3-2
少女から依頼されていた毛替えを終えて弓を瑞希に渡した後、店長は一時中断していた作業に戻った。
毛替えのために中断していたが、彼がそれまで行っていたのは、ヴァイオリンのリペアではなく製作の方だ。
勿論、ドルチェ弦楽器店の工房スペースは元々リペア用で大掛かりな機材を置く程の広さは無いため、一から十までこの場で楽器製作を行うことは出来ないのだが、細かい調整部分であれば十分出来る。
店長はメンテの依頼が無い時はそういった作業を持ちこんで、工房スペースで行うことを常としていた。
「………………」
作業中、店長は基本的に言葉を発しない。
彼は真剣な表情で手元のまだ組み上げ途中のヴァイオリン本体を眺め、調整を行っていた。
「………………」
丁度お客さんが居ない時間だったこともあり、瑞希はそんな店長の表情を横から眺めるのだった。
♪ ♪ ♪
ドルチェ弦楽器店の店長は白川=セルヴァ=誠也という名前からも分かる通り、イタリア人と日本人のダブルだ。
日本人離れした赤茶色の髪と顔立ちからも、それは見て取れる。
アルバイトを始めてから瑞希が聞き出したところによると、父親の方がイタリア人で、子供の頃は向こうに住んでいたという話だ。数年前に両親が離婚し、彼は母親に引き取られる形で実家がある日本に帰化することになったと聞いていた。
父親が弦楽器の職人だった影響で子供の頃から教えを受けていた彼はその道に進むことを目指し、帰化後に改めてイタリアに留学して弦楽器製作を専門に学んだ。
その後、帰国した後に母親の実家の支援を受けてこのお店を始めたのだ。
「それにしても、いきなりお店を始めるって随分と思い切りましたね。
大丈夫だったんですか?」
「いえ、軌道に乗るまではかなり大変でしたよ」
閉店後に二人で少し雑談した時、ひょんなことからお店を開いた時の話題になった。
瑞希が気になっていたことを尋ねると、店長は苦笑しながら頬を掻く。
「会計とか税金とかも詳しく知らなかったので、一から勉強する必要がありましたしね。
それに、最初のうちはお客さんもあまり来ませんでしたから赤字続きで困り果てました」
「このお店、初見のお客さんが来難い立地ですからねぇ」
お店は駅から徒歩五分とそれだけ聞けば非常に良い立地に聞こえるのだが、何分裏路地のような場所にあるために新しいお客さんが入り難い。
勿論、それは当時も今も何も変わっていないわけだが。
「それでもポツリポツリと新しいお客さんが少しずつ来るようになってはくれたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。というか、そもそも瑞希さんもその一人でしょう?」
「……あ、そうでした」
店長の言う通り、瑞希も最初は偶々目に付いたお店に入ってみたのがアルバイトの切っ掛けだった。
そういう意味では、立地が悪くても来てくれた新しいお客さんの一人と言うことも出来るだろう。
尤も、彼女はこの店で結局まだ何も買っていないため、本当の意味でお客さんと言えるかは怪しいところだ。
「そう言えば前から聞きたかったんですけど、店長はどうしてアルバイトを募集してたんですか?
お店自体は一人でも大丈夫だったんですよね?」
瑞希がコーヒーカップに口を付けながら聞くと、店長が苦笑しながら答えた。
「何から何まで一人でやってると製作まで手が回りませんからね。
あの時はお店の運営だけで手一杯で、新しい楽器を製作する時間も碌に取れませんでした。
営業を終えてから夜遅くまで費やして何とか時間を割くような状態だったんですよ」
「つまり、私を雇ったのは製作の方に時間を割きたいからってことですか?」
「まぁ、端的に言ってしまうとそうなりますね。
元々このお店を始めた理由は、自分が作った楽器を沢山の人に弾いてもらうためですから。
お店の方ばかりで新しい楽器を作る時間が取れないというのは、私にとっては本末転倒なんです」
瑞希はそれを聞くと、口元に人差し指を当てて宙空を見上げながら考え込んだ。
ドルチェ弦楽器店の売り上げは大半が弦などの小物の販売、次に弓の毛替えなどのリペア、最後に楽器本体の販売という順になる。
元々楽器というのはそう頻繁に売れるものではない。お店を訪れる大半のお客さんは既に自分の楽器を所持しているし、そんなに小まめに買い替えるようなものでもないからだ。そのため、楽器本体が売れることは滅多にない。
「楽器本体の販売をメインにしたいということですか。
それは、先が長そうですね……」
「ま、まぁ、何も今すぐにとは流石に言いませんよ」
お店の売り上げ状況を頭に思い浮かべた瑞希の遠い方を見る仕草に、店長も彼女が何を言いたいのか察したらしく苦笑を浮かべた。
実際、現在の売り上げに対する比率を見る限りでは、楽器本体の販売をメインに据えるのは相当厳しそうなのだから仕方ない。
でも……と続ける店長の声に、不思議な暖かさを感じて瑞希は思わず彼の顔を真っ直ぐに見詰めた。
「今の常連さん達のお子さんとかが楽器を始める時に、うちのお店で買ってくれたら素敵だと思いませんか?」
いつに無く熱く語るような店長の言葉に、それは確かに素敵な話だと瑞希は深く頷くのだった。
♪ ♪ ♪
「こんなところですね」
店長と交わした過去のやり取りに思いを馳せていた瑞希は、その言葉にハッと我に返った。
聞こえてきた方向へと顔を向けると、店長が自らの肩を叩きながら製作していた楽器本体を器具から取り外しているところだった。
勿論、完成したわけではない。製作過程の一工程が終わったに過ぎず、未だ楽器の形を成してはいない状態だ。
しかし、彼は今日はここまでとするつもりのようだった。
ふと時計を見ると、いつの間にか閉店時間が迫っていた。
おそらくはそれもあって、店長は作業を切り上げることにしたのだろう。
「瑞希さん、そろそろ閉店にしましょう。
それと、この後試奏をするつもりなのですが、聴いていきますか?」
「あ、はい。
是非お願いします」
試奏と言えば通常はお客さんが楽器を選ぶために試しに弾くことを指すが、ここで店長が言っているのはそうではなく、新しく作った楽器を試し弾きすることを意図している。
当然、今日作っていた楽器はまだ弾けるような状態ではないため、一つ前に作ってニス塗りのために持ち帰って仕上げをしていた分の楽器の試し弾きだ。
ここで試しに演奏してみて問題がなければ、その楽器はそのまま商品の陳列棚に並ぶことになる。
ヴァイオリンを一台製作するためには最短でも数ヶ月掛かるため、瑞希が試奏に立ち会うのはまだ二回目だ。
ちょっとした役得である。
入口のプレートを裏返して「CLOSE」にした瑞希は、カウンターに置かれている椅子を持って工房スペースの一角まで運ぶと、そこに座った。
「さて、それでは……」
工房スペースの端に立て掛けていたケースから真新しい楽器を取り出すと、店長は左肩にそっと載せた。
目を閉じて静かにヴァイオリンを奏で始める彼の姿を目に焼き付けると、瑞希も目を閉じて演奏に聴き入る。
音量はそれほど大きく無いにも関わらず、その音はよく響き渡った。曇りの少ない、澄んだ色合いの仕上がりだ。
五分程の演奏を終え、店長は楽器を下ろすとたった一人の観客にぺこりと一礼する。
瑞希は、そんな彼に拍手を送った。
「悪くない感じですね」
「ええ、とても綺麗な音でしたよ」
「ありがとうございます。それでは、棚に並べておきますね」
「はい」
二人きりの演奏会を終え、瑞希は掃除を始めた。