パンデモニウム
「汝の最も手近にある義務を果たせ」というのはトマス・カーライルの言葉ですが、ザラトゥストラの歴史上にも、そういうことを言った偉人がいたということです。真理とはそういうものだと思います。
グレナリオ山脈頂上に、突如として出現した存在するはずのない古城、その噂をオーデンセの冒険者ギルドで聞いた時から、それは伝説の万魔殿ではないか、というのがアルフォンスたちの考えであった。
その考えを聞いたグィードとヒューゴも、その可能性は充分にあると同意した。
なにしろ彼らは、同じく伝説の存在である偉大なるネズミの王に遭遇したのであるから。
また、最近出現し出した、軍隊のように武装を整え、統率の取れた魔物たちは、同じく伝説のコボルトの王の復活の兆しではないか、あるいはすでに、どこかに復活しているのかも知れないと、一行は考えていた。
ただそのことは、人鬼たちには伏せていた。
レーナにも、敢えて話してはいない。
確定していないことで不安を煽っても、良いことはなにもないことを、一行は皆、知っていたからである。
しかし、先程の魔物との接触で、山頂に魔物の巣窟があることは、ほぼ確定したと言ってよい。
山頂への道を歩きながら、グィードがおもむろに口を開いた。
「なあアルフォンス、レーナとスオウには、そろそろすべてのことを話しておいた方が良いんじゃないかと、俺は思うんだが」
「ええ、そうですね。俺も今、そう考えていたところです」
二人の会話を聞きながら、レーナが不安に顔を曇らせる。
スオウは、いったいなんの話かと訝しみながらも、それほど気にしている様子はない。
それからアルフォンスは、レーナとスオウに、かつて一行が偉大なるネズミの王と遭遇したことがあること、そして、これから向かう山頂には、伝説の魔城、万魔殿があるのではないかと予想していることを語った。
レーナは、これまでの断片的な情報から、魔王の復活の兆しがあるのではないかと、薄々感じてはいた。
しかし、やはり伝説の中の存在である偉大なるネズミの王が実在するという事実と、それが、自分も巻き込まれた誘拐事件と関係のあったことだという事実に、動揺を隠せなかった。
しかし、スオウの反応は一行の予想を大きく裏切るものであった。
「魔王が復活するのか?そんなら是非、一度戦って見たいもんだなぁ」
スオウは笑いながら、そう言ったのである。
それが人鬼に共通する剛毅さであるのか、スオウ独特の感覚であるのかは、一行には解らなかった。
いずれにせよ、これで一行の認識は統一され、覚悟は決まった。
レーナは歩きながら、祈っているようであった。
やがて一行の目に、黒い霧に包まれた古城の影らしきものが見えてきた。
それを見た一行の心にも、恐れと不安の黒い霧が侵食してくるような、不気味な眺めであった。
「伝説によれば、万魔殿は昼間でも黒い霧に包まれ、その姿がはっきりとは見えなかったと言われています」
そうディオゲネスが告げた。
「じゃあ、あの中に偉大なるネズミの王と、もしかしたらコボルトの王もいるかもしれんなぁ」
グィードが、緊張した面持ちで応じた。
流石のグィードにも、いつもの余裕の表情はなかった。
昨夜の襲撃の凄まじさを、思い出していたのだ。
もしあの場に、クレナイとグレンがいなければ、どうなっていたことだろうかと想像していた。
グィード自身は、どのような状況においても、生き残る自信があった。
問題は、仲間たちを、何よりも愛する一人息子であるヒューゴと、ダーグとアーデラから託されたレーナを、果たして自分は守り切れただろうか、ということであった。
正直に言えば、今の自分では、それはできなかっただろうと、グィードは判断した。
もっと力が必要だ。
かつて、死の天使と呼ばれた全盛期の力、それ以上の力が必要だと、グィードは考えていた。
その時、黒猫の姿でレーナの荷物袋から顔を出していたウァサゴは、ヒューゴに与えられた自らの加護、名も無き英雄たちの力が、グィードに向けて大きく流れ出るのを感じていた。
その時であった、一行の頭の中に直接語り掛ける、あの不気味な声が聞こえたのであった。
「我は偉大なる魔王様の道を備える者、下等な人間どもよ、跪け」
レーナとスオウにも、その声は聞こえているようであった。
しかし一行には、偉大なるネズミの王の姿は見えなかった。
「人間どもよ。昨夜はよくぞ生き残ったものよ。また、いつぞやは、よくぞ我を出し抜いてくれたものじゃ。だが人間たちよ。おまえたちはこれから、昨夜あのまま死んでいれば良かったと、心から後悔することになるだろう。この偉大なるネズミの王の計画を邪魔した報いは、必ず受けて貰うぞ」
一行は黙って、その言葉を聞いている。
「おまえたちは、この城、万魔殿を調べに来たのであろう。門は開けてある。入ってくるがよい。おまえたちのために、特別なもてなしを用意して、待っているぞ」
頭の中に響く声が完全に消えても、一行は、暫く動き出すことができなかった。
「みんな、行こう!」
最初に立ち直って、口を開いたのはヒューゴだった。
「ああ、そうだな。なにも魔王本人がよみがえったって訳じゃない」
グィードが同意した。
「それにな、今思いついたんだが、このまま俺たちが偉大なるネズミの王の野郎を倒しちまえば、もしかしたら、魔王の復活を阻止できるんじゃないのか?」
それを聞いて、ディオゲネスは答えた。
「伝説では、偉大なるネズミの王は魔王復活後、英雄王アルバートによって滅ぼされたことになっています。いったいどのようにして、魔王が復活したのかはわかりませんが、偉大なるネズミの王の目的が魔王の復活にあるとすれば、その可能性はあります」
「そうか。どちらにしろ、今の俺たちにできることは一つしかない。あの嫌らしいネズミ野郎をぶっ飛ばして、人間様に牙を剥いたことを、後悔させてやろうぜ」
グィードは、いつもの調子を取り戻していた。
そうなのだ、いつでも自分は、考えるよりも、まず行動することを選んできたのだ。
遠い先のことは解らなくても、今目の前にいる者を守ることはできる。
「汝の最も手近にある義務を果たせ」と言ったのは誰であったか?
俺の義務は、ヒューゴとレーナを守ることだ。
昨夜の襲撃が、偉大なるネズミの王の差し金であることがはっきりとした以上、彼奴を滅ぼさなければ、平安は望めない。
なんとしても、偉大なるネズミの王は滅ぼさなければならない。
グィードの決心は固まった。
「なあアルフォンス、ディオゲネス、アーシェラ。前に俺は、おまえたちのことは俺が守ってやると言ったが、それはおまえたちを見くびっていた。赦してくれ。おまえたちは、俺の助けなどなくても、自分の身は、充分自分で守れる実力があることを、今は俺も理解している。だからその上で、おまえたちに頼みたいことがある。これからは、俺のことを、おまえたちが助けてくれ。俺はなんとしても、ヒューゴとレーナを守らなくちゃならない。それにはおまえたちの助けが、どうしても必要だ。頼む!」
グィードは真剣に、頭を下げた。
三人は、グィードの突然の申し出に一瞬驚いたが、すぐに冷静さを取り戻し、互いに顔を見合わせて頷いた。
アルフォンスが、代表して答える。
「グィード、頭を上げてください。俺たちは、最初からそのつもりですよ。でも、あなたに実力を認めて貰えたことは、冒険者としての俺たちの誇りです。グィードの評価に恥じないように、これからはますます精進することにします。なにしろ俺たちは、未来の偉大な英雄のパーティーですから」
そう言って、アルフォンスは悪戯っぽく、ヒューゴに目を向けた。
ヒューゴは、照れ臭そうに笑う。
レーナもヒューゴの顔を見ながら、笑っていた。
スオウは、一行のその様子を、不思議なものを見るように眺めていた。
そうか、これが冒険者のパーティーというものなのかと、スオウは考えていた。
彼らは、互いに自分の限界を認めている。
だからこそ、仲間と一緒に冒険をするのだ。
スオウは、自分の限界を認めない。
自分の限界を認めることは、自分の弱さを認めることであり、スオウにとって、自分の弱さを認めることは恥なのだ。
自分よりも強い者がいることは、知っている。
しかし、いつかは自分の方が強くなることができると、スオウは本気で考えていた。
そのために、鍛練をするのだ。
クレナイとグレンは、確かに強い。
だが、自分も同じ人鬼である以上、追い付くことができないとは、思っていなかった。
必要なのは時間だけだと、スオウは考えていた。
「スオウ。ここに万魔殿があることは、はっきりとした。山頂の調査という意味では、それだけで充分だ。おまえは里に帰って、このことをクレナイたちに報告すればいい。無理に俺たちに付き合って、万魔殿の中にまで行く必要は無いが、どうする?」
グィードがスオウに、そう尋ねた。
「そうだなぁ。だけどこのまま帰ると、なんだか親父に怒られそうな気がするんだ。だからもう少し、グィードたちと一緒に行こうと思うんだが、構わないか?」
「もちろん、こちらとしてはその方が助かる」
グィードが、素直に認めた。
「そうか、俺がいると助かるか」
スオウは笑いながら、確認した。
クレナイとグレンなら、絶対に言わないセリフだなと、スオウは考えていた。
クレナイとグレンには、自分の助けなど必要ないことを、スオウは知っていた。
そして、人から必要とされるのも、悪い気はしないものだと考え、一人でまた、静かに笑った。




