02
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一時間程馬車に揺られてアメリア達が着いた先は、スペンサー侯爵家の領地であり、真っ青な野原と豊かな森が広がる湖のほとりであった。水面は澄んだ鏡の様に空の色を映し出し、気持ちのよい風が豊かな木々の香りと小鳥のさえずりを運んでくる。
「さ、行きましょう、ウィリアム様!場所はわかっていますから」
馬車から降りて真っ先に先頭に立ったのはカーラであった。カーラはウィリアムに満面の笑みを向けると、彼の腕を掴むようにして森へと続く小道を進んでいく。
「カーラ、止めないか。私はアメリア嬢と一緒に……」
ウィリアムはちらりとアメリアの様子を伺う。けれどもアメリアはそんな些細なことは気にしないわと微笑み返す。
「私のことは気になさらないで。ウィリアム様を独り占めしては悪いですもの」
――アメリアはここに着くまでの間のカーラの様子を思い起こしていた。カーラは馬車の中で、アメリアに対して一言も口を聞かなかったのだ。それどころかあからさまに敵意のある視線で睨んでくるばかり。どうやら彼女はウィリアムのことが好きらしい。けれど恐らく、彼女の態度の原因はそれだけではなかった。
「妹が申し訳ない」
カーラとウィリアムの背中を見送るアメリアの右側に、いつの間にかエドワードが立っていた。エドワードはやれやれと肩をすくめる。
「あいつ、アメリア嬢にウィリアムを取られて拗ねてるんですよ」
エドワードと同時にアメリアの左隣に現れたブライアンも、そう続けた。そんな二人の言葉に、アメリアはその顔から笑顔を消す。
「――話したのね?」
アメリアは低い声で呟く。けれど今の二人が動じることは無い。
「――ははっ。やっぱりバレてたか。話すつもりは無かったんだけど、アーサーに問い詰められてさ。仕方なかったんだ」
エドワードが弁解すれば、アメリアは小さく溜息をつく。
「まさか殿下に話すなんて。――最悪よ。
ところで、あの馬車は何なの? 四頭立てだなんて」
アメリアが煩わしそうに馬車に目をやれば、ブライアンが「ああ、あれ」と困ったように答える。
「アーサーと出掛けるって父さんに言ったら、あの馬車を使えって言われてさ。当主専用の馬車なんて目立つし嫌だって言ったんだけど」
「……成程ね」
確かに王子を乗せるとなれば、普通の馬車と言うわけにはいかないかもしれない。だが、あんなに目立つ馬車で移動するなど、逆に危険というもの。
それにそもそも、アーサーには護衛の一人もついていない。いくら平和な国とは言えど、王子に護衛がいないとは一体どういう了見なのか。
――もしも万が一殿下に何かあったら、一体誰がどう責任を取ることになるのかしら……。
アメリアは不覚にもそんなことを考えて――こんなことに気を遣わなければならないのは、すべてこの双子のせいだと、二人に憎らし気な視線を送った。
けれど二人はアメリアのきつい視線にも全く動じることはない。それどころか二人はアメリアを見返し、ニヤリと笑う。
「それにしても、さっきの君の淑女ぶりは傑作だったな。“氷の女王“様はどこへやら――。ウィリアムは君の本性知らないわけ?」
そう言って、先ほどの挨拶のことを思い出したのかケラケラと笑い声を上げる二人に、アメリアは眉をひそめる。
「あなたたち、性格悪くなったわね。残念だけど、ウィリアムも知ってるわ」
「なんだ。じゃあここにいる全員、君のことを知ってることになるな。淑女の振りなんて止めればいい」
「そうだ。それに俺たちは、さっきの君より今の君の方が好きだ」
真面目な顔をしてそんなことを言い出す二人。けれどアメリアはそれを否定する様に、にこりと微笑む。
「あら、駄目よ。私、この自分も結構気にいってるの。それに――こうしていると落ち着くのよ」
アメリアはそう言って、二人の返事を待たずに歩き出した。
――そう、落ち着くのだ。本当の自分を押し殺し、別の自分を演じていると……。さざ波すら立つことのなかった心が、ウィリアムに出会ってからは僅かなことでかき乱されるようになってしまった。けれどこうしていれば、澄ました顔をし、微笑みを浮かべ、周りの望む自分を演じている間は、心がかき乱されることは無い。――ウィリアムの声に、笑顔に、あの人を思い出しては叫び出したくなる気持ちを、泣き出したくなる心を……抑えていられるのだ。
アメリアは森の小道を進んでいく。右手には木々の隙間から午後の陽気に照らされてキラキラと輝く湖が見え、左手には生い茂る木々と白い木洩れ日。小鳥のさえずり、虫の声、木の葉の擦れる音――。澄んだ空気が肺を満たしていく。年中通して枯れ葉の積もった地面はとてもふかふかで、何だかとても懐かしいような――切ないような気持ちがアメリアの中に湧き上がる。
――そうだわ、そう言えば昔……こんな森でよくあの人と……。
それは本当に遠い遠い昔。まだ何も知らない幼気な少女だった自分――。……手をつないで歩いた。日が暮れるまで一緒に過ごした。時間を忘れて喋りあって、たわいない日常が楽しくて、手が触れただけで嬉しくて、私の名前を呼ぶその声が愛しくて……。
愛していた、愛していた、――心の底から愛していた。彼以外何もいらないと……彼の為ならば何でも出来ると、確かにそう思っていた。彼の幸せを……彼と幸せになることを心から願っていた。唯それだけ、それだけだった。――それは本当に些細な願い。
家族が無くても、お金が無くても、彼さえいれば私は生きていられた――本当にそれだけだった。――なのに……。
幸せだった過去。大切な思い出。――それがいつの間にか、消え去りたい、思い出したくない記憶になっていた。何故なのか、どうしてなのか、私の何が悪かったのか。……最近は、そんなことばかり考えてしまう。けれどそれでも、足を止めるわけには行かない。ウィリアムは私を愛さないと誓ったけれど――それでもいつかきっと彼はその誓いを破り、その時私は彼の前から姿を消すことになるだろう。だからそれまでは……ほんの僅かな間だとしても、私は彼の隣で偽りの笑顔を浮かべるのだ。
「――」
そうやってアメリアが自分の過去に思いを馳せていると――微かだが、背後から落ち葉の踏まれる音が聞こえた。そしてそれと同時に名を呼ばれる。
「アメリア嬢!」
その声はアーサーのものであった。アメリアは微かに眉をひそめ――足を止める。
「お一人で行かれては危ない」
その言葉にアメリアは一度だけ深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返った。その顔には、穏やかな微笑みを浮かべて。
「アーサー様……ええ、そうですね。ごめんなさい。森があまりに美しいものですから、つい夢中になってしまって……」
「そうだな。確かにここは美しい。けれど……あなたの輝きには決して及ばない」
アーサーは唐突にそんなことを言うと、微笑を浮かべ、その深いアメジストの色の瞳でアメリアをじっと見つめた。そして――続ける。
「少し、歩こうか」
そう言ってアメリアのすぐ側に近寄ってくるアーサーには、ほんのわずかな隙も無く、アメリアは思わず半歩後ずさる。彼女の胸に広がる、何かの予感。――けれど、アーサーの申し出を断るわけにはいかない。
アメリアは仕方なく……アーサーの視線から少し逃れるように顔を背けながら、小さく頷いた。
***
一方、カーラとウィリアム、そしてエドワードとブライアンの四人は既に湖の入江に到着していた。入江は森と湖に囲まれてはいるが湖側は視界が開けていて、その美しい景色を一望することが出来る。
そんな湖に、既に浮かんでいる一隻のボート。そこに乗るのはカーラとウィリアムであった。ウィリアムは今までに無いカーラの強い押しに負け、カーラと二人きりでボートに乗ることを承諾したのである。
そしてそんな二人の乗るボートが岸から離れていくのを、やれやれと呆れた様子で眺めるのはエドワードとブライアン。
「結局カーラはアメリアと口を利かなかったな」
「あぁ……。全く困った奴だよ」
二人は肩をすくめる。
「……つーか、あいつら遅いな」
エドワードは手近な丸太に腰を下ろして、未だ到着しないアメリアとアーサーに対して文句を垂れた。その隣にブライアンも腰を下ろす。
「まぁ……でもどこ通ってもここに繋がってるし大丈夫だろ。アーサーもついてるし」
「いや……寧ろアーサーと一緒っていうのがな……」
「いやいや、流石のあいつも彼女には手を出さないだろ。ウィリアムの婚約者だぞ」
「まぁなぁ。でもあの我が儘腹黒自己中王子、ほんっと節操ないからな」
エドワードは水面に向かって小石を投げながら、遠い目をした。ブライアンはそんなエドワードに、流石に王子相手に言い過ぎでは……と言いたげな視線を送る。
「……でも彼女なら、アーサー相手でも一発かましてくれるんじゃないか?」
「そうかなぁ……そうだといいけど」
それに気になることは他にも――。
二人はボートに乗った妹の姿を見つめる。
「あれは修羅場になるぜ……」
「……あぁ。ほんっと勘弁して欲しいよ」
二人はそう呟いて大きな溜め息をついた。が――。
「……ん?」
エドワードは急に首を傾げる。
「どうした?」
「……何か……忘れてる気がする」
「何かって?」
そして二人はあっ、と顔を見合わせる。
「――ルイス!!」
二人は馬車を降りてから一度も姿を見せていないルイスのことをようやく思い出し、思わず声を荒げた。




