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最後の酔っぱらい

作者: 阿部千代

 夜も更け、耳をすませばそこら中からいびきが聞こえてきそうな静かな街に、この街唯一の酔っぱらいがやってきた。

 酔っぱらいは、もつれる足と強烈な頭痛を持て余しながら、街の最深部に位置する自宅のベッドにさっさと潜り込もうと道路や電信柱、それにちょっとした段差と孤独な戦いを続けていた。

「あなたとっても辛そうにしているのね。今すぐここでお休みになったらどう? 後のことはそれから考えればいいじゃない」

 道路はそう言って、酔っぱらいを誘惑し続けている。確かに道路の言うことは魅力的な提案だった。酔っぱらいは今すぐにでも横になりたかったのだ。彼の脳みそが再三にわたって休憩を要求してくる。ほとんど悲鳴に近いその要求をなだめてすかして、一歩一歩着実に前に進もうとしているのだが、頼りの両脚が言うことを聞いてくれない。右に左にあっちにふらふらこっちにふらふら、あまつさえ後ろに戻ることすら頻繁にあるのだから始末におえない。

「意地張っちゃって。らしくないんだから! その火照った身体であたしを抱き寄せてよ。あたしってばひんやりしていて、とっても気持ちいいのよ」

 知っている。酔っぱらいが道路と寝たのは一度や二度のことではない。アスファルトの上で眠る心地よさを酔っぱらいは熟知している。しかし、ここが我慢のしどころだということも知っている。空が白んできた頃に唐突な目覚めを迎えて、芯まで冷え切ってあちこち痛む身体を震わせながらのそのそと起き上がる惨めさや、おせっかいな通行人に無理矢理に起こされる腹立たしさ、暇でしょうがないおまわりにちょっかいをかけられるわずらわしさ(自分の感情に正直な対応をするとパトカーに乗せられるときた!)を知っている者が、道路の誘惑に易々と屈したりするだろうか? 人懐こい野良猫でさえ一度ひどい目に合わされた腕白には決して近づかないというのに?

「あいにくだけど、犬のクソと添い寝はごめんだね。特別に寝心地がいいってわけじゃないが、それでもおれは自分のベッドで眠るのが一番好きなんだ。別れた女房はおれから全部を持ってっちまったけど、あのベッドだけは残していってくれたんだぜ。上等じゃないか! よくできた女だ! くたばっちまえ!……でもよ、あいつを悪く言わないでやってくれ。我慢強い女なんだ。ひたすら我慢して、人生すなわち辛抱辛抱、実際の話あんなに我慢強い女はいなかったね。……いたさ! 女なんて腐るほどな! おれはこう見えて、もてるんだよ。女の気持ちがわかるからね、おれは。あっ、いまこの女おれとヨロシクやりたがってるなってわかっちゃうんだよね。そういう時は、もうグイグイいくからね、おれは。みんなおれのことを愛してるって言ってたよ……愛してる愛してるって……嫌になるくらいによ! じゃあ、聞きますけどね、尋ねさせてもらいますけどね、なんだっておれはいま一人ぼっちなんですか? なんで、こんなに寂しい気持ちにならなきゃいけないんですか? 心底うんざりしてた愛してるを、なあ、あ、い、し、て、る、だってよ? くだらねえな! くだらねえんだけどよ! クソ! 誰かおれをわかってくれないかな!」

 そこまで言って酔っぱらいは黙り込み、喉元に突如こみあげた感情を必死で押しとどめた。顔を歪めながら、ゲロだか涙だか知らないが自由を求めて外に飛び出そうとするものを無理矢理しまいこんで、そのかわりに盛大に唾を吐いた。酔っぱらいの口から射出された大量の唾は、直線と見紛う曲線を夜に描いて電柱の丁度足の付け根にひっついた。

 電柱は無感動なたちで、滅多なことで怒りを見せるようなやつではなかったがこの時ばかりは違っていて、すかさず酔っぱらいの顔面に頭突きを食らわせた。とは言っても、ごく軽めにだったので、酔っぱらいは一瞬くらっときただけで済んだ。もし、電柱が全力で酔っぱらいに頭突きを食らわせていたら、酔っぱらいの顔面はひしゃげて鼻はもちろん前歯も全部もっていかれただろう。

 頭突きの衝撃で酔っぱらいは二、三歩よろよろと後退した。そこにちょっとした段差があった。いたずら小僧のちょっとした段差は大喜びで酔っぱらいの足を絡めとったので、バランスを崩した酔っぱらいは重力に逆らうこと叶わず、ひえっと情けない声をあげて無様な尻もちをついた。

 道路はくすくす笑った。控えめながら残酷な笑い。

 電柱もぐふぐふ笑った。こもってはいるけれど残酷な笑い。

 ちょっとした段差は大爆笑。無邪気に残酷な笑い。

 酔っぱらいは呆然としていた。咄嗟に身体を庇った右手とアスファルトに叩きつけた尻、その他細かいあちこちに焼けつくような痛みが押し寄せるが、何もかもがどこか遠くの出来事のよう。遥か彼方の未来、あるいは過去、地球から何億万光年も離れた惑星ドラハッパーの人類居留地ネオハートグレイブスで生まれた少女シアンフロッコと先住体ブラララ=ララ//レカヒアラララとの聖魂的邂逅がやがて全宇宙を揺るがすナカネッツを巻き起こしたかのよう。

 そして風が吹いた。

 冷たく無慈悲な風だったが、真っ赤な顔の酔っぱらいには心地よい風だった。全てを吹き飛ばすような強い風ではなかったが、軟弱になりかけていた酔っぱらいの精神に一撃を食らわすには充分な風だった。立ち上がれ。どこかから声がした。あるいは酔っぱらい自身がそう言ったのかもしれない。

「いいざまね。あなたって本当に終わってる」

 道路が歪んだ笑いをにじませて言った。

「そのとおり。全て終わったんだ。やり直せるはずがないし、やり直すつもりもないぜ」

 まだおさまる気配を微塵も見せない痛みを飼い慣らしながら酔っぱらいは言った。

「だったらここで永遠に寝転んでなさいよ。全てを諦めたあなたにはお似合いの末路じゃないこと?」

「諦めたわけじゃない。捨ててやったんだ。例えばこんな風に」

 膝にありったけのエネルギーを注入して力強く立ち上がった酔っぱらいは、上着のポケットから一掴みの紙幣を取り出し、そしてそいつを手放した。

 木の葉のようにぴらぴらと(実際のところそいつは殆どの場合において木の葉と大した違いはないのだ)風に翻弄されながら、紙幣たちは酔っぱらいの周りに音もなく着地した。

「全部あげるよ」

 そう言って酔っぱらいは歩き出した。今来た道を逆に。相変わらず足元はおぼつかないままで。

「いらない。あたしには必要ないもの」

「ならそのままにしておきな。明るくなったら誰かが勝手に拾うだろうよ」

「そうかしら。どんな裏があるかわからないのに、そんな見え見えの易い手に乗っかると思う?」

「拾う。拾うよ。俺ならきっと拾うだろうな」

 街道に出た酔っぱらいは、ちょうど通りかかったタクシーを止めると滑るように乗り込んだ。

「どちらまで?」

 油断ならない目つきでバックミラーを覗きながら運転手が言った。

「惑星ドラハッパーまで」

「そいつがたちの悪い冗談じゃなけりゃ、夢のような大仕事なんですがね旦那。途方もなく遠いですよ? わしの言ってる意味わかりますかい?」

「金ならいくらでもあるんだ」

「いくらでも? そりゃ文字通りの意味で?」

「もちろん。俺はこの星最後の酔っぱらいにして最後の金持ちだぜ。着いた頃には全ての金はそっくりそのままお前さんに入るって寸法だ」

 酔っぱらいの言葉に、運転手は目を白黒させて驚いた。このような幸運があっていいのだろうか?

「何があったか知りませんが、もちろんわしには関係のないことだ。喜んで行かせてもらいますよ。実を言うと今夜は何か起こるような予感はしてたんですよ旦那。いや、実際に起こってたんです。何せわしは今夜一度も赤信号に捕まっていないんだから。わしは数字には詳しくないですがね、そいつが起こる確率が恐ろしく低いってことはわかるんだ」

「その調子で頼むよ」

「がってん承知」

「俺は眠るよ。着いたら起こしてくれ」

 酔っぱらいは座席に沈み込むように身体をずらして、深く目を閉じた。上着のポケットを探る。まだ何枚かの紙幣が残っていた。これだけあればこと足りるだろう。次に目を開けた時は惑星ドラハッパーだ。

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