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 十歳にも満たない子供の頃に交わした約束なんて、覚えている人のほうが稀なのだと思う。忙しく充実した毎日を送っている人間であれば、尚更だ。

 だから、たいして取り柄のない私が立派な魔女になろうと日々努力を重ねているのは、私の母がこの国の——フィオラント王国の国王陛下と契約を結んだ『契約の魔女』だから、という単純明快な理由があってのことで、幼い頃に()と交わした約束なんて欠片も関係ない。


 *


 バーナーの火にかけたフラスコの中で、透きとおった緑色の薬液がこぽこぽと音をたてはじめた。あらかじめ粉末状にすり潰しておいたアニシアの葉に、沸騰した薬液をピペットで一滴ずつ加えていく。とろりとしたペースト状になるまで根気よく混ぜ合わせれば、母直伝の特製傷薬の出来上がりだ。

 完成した傷薬を小瓶に詰めて、私は窓辺を振り返った。

 白いレースのカーテンが揺れる出窓の側で、ギュンターさんは黙って外を眺めていた。灰がかった金色の髪が微かな風に揺れて、少し長めの前髪の陰に空色の瞳がちらりとのぞく。均整の取れた筋肉質な身体に騎士装束を纏う彼は、フィオラント王国騎士団第二隊隊長を任されている実力者であり、王宮で働く女性たちの憧れの的でもある存在だ。


「お待たせしました、ギュンターさん」

 私が窓辺に歩み寄り、薬の小瓶を差し出すと、ギュンターさんは軽く頭を下げて、それから爽やかに微笑んだ。

「いつもありがとう。助かるよ」

「いいえ。毎日お勤め、ご苦労様です」

 私も軽く頭を下げて、にっこりと笑ってみせる。薬の小瓶を受け取ると、ギュンターさんはひらひらと手を振りながら私の部屋を出ていった。私は扉の前に立ち、これから新たな任務に就くという彼の背中を見送った。


 フィオラント王国の人々の暮らしは、昔から魔獣と呼ばれる凶暴な獣に脅かされてきた。魔獣は通常、彼らの縄張りである森や山奥に潜んでいるものの、時折り人里に降りてきては、畑を荒らし、家畜を襲う。王都から離れた村や集落で暮らす人々にとってはそれだけでも充分に恐ろしいものなのに、繁殖期には群れを成して人間の女を攫ったりもするらしい。

 そういった魔獣の脅威から人々を守るのが、ギュンターさん達——フィオラント王国騎士団であり、私は少しでも彼らの役に立てるように、母に教わった調薬で彼らの後方支援をしている……つもりだ。

 ——本当に、少しでも役に立てていればいいのだけど。

 ギュンターさんの後ろ姿が曲がり角の向こうに消えるのを見届けて、私は部屋に戻り、作業台の上を片付けはじめた。調薬に使う器具の多くは陶器や硝子製で、とてもデリケートなものばかりだ。器の端が欠けないように、慎重に丁寧に調薬器具を片付けていると、ややあって窓辺でこつんと音がした。小石が窓硝子にぶつかる音だ。

 私の部屋は中庭に面した王宮の一階の片隅にある。王宮で暮らす大勢の人々の中で、わざわざ中庭側から私を呼びつけるような真似をする人物を、私は一人しか知らない。洗いかけの調薬器具を流しに置いて、私は窓辺に向かい、白いレースのカーテンを開け放った。

 思ったとおり。

 橄欖石によく似た緑色の瞳をしたその人は、窓辺から少し離れた場所に立ち、右手を軽く振り被ったところだった。私が錠を外し、窓を開けると、彼はいつもと同じように窓枠を踏み越えて私の部屋に入ってきた。小石を外に投げ捨てて、酷く不機嫌な仏頂面で私をじろりと睨みつける。

「傷薬をよこせ」

 不遜な態度でそう言って、右手のひらを突き出した。

「はい、今すぐに……と言いたいところですけど、まずは傷を見せてください。症状に合わせて薬をお出ししますので」

 つんと澄まして事務的な言葉を口にすると、私は彼の手を取った。

 片翼の鷹の紋章が両袖と左の胸元に刻まれた上等な服は、フィオラントの王族だけが身に纏う神聖なものだ。その袖口から肘に至る部分が、砂にまみれて擦り切れている。強引に袖を捲り上げてみると、思ったとおり、肘にかすり傷があった。

「転んだんですか?」

「どうでもいいだろ」

「魔法で治しましょうか?」

 そう言って彼の表情を窺うと、彼は露骨に眉を顰めて私をキッと睨みつけた。


 私——ココラッテ・アインベルクは、現国王の契約の魔女である母に師事する魔女見習いだ。普段はまじないや調薬を専門に扱っているけれど、それとは別に、傷を癒す魔法のちからをこの身に宿す——そういうことになっている。

 本当は、癒しの魔法なんて使えない。私の身体に備わっているのは、そんな奇跡のようなちからじゃない。他人の傷を自分の身体に貰い受けるだけの、対して役にも立たないつまらないちからだ。けれども幼い頃、私は彼の——クラウス・フィンク・フィオラントの契約の魔女になりたくて、癒しの魔法が使えるという大きな嘘をついたのだ。

 傷を貰い受ける方法は簡単なものだ。相手の傷に手で触れる、それだけでいい。

 軽く擦りむいた彼の肘に、私はそっと手をかざす。瞬間、ぱしんと音がして、同時に手の甲がじんと痺れた。

「やめろ! 触るな!」

 怒りをあらわにそう告げると、クラウスは素早く窓枠に足を掛けて、中庭に飛び出した。

「えっ?! 待って、傷薬は……?」

「いらない! こんなもん、唾つけときゃ治る」

 ぶっきらぼうに言い捨てて、彼はあっという間に向かいの渡り廊下に姿を消した。

 私は呆然と窓辺に立って、じんと痺れる手の甲をさすり続けた。


 クラウスはつくづく王子らしくないひとだ。言葉遣いも身の振り方も、やんちゃな男の子そのものだ。国王陛下の親衛隊長である父の話によれば、公の場では猫をかぶって王太子らしく振舞っているようだけど、こんな調子ではいつボロを出してもおかしくないのではと心配になってしまう。

 昔はもっとおおらかで愛想が良くて、お伽話に出てくる王子様みたいだったのに。私にだって、もっと優しくしてくれたのに。

 こんなふうに突き放すような態度をとるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。



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