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02


 私はそんな彼の表情に、思わず微笑む。


 ――何だか、とても安心させられる笑顔。心が自然と、温かくなる様な……。

 不思議な、人ね。


 私はそんなことを感じながら、手帳に自分の名前を書いた。するとライオネルはそこに書かれた文字を見て、嘘偽りの無い瞳で言う。


「アメリアって言うんだ。とても綺麗な名前だね」

 少年の様な笑顔。その表情に、何だか私は既視感を感じた。 

 彼は、尋ねる。


「僕、君のこと何て呼べばいいかな?アメリアって呼んでもいい?」


 私はその問いに、特に考えるでもなく頷く。すると彼は嬉しそうに微笑んだ。


「僕のことはライオネルって呼んでね。あ――でも、呼べない……か」

 少し気まずそうな、悲しそうな顔をする彼。――その姿に、私は気を緩めずにはいられなかった。


 この感じ――何十年ぶりだろうか。貴族の家に生を受けるようになってからは、生きるのに困ることは無かったけれど、本当の意味で心休まることは無かった。ただ型にはめられた生活。それはとても退屈で、繰り返せば繰り返す程憂鬱で――そしてとても窮屈なもの。


 歳を重ねれば重ねる程、周り人たちの考えていることが手に取るようにわかるようになって行く。感情で動かず、理性で判断する。上に立つものであればあるほど――身分が高くなればなるほど、自分自身も、そして周りも――それはまるで人形の様に。それは慣れてしまえば、そこに甘んじてしまえるならば、息をするより楽なこと――。


 全てを完璧にしてみせるのも、好きでもない相手と結婚するのも、またそれをしないのも……どちらも私には確かにどうでもよいことで、本当に些細なことで――そして本当につまらないこと。けれどいつだって……そこにはあの人の影がチラついていた。


 年月を重ねるごとに縮まっていく彼との世間的な距離。それがずっと私の心を苦しめてきた。それは今も変わらない。けれど――。

 こうやって、何も知らずに、初対面の相手に笑いかけることが出来るような人もいるのだ。私に比べて本当に短い人生、短い記憶しかない筈なのに――。

 それは何と、素晴らしいことなのだろう……。


「アメリアは、すごいね」

「……?」

 唐突に彼が言う。


「こんな状況なのに、笑えるんだね」

 純粋に凄いといった顔で私を見つめる優しい瞳。その言葉に、私は目を見開いた。


 ――私、今、笑ってた……?


「ははっ、その様子だと自分でも気付いて無かったんだね」

 彼は笑う。


「でも良かったよ、心配なさそうで。アメリア、お腹は空いてない?僕も朝食まだだから、下で一緒にどう?」

 ――食事。そうだわ。私、昨日のお昼から何も食べて無いわね。思い出すと、急にお腹が空いてきた……。こればっかりはどうにもならない。

 私は彼の申し出を、有り難く受け入れることにした。



***



 私は彼の後ろに着いてダイニングルームに入る。すると一番最初に視界に入ったのは――壁際に設置された、重厚な造りの甲冑(かっちゅう)だった。


「――」

 そして私は納得する。先ほどから感じていた、違和感の正体に。


 私は先程部屋から見下ろした庭の景色から、貴族とまでは言わないが、ここがそれなりの財のある者の屋敷であることを確信していた。けれど部屋の家具は非常にシンプルなもので、廊下の調度品も極端に少ない。そしてライオネルからも、良くも悪くも権力を持つもののオーラを感じなかった。

 何故だろうと思っていたが――なる程そうか。ここは、騎士の屋敷なのだ。

 

 私たちはテーブルにつく。


 テーブルには既に二人分の料理が並べられていた。パンと卵とサラダ、そしてスープと数種類のフルーツ。朝食の定番中の定番であるが、私にはそれがとても懐かしく思える。そして不思議と、いつもの凝った料理よりも色鮮やかに見えた。


 ――私、相当お腹が空いているみたいね。そんなことを考える。


「口に合うといいんだけど」

 私の向かい側の席に座った彼は、そう言いながら自らの手でグラスに水を注いだ。


「――あ、水で良かった?ミルクもあるけど」

 私はその申し出を丁重に断り、水の入ったグラスを受け取る。

 そして、よく磨かれたグラスに揺れる、透き通ったその色に、自分の喉が渇いていたことに気付いた。


 彼は、私がグラスをじっと見つめていることに気付いたのか、くすっと笑う。


「さ、頂こうか」


 そしてその彼の言葉を合図に、私は彼の視線も気にせず、グラスの水をぐっと飲み干した。



***



 時刻は午前九時半を回っていた――。



「そろそろ良いですかね――」

 ルイスは懐から取り出した懐中時計で現在の時刻を確認し、一人呟く。


 ルイスが居るのは、ある屋敷の(そば)の路地であった。白い石畳で舗装された道、立ち並ぶ家々。そこを行き交う馬車や人々。それに紛れるようにして――ルイスは壁に背をもたれながら、監視するような視線をその屋敷に向ける。


 ルイスはこの街に着いて直ぐに、アメリアが運び込まれたこの屋敷を特定し、そして一晩中監視していた。昨夜この屋敷を出入りしたのは一人の街医者のみである。そしてそれ以降動きは無い。それが意味するものは、アメリアに大きな怪我が無いということ。


 そしてまたルイスは、今この屋敷にいるのが、この屋敷の主人であるレイモンド・マクリーンの次男、ライオネル・マクリーンと使用人のみであるという情報を得ていた。マクリーン夫妻は休暇で旅行中、そしてライオネルの兄は既に家庭を持っており、王都に移り住んでいるという。

 ライオネルはまだ騎士養成学校を卒業したばかりの一八歳。この辺りに住む人々から聞くところによると、明るくて利発、心の優しい青年であるということだった。


 一瞬、ルイスの側から人通りが無くなる。

 するとそれを待っていたかのように、一羽の白いフクロウが、ゆっくりとルイスに向かって舞い降りた。


 フクロウの羽ばたきが、ルイスの黒い髪を揺らす。ルイスの左腕にとまったフクロウは、朝の日差しに眩しそうに目を細めていた。そしてその足には、小さく巻かれた手紙がくくりつけられている。


 これは昨夜、ルイスがウィリアムに対して放った、アメリアの居場所を伝えた手紙の返事。


「……」

 ルイスはフクロウの足からその手紙を外し、開く。


《こちらは何も問題ない。伯爵は待ってくれるそうだ。私の名を出せ。彼女の無事をその目で確認し次第、直ぐに連絡を寄越すこと ―W―》


 ルイスはその短いメモの様な手紙を読み終えると、その顔に薄い笑みを浮かべる。

 そして――ルイスは手紙を右手でぐしゃりと握り潰してから、証拠隠滅と言わんばかりに、破り捨てた。


「――上で待っていろ」

 ルイスはそう言って、左腕を掲げる。それを合図にフクロウが再び空に舞い戻って行く。

 そしてフクロウが視界から消えるのを確かに確認して、ルイスは呟いた。


「さて――、そろそろ行きましょうか」



 ルイスは歩き出す。その美しい顔に、恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべて――。


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