廃屋の花
ここのはずだが、なにかおかしい。
左右に隣の家を見回す。左隣の家にはいつの間にかカーポートができていて、パステルカラーの軽自動車が笑ったような顔をこちらに向けて、ちんまりおさまっている。
右隣の家は老夫婦が住んでいたはずだが、いつの間にか白く塗り替えられたフェンスの内側には三輪車や、赤青黄色のプラスチック製のおもちゃがあふれている。
歩いてきた道を振り返り、目印となる角の庭の大銀杏の木を見上げ、確かに間違いないことを確信した。乱雑にゴミのような紙や封筒が押し込まれた郵便受けの上には見慣れた表札がある。
黒い鉄門扉の上から手を伸ばして、内側の掛け金をはずそうとして、気がついた。普段、あまり注意して見ていなかったが、鉄はあちこちペンキがはげて赤サビが浮き、穴があいているところさえある。
そろそろペンキを塗り替えなきゃならんな。
ぎぎぎぎ、と嫌な音を立てる門扉を開けて、タイル貼りの段差を一段上がったところが玄間のドアだ。右のポケットから鍵を取り出し、上と下と、ドアの鍵を開ける。この家を建てたときに凪子が選んだ、丸に十字枠のガラスが入った、どっしりした木製の洒落たデザインのドアだ。
ドアの周りには吹き寄せられた枯れ葉が薄汚く堆積していた。昨日今日の量ではない、もう何年も玄間を掃いていないかのようだ。凪子ももういい年だし、毎日の掃除もたいへんで行き届かないのだろう、週に何回かお掃除の人を頼んだほうがいいかもしれない。
なんだ、なんなんだ、この臭いは。ひどいぞ、これは……。
一歩、ドアから中に足を踏み入れた途端、カビ臭さになにかが腐った臭いが混ざったような、ひどい悪臭が襲ってきた。とっさに袖口で鼻を覆い、口で呼吸する。玄間の内側は妙にがらんとしていて、いつもそこに並んでいた散歩用の運動靴も凪子のつっかけサンダルもどこかに片づけられている。入ってすぐ横の傘立てには、見覚えのある花柄の傘が、長い靴ベラと一緒に無造作に突っ込んであった。
後ろ手にドアを閉め、靴を脱いで上がる。薄っぺらなフローリングの床には、靴下の足跡がくっきり残るほど湿ったほこりがたまっている。自分の家でなければ、土足のまま上がったかもしれない。右手の客間のドアは閉まっていた。その奥はトイレと風呂場になっている。
「ただいま」
控えめに声をかけてみたが、家の中は人の気配がないどころか、誰かが住んでいる感じもない。
いったい凪子はどこに行ったのだ。今日帰ることを伝え忘れたのかもしれない。それで凪子は実家にでも行って留守にしているのか。
昔から俺が、連絡せずに飲みに行くことでよく文句を言われたな。心をこめて作ったご飯が冷めていくのを前にして、あてどなくあなたを待つ気持ちがわかりますかって、結婚したばかりのまだ若い凪子は目に涙をいっぱいためて怒った。照れくさくて、謝るどころか「待たなくていい」と言ったのに、凪子はいつだって起きて待っていたものだ。そしておいしい水を一杯、黙って俺に手渡してくれた。
のどが渇いたので、左手のきっちり閉まった居間のふすまに沿ってまっすぐ廊下の突き当たりにある台所に向かう。最近ではあまり見なくなった、模様の入った磨りガラスの引き戸はすっかり建付けが悪くなっていて、両手をわずかな戸の隙間に入れてがたがたと押し開ける。
細長い台所は決して広くはないが、作り付けの収納が多く、東側の窓から朝日がいっぱいに入ってくるのが凪子のお気に入りだった。
もう少し乱雑に物が載っていた小さな食卓が妙にこざっぱりと片付いている。やはり、凪子はしばらく家を空けるつもりで出かけたようだ。
流しの横の水切りかごから水を飲むコップと取ろうとすると、たくさんの湯呑茶碗が洗って伏せて置いてある。俺の留守にずいぶんたくさんのお客が来て、凪子は楽しくやっていたらしい。こんなに人が集まったのは、親父の葬式以来じゃないかと思う。
それにしても台所の床がひどく汚れているな……なんだ、このどす黒いシミは。こんなにたくさん、しょうゆの瓶でも落として割ったのか。それに子供の落書きかな、これは。人の形にも見えるが。
そういえば凪子はずっと子供を欲しがっていた。とうとうできなくて、親戚の子を養子にするなんて話もあったが結局、凪子があまり乗り気にならずに立ち消えになった。
俺は男だし仕事もあったけれど、凪子は自分の子供をあきらめきれなかったのかもしれない。凪子の人生はそれでも幸せだったんだろうか。あらためて幸せか、なんて聞いてみたこともなかった。凪子が幸せかどうか、俺自身が幸せかどうか、考えるヒマがないほど忙しくしていたはずもないが、二人だけの毎日にお互いが何を思って生きていたのか、もうわからない。
コップに水を入れようと流しの蛇口をひねってみたが、まるで水が出ない。まさか水道の元栓まで締めて出かけたはずもないのに、と思って蛇口を閉めたり開けたりしているうちに、ふと、誰かに見られている気がした。気配を感じた奥の部屋のほうに振り返ると、三十センチほど開いた襖の間から仏壇がぼんやり見えるようだ。メガネがない、胸ポケットにも入っていないので、はっきりとは見えない。
流しにコップを置き、体を横にして襖の隙間を通り抜け、目を細めて顔を前に出すように、じっとりと足の裏が湿ってくるのを感じながらぶよぶよする畳を踏んでゆっくりと仏壇に近づく。そこに飾られている写真がはっきり見えたのは、仏壇に手が届くほど近づいたときだった。
「誰がこんな……ひどいイタズラだ、生きている者の写真を仏壇に飾るなんて!」
思わず大きな声が出ていた。無意識に写真を右手で払いのけ、さらに怒りにまかせて仏壇の中にある位牌から何からすべて畳にぶちまけた。線香の灰で自分もあたりも白くけぶったようになる。
若い頃もそれなりに気が短かったが、最近は一度火がつくと、自分で自分の高ぶった感情を抑えられない。床に散らばった位牌や仏具を蹴散らし、「うぉー」とも「わぁー」ともわからない雄叫びをあげながら横の黄ばんだ障子を一枠ずつ両手で交互にずぼずぼ破り、やっと息を切らしてその場に立ちすくんだ。
白く汚れた靴下を見下ろすと、つま先の横で凪子が一番気に入っていた彼女自身の写真が半分、線香の灰に埋もれて黒いフレームの中からこちらを見上げていた。いたずらっぽい目でやわらかく微笑んだその表情に一気に怒りも力も抜け、がっくりと膝をついた。
なんだわかったぞ、これは凪子のイタズラじゃないか。
いつも「私が先に死んだら、あなたはどうやって生きていくんですか、電子レンジの使い方も知らないで」と言っていた。
俺を脅かすつもりだったんだな。怒ってあばれて損した。あと片付けがめんどくさいことになったぞ。
穴だらけになった障子紙を茫然と見ていてふと、その先に見える、庭に面した廊下が薄暗いことに気付いた。逆にそれまでなぜ気付かなかったのか、昼間だというのに雨戸がすべて閉まっていて、天井近くの細長い明り取りを通してわずかな光が入っているだけだ。メガネがないのでよく見えないのかと思っていたが、実際には室内がかなり暗い。
とりあえず廊下に出てサッシを開け、雨戸を開けようとしてまた一苦労で、湿気でふくらんだのか雨戸がまったく滑らず、一枚開けるのがやっとだった。
凪子はいったい、いつから留守にしているんだ。
突然、外界の光でいっぱいになった部屋にまた唖然とした。特に天井に近い隅から青白灰緑茶紫黒と、抽象画家が刷毛でぶちまけたような派手なまだら模様が壁一面に広がり、それがすべてカビだった。雨漏りのせいか、台所に近いところではすでに腐った天井板が垂れ下がり、その下にはおびただしい量のなんらかの動物のフンが座布団の上に堆積している。
浦島太郎。浦島太郎とは、まさに今この瞬間のこの気持ちのことに違いない。
俺がいたところはもちろん竜宮城とは程遠いが、毎日仲間たちと働いたり、運動したり、テレビを見たり、風呂に入ったり、それなりに楽しかった。住み込みだから飯や金の心配をしなくていいのも助かった。
しかし。俺はいつからあそこで住み込みをしていたんだっけ。
ぼんやりと目を外に向けた視界に、真っ赤な花が見えた。靴下のまま庭に下りると、それは凪子が大事に育てていたダイコンソウの花だった。
赤。赤。赤。赤。赤。
その血のような、ほとんどどす黒いまでの赤が記憶の中で何かに結びつこうとしていた。
結婚してからたった一度だけ、凪子とケンカしたことがあったな。あれは……そうだ、凪子が久しぶりに友達とお茶を飲むと言って出かけたときのことだ。夕飯までには帰るはずだったのが、人身事故で電車が遅れ、ずいぶん帰宅が遅れた。うちに連絡しようにも当時、凪子はまだ携帯電話を持っていなかったから、「途中で公衆電話が見つからなかった」と言った。凪子は何度も何度も遅れたことをあやまって、あわてて夕飯の支度にかかった。俺は腹をすかせたままイライラしながら、台所で凪子が食事の支度をするそばで、同じ小言を何度も何度も、しつこく繰り返した。夕飯までには帰ると言っただろう、なんでこんなに遅くなったんだ、なんで連絡してこないんだ、だいたい友達って誰なんだ、いったいどこまで行けばこんなに遅くなるんだ……とにかく無性に腹が立って腹が立って、どうにもおさまらなかった。そのとき、黙ってせっせと野菜をきざんでいた凪子がぽつりと言った。「子供じゃないんだから、コンビニもそば屋の出前もあるでしょう」
その言い方がまたなぜかどうしても許せなくて、俺はすぐそばの椅子の背にかけてあった杖を持って……待てよ、なんであんなところに杖が……。あれは曾祖父さんの形見とかで、黒檀製のたいそう重い杖だった。持ち手というのか握るところに龍が彫ってある、立派なものだった。曾祖父さんは辰年の生まれで、身の回りのものは茶碗からなにからすべて龍のものだったらしい。俺は足が弱いわけじゃないから普段は使っていなかったが、そうだ、たまたま持ち手がぐらぐらになっているのを見つけて、修理に出そうと思って台所に置いてあったんだ。俺は腹が立って、思わずあの杖を振り上げて……杖を振り上げたあと、どうしたんだっけ。
「そこで何をしているんです?」
玄間のほうからいきなり話しかけられ、驚いた。
なんだ、おまわりさんじゃないか。俺は近所の人らと、登下校の子供たちを見守るボランティア隊を結成していたから、近所の交番にはわりと顔が利くぞ。いざとなれば日野宮巡査部長の名前を出して……。
「何を、しているんですか?」
門扉を通って庭のほうに近づいてきたおまわりさんがもう一度、明らかに咎め立てする口調で訊いてくる。
「ああ、ちょうどいいところに、おまわりさん、たいへんなんです、泥棒が入ったみたいで、あの、家内が留守にしておりまして……その……」
「泥棒? この家はもう十年近く、誰も住んでないはずですが。なにか、身分を証明するものはありますか?」
そんなはずはない、そんな、心の中に抗議や憤懣やありとあらゆる感情がいっぱいに噴き出してきたのに、うまく言葉が出ない。
「じゅ、十年? そんなバカな、いや、だってここは俺の家だ……のはずだ。ひ、日野宮巡査部長に聞いてくれ、ほら、そこの交番の、ひの……あれ、えっと、にのみやだったかな、と、とにかく巡査部長の」
さっきまで確かに知っていたはずの巡査部長の名前が急に定かではなくなり、さらに気持ちがあせる。
「私が知る限り、そのような者はおりません。ちょっと話を聞かせてもらえますか、交番まで一緒に来てください」
そう言われて左腕の肘の上をぐっとつかまれた途端、俺の中でなにかが切れた。年寄りだからってバカにしやがって、俺たちの税金で食ってるおまわりごときが。
「何言ってるんだ、あんたたちが家に帰れって言うから帰ってきたんだろ、住み込みで楽しくやってたのにさ、それで帰ってきたら交番に来いって、なんで交番なんかに行かなきゃいけないんだよ、ここは俺んちなんだから、おい離せよ、やめろ、触るな!」
猛然と両腕を振り回して抵抗した。手がおまわりの頭や顔や胸や、ところ構わずばちばちと当たった。が、思ったほどの効果はないようだった。
「おとなしくしろ!」
おまわりは俺を一喝するとゆるい大外刈りをかける。膝から崩れるように尻もちをつかされ、後ろ手にされて上体を前に押されると、もう微塵も動けなかった。情けない。けど動けない。手錠はかけられなかったが、靴もはかずにすごすごとおまわりに連れて行かれるままになるしかなかった。
交番でお茶を出されて、やっとのどの渇きがうるおい、一息ついた。そして考えた。だいたい、なんで交番に来たんだっけ。
「えー、茄田早喜男、六十五歳……あ? 七十四歳ですか?……はい、二日前に出所……え、認知症? 服役理由も覚えていない……はあ……いえ、所持品は自宅の鍵のみで、財布、書類などはありません。どこかで転倒したのか、なんらかの事件、あるいはトラブルに巻き込まれたのかわかりませんが、着衣が泥まみれでして、いったいどうやってここまで帰ってきたのか……」
凪子、いったいどこに行ったんだ……血のように赤いダイコンソウの花が咲いたら、一緒になろうって約束したね、昔々のことだけど。あんなプロポーズしかできなくて、いつも凪子が喜ぶようなこと言ってやれなくて、素直に気持ちを伝えられなくて、ごめんな……そうだ、電話が終わったら、おまわりさんに凪子を探してもらおう。これからもずっとずっと、一緒にいような、凪子。