が付いていました。だから彼は、天界を去り、地上で人々と暮らすことを望んでいたのです。
彼はついにある日、他の神々の目をかいくぐり、自分も地上へ向かいました。けれど地上に降り立つと同時に、彼は他の神々に捉えられ、天界へ連れ戻されてしまいました。
彼は一番偉い神に頼みました。私を人間にして下さい、と。そしてその望みは叶えられ、彼は人間になることを許されたのです。
けれど地上に降り立った彼は、直ぐに残酷な現実に打ちのめされました。彼の真っ黒な髪と瞳は、人々に受け入れられることがなかったのです。
彼は人々に追われ、深い森の奥に逃げ込みました。そして人間になっても尚残る、その絶大な神の力で、一人の少女を生み出しました。ハデスはその――漆黒の髪と瞳を持つ美しい少女にソフィアと名付け、それはそれは大切に育てました。
ソフィアが言葉を話せるようになると、ハデスは言いました。
「いいか、決して私以外の人間には近付くな」
ソフィアは尋ねます。
「どうして?」
「我らの黒い髪と瞳、それを人間は恐れるからだ」
ハデスの切なそうな表情の意味が、ソフィアにはまだわかりませんでした。
それから何年も――何十年も――何百年も、ハデスとソフィアは森の中で二人きりで暮らしました。ソフィアはハデスの言いつけを守り、森の外へ出たことはただの一度もありませんでした。
そして千年がたった頃、一人の青年が森へ迷い込んで来ました。青年は深い傷を追っていて、今にも死んでしまいそうな程でした。ソフィアは初めて見るハデス以外の人間の姿に驚きましたが、青年の苦しげな表情に、思わず手を差し伸べてしまいます。
青年はソフィアのその人間離れした容姿に一瞬顔を歪ませますが、傷の痛みに気を失ってしました。
しばらくして青年が目を覚ますと、内臓まで達していた筈の傷が、綺麗に消えているではありませんか。青年は、先ほどの少女が自分の傷を癒やしてくれたことをすぐに理解しました。
青年はその少女に一言お礼を言おうと、森の奥へ奥へと進んでいきます。しばらく進むと、澄んだ水をたっぷりとたたえた美しい湖が見え、そこから歌声が聞こえてきました。小鳥がさえずる様なその可愛らしい歌声に、青年は心打たれます。
青年はそっと少女に近づき、声をかけました。
「君が僕を助けてくれたのか?」
少女はその声に肩を震わせましたが、青年の優しげな微笑みに、ハデスの言い付けも忘れて言葉を返します。
「そうよ」
ソフィアは無意識のうちに微笑んでいました。
青年は、そんなソフィアの笑顔と、そしてその鈴を鳴らした様な声に、一瞬で心奪われます。
「僕の名前はカイル。君の名前を教えて欲しい」
「……ソフィア。――……ソフィアよ」
「ソフィアか。美しい名前だ。助けてくれてありがとう、ソフィア」
そしてソフィアも、カイルの凛々しくも逞しいその姿、そして優しげな笑顔に、自然と心引かれました。
ソフィアはカイルから、森の外の世界がどうなっているかを聞きました。
既に地上に神は居らず、人々は争いを繰り返している、カイルは悲しそうにそう言います。
カイルは隣国の王子でした。内乱の末、国から逃げ出してきたのです。逃げる間に、臣下ともバラバラになってしまって、もう行く宛もないとのことでした。
ソフィアはカイルを家に連れ帰りました。彼女はハデスに頼みます。どうか彼をここにおいて上げて欲しい、と――。
けれどハデスが頷くことはありません。それどころか今までにない形相で怒ります。何故言い付けを破ったのか、と。
ハデスは既に気が付いていました。ソフィアがカイルに惹かれていることに。そしてまた、カイルもソフィアを愛してしまっていることに――。
ハデスはどうしても許せませんでした。ハデスもまた、自らの手で生み出したソフィアを、心の底から愛してしまっていたからです。
それにハデスは理解していました。人間の命の短さを、儚さを。神の力を持つハデス、そしてそれを受け継ぐソフィアと、人間のカイルとでは生きる時間が異なることを――。
ハデスの怒りを買い、湖の縁で泣き崩れるソフィアを、カイルは強く抱きしめました。そして言います。
「僕と一緒にこの森を出よう。君と一緒なら、もう一度やり直せる気がするんだ」
ソフィアは頬を赤く染めました。けれどもすぐに頷けませんでした。自分がいなくなったら、ハデスは独りきりになってしまいます。彼女はそれが、どうしても気がかりだったのです。
ソフィアはカイルに、数日待って欲しいとお願いし、ハデスの元に戻りました。そして再びハデスに懇願します。
「あの人をここに置いて下さい」
「それは出来ない」
ハデスはソフィアを睨むように見つめます。
「わからないのか。お前とあの男とでは、生きる時間が違うのだ」
「――それでも、ほんの短い時間でも、私はカイルと一緒に居たいの。ごめんなさい、ハデス。……私、彼を愛してしまったの」
「――……」
ソフィアのその言葉に、ハデスはとうとう諦めました。
彼はまた理解していたのです。いつかこんな日が来ることを、ソフィアが自分の元を去ることを。それを解っていて、彼は自分の造り上げた器に、確かに人の魂を入れたのですから――。
「ならばあの男と共にここを去るがいい。だが二度とこの森に立ち入ることは許さん」
そしてその言葉を最後に、ハデスはソフィアと二度と口を利くことはありませんでした。
とうとう、ソフィアがカイルと共に森を去る日が訪れました。その日もハデスはソフィアの前に姿を見せず、ずっと部屋に引きこもっていました。
ソフィアはカイルと共に、森の出口へとたどり着きました。ソフィアは森を振り返ります。千年もの長い時をハデスと二人で過ごした森、そこを離れるのはソフィアにとってとても辛いことでした。けれどそれでも、彼女はカイルと共に生きることを選んだのです。
ソフィアはカイルに手を引かれ、森の外へ出ました。すると空から一羽の白いフクロウが舞い降りて、ソフィアの腕にとまります。
ソフィアはすぐに気が付きました。フクロウのその真っ黒な瞳の奥から、確かにハデスの気配がすることに。
そうです。ハデスはソフィアが心配で、自分の意識の一部をフクロウに移し、ソフィアのもとへ放ったのです。
ソフィアはそのフクロウを連れ、カイルと共に森を去りました。
それからしばらくの時が過ぎました。
神々が天界に戻られてからというもの、争いで荒れ果てていた土地は、一人の王と聖女によって再び緑豊かな土地へと戻りました。
聖女の不思議な力のお陰で、作物はよく実り、川は決して枯れることはありません。国の人々は王と聖女に感謝しながら、幸せに暮らしていました。
けれどある日、王は病気になりました。聖女はその力の限りを尽くして王の病気を治そうとしましたが、彼女の力を持ってしても、それは叶いません。
とうとう王は死にました。ソフィアは悲しみに暮れ、一年中泣き続けました。
ソフィアは自分も王のもとへ行きたいと願いましたが、どうやっても死ぬことが出来ませんでした。
それをずっと見ていたフクロウは、悲しげな瞳でソフィアに言います。お前の魂を解放してやろう、と。そして尋ねます。最後の望みは何だ、と。
ソフィアはその言葉に、王の最後の言葉を思い出しました。王は言っていました。この国を、人々を、守って欲しい、と。
ソフィアは王の願いだった国の繁栄をハデスに願い、ハデスはその望みを受け入れました。自分で創り出したソフィアのその身体に込めた、自分自身の神の力、それを国を守る加護という形で解き放ち、国の繁栄を誓ったのです。
力を失ったソフィアの身体は静かに眠りに付きました。人々は嘆き悲しみましたが、聖女は二度と目覚めることはありませんでした。
けれど彼女が眠った後も、その国は王とソフィアの願った通り、長い間繁栄し続けたということです。




