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その日、私は王国騎士団の訓練場を訪れた。なんとなく外の空気が吸いたくて、ギュンターさんに頼まれていた薬を届けるついでに庭園の散歩でもしようと考えたからだ。
広々とした訓練場には、活気溢れる騎士たちの声と剣を交える金属音が響いていて、訓練着姿の騎士たちが奥のほうに人垣を作っていた。
ギュンターさんは新入りらしい若い騎士に剣の稽古を付けているようで、私は訓練場の片隅で、彼の稽古が終わるのをぼんやりと待った。
「そういえば、明日の夜会にはきみも呼ばれているんだよね?」
訓練を終えたギュンターさんが、タオルで汗を拭いながら言った。
明日は、夕刻からクラウスの誕生を祝う夜会が宮殿の大広間で開かれる。王太子である彼の誕生日には、毎年フィオラント国内のあちこちから爵位持ちの貴族が集まるのだけれど、今年は王太子の記念すべき(この国の王族は十八歳で成人として認められる)十八歳の誕生日ということもあって、宮廷の医師や薬師の面々も夜会に招待されていた。
そして、契約の魔女である母と国王陛下の親衛隊長を努める父を持つ私も。
「『も』……ということは、もしかしてギュンターさんも?」
「明日は無礼講だからね。勤続年数が長いものに限られてはいるけど、王国騎士団に所属する騎士も夜会に出られるんだ」
「じゃあ、会場でもお会いできるかもしれませんね」
「そうだね。もしよかったら……」
ギュンターさんが何か言いかけたとき、訓練所の向こう側から若い騎士が血相を変えて走ってくるのが見えた。
「何かあったのかな」
穏やかだったギュンターさんの表情が引き締まる。頷いて、私がぼんやりしていると、その若い騎士は真っ直ぐ私のほうに駆けてきた。
「よかった、まだ居た!」
私の顔を見てホッと息を吐き、彼は言った。
「ココちゃん、ごめん、殿下が怪我をしてしまって……一緒に来てもらえるかな」
どうやら人集りができていた訓練場の奥のほうではクラウスが剣の稽古をしていたようで、聞くところによると、彼は誤って怪我をしてしまったらしい。
誕生祝いの夜会を明日に控えているというのに軽率だな、なんて考えながら、私は騎士さんに連れられてクラウスの元に向かった。
クラウスは訓練場の片隅で手当てを受けている真っ最中だった。騎士さんと私に気が付くと、彼は露骨に嫌な顔をした。
「お待たせしました、殿下。ココちゃん、すぐに治癒魔法を」
「必要ない。ココラッテ、お前は退がれ」
冷たく突き放すように言われて、私は無性に腹が立った。
私だって来たくて来たわけじゃない。騎士さんに頼まれたから、ギュンターさんの手前ということもあって断れなかっただけだ。
そうだ、私は別に、心配なんて。
「目の前に怪我人がいるのに、放っておけるわけないじゃないですか」
クラウスの前に膝をついて、私は強引に彼の手を掴んだ。見ると、親指の付け根のあたりがざっくり刃物で切れていた。
すぐに止血をしたからか出血は少なく、そこまで酷い傷ではなかったけれど、包帯を巻いていては手袋を着けることができないし、国外からも賓客が訪れる夜会にこのまま出てはクラウスが恥をかく。
傷を貰うのは久しぶりだから、ちょっぴり痛いかもしれない。
私はほんの少し躊躇って、それからクラウスの傷に触れた。久しぶりの彼の体温が懐かしい。
クラウスはやたらと抵抗していたけれど、鍛え抜かれた騎士たちに押さえ付けられては逃げ出すこともできなかったようで、私は無事にクラウスの傷を癒すことができた。
よかった。そんなに痛くない。
「相変わらずそそっかしいんですね」
私が笑うと、クラウスはぷいと顔を背けて、そのまま押し黙ってしまった。
貰い受けた傷からじくじくと血が滲むのがわかる。久しぶりの痛みを懐かしく思いながら、私は急いでその場を離れた。
別れ際目にしたクラウスは、酷く不機嫌な、傷付いたような表情をしていた。
*
クラウスの誕生日を祝う誕生祭の夜、王宮では予定どおりに盛大に夜会が開かれた。
十六歳のお祝いに王妃様に頂いたドレスを着て、私は生まれて初めて夜会会場のフロアに立った。
王妃様が選んでくださった黄檗色のドレスには、母譲りの薔薇色の髪が良く映える、と我ながら思う。背中や肩が大きく露出していてちょっぴり心許ないわりに、腕はレースの長手袋で肘まで隠されているのが、なんとも不思議で興味深い。
きっと今夜の私は貴族令嬢を名乗っても違和感のない姿をしている。そうでないと困る。
ほんの少し浮かれた気分で、私はホールを見渡した。
壇上では国王陛下と王妃様が仲睦まじく笑い、宮廷の楽師たちが奏でる心地よい音楽に耳を澄ませている。ホールに降り立ったクラウスはお綺麗なご令嬢に囲まれて、華やかな笑顔を咲かせていた。
ゆらゆらと揺蕩う人の波の向こう側に、ギュンターさんの灰がかった金髪がちらりと見えた気がして。一人前に着飾った自分の姿を見てもらおうと、私が人波に分け入ったときだった。
唐突に視界が覆われて、掴まれた腕ごと身体が後方に引かれた。
美しい音色が遠ざかる。足で踏ん張ることができなくて、私は抵抗することもままならないまま、ホールから連れ出された。
視界はすぐに晴れた。私は後ろ向きのまま、引きずられるように人気のない宮殿の廊下を歩かされていた。点々と灯る燭台の明かりが次々に遠ざかっていく。
「は……はなして!」
私は身を捩り、先程から私の腕を引くその人に目を向けた。父親譲りの胡桃色の髪をぴったりと撫で付けた彼は、いつもよりも随分と大人びて見える。
「ねぇ、クラウス……ねぇってば!」
私が必死に呼びかけると、彼はちらりと私に目を向けて、それからやっと足を止めた。掴まれていた腕がじんじんと痺れていて、私は腕をさすりながらあたりを見回した。
いつのまにか、私たちはすっかり夜会会場を離れ、宮殿の二階——王族の居住フロアにいた。滅多なことでは立ち入ることのできないその空間は、床も壁も天井も、ずらりと並ぶ調度品も、私のような一庶民にはあまりにも不似合いで。自分が今、相当に場違いな場所にいることを、まざまざと感じさせられた。
おどおどと落ち着かない私の手を取って、クラウスはまた、黙って廊下を歩き出した。やがて廊下の先に見覚えのある扉が現れると、彼は躊躇いなく扉をあけて、私を部屋の中に押し込んだ。