3-1
「いらっしゃいませ」
カランコロンと鳴る音に、瑞希は入口の方へと視線を向けながら挨拶を告げた。
お店に入ってきたのは、瑞希と同じか少し上くらいの黒髪をセミロングに伸ばした少女だ。
彼女は右肩に赤いヴァイオリンのケースを背負っていた。
(リペアかな?)
楽器を持って来ている様子から、瑞希はそう推測する。
勿論、それだけでは単にレッスンの前後等の可能性もあるため絶対ではないのだが、果たしてその少女は、周囲の棚などではなくカウンターの方へと歩み寄ってきた。
カウンターの前まで来ると、瑞希に向かって話し掛けてくる。
「あの、ヴァイオリンの弓の張り替えをお願いしたいんですけど」
「あ、はい。
それでは弓の方を見せて貰えますか?
あ、ケースはカウンターの上に置いて頂いて構いませんよ」
「分かりました」
少女はそう言うと、背負っていたヴァイオリンケースを下ろしてカウンターに置き、留め金を外してケースを開けた。
上蓋に仕舞われている弓を取り出すと、ケースを閉じてから瑞希の方へと差し出した。
「これです」
「お預かりします」
瑞希はそういうと、丁重に彼女から弓を受け取った。
毛の部分に触れないようにフロッグを持ってヘッドにそっと手を添えるようにして、弓の状態を眺める。
彼女は専門知識を持っているわけではないので詳しくは見れないが、少なくとも弓の毛の手前側の方が大分薄くなってしまっていることは見て取れた。
「お急ぎですか?」
「はい。その……出来ればなるべく早くお願いしたいです」
急ぎで張り替えを行う必要があるかを聞くと、少女は頷きながらそう答えた。
瑞希はそれを見て頷くと、そのまま腰を捻るようにして後ろに顔を向けた。
「店長、毛替えなんですけど今からでも大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「了解です。
一時間程お時間を頂くことになりますが、宜しいでしょうか?」
カウンターから後方の工房スペースに居る店長に聞くとOKの返事が返ってきたため、瑞希はお客さんの方へと向き直ってその旨を回答した。
その言葉に、少女は安堵したように笑顔を浮かべる。
「あ、はい。お願いします。
一時間後にまた来ます」
「それでは、こちらの用紙にお名前と電話番号のご記入をお願いします」
瑞希はカウンターの引出しから二枚組の用紙を取り出すと、ペンと一緒に少女の方へと渡す。裏がカーボン紙になっており、筆圧により転写が為される記入用紙だ。
少女はそれを受け取ると、名前と電話番号を記入してから差し出してきた。
「確認させて頂きますね。
お名前、電話番号、と。
リペア内容は弓の毛替え、受付日時は……これでよし」
瑞希は受け取ったそれの記載内容を確認しながら、必要事項を追記してゆく。
全て確認してから、ペリッと一枚目の紙を剥がして少女へと手渡した。
「こちら、控えとなりますので、引き換えの際にお渡しください」
「はい、分かりました」
「楽器の方はお店でケースごとお預かりすることも出来ますけど、どうしますか?」
「えーと……いえ、大丈夫です」
引換証を渡した瑞希が嵩張るケースの預かりを申し出たが、少女は首を横に振った。
楽器を不必要に人に預けるのを避ける人も居るため、それは珍しいことではない。
そのため、瑞希もすぐに納得してそれ以上は何も言わなかった。
少女が店を出て行った後、瑞希は預かった弓を工房スペースの方に持って行き、店長に手渡した。
「それじゃ、お願いしますね」
「はい、ありがとうございます」
店長は瑞希から弓を受け取ると、先程彼女がそうしたように翳して弓の状態を確認し始めた。
しばらくそうして眺めた後、根元のスクリューを回してスティックからフロッグを取り外す。
瑞希は真剣な表情で作業を始めた店長を暫く見詰めていたが、やがてカウンターの方へと戻っていった。
♪ ♪ ♪
「よし、出来上がり」
四十分程が経った時、工房スペースから店長のそんな声が聞こえた。
カウンター内でパソコンで作業をしていた瑞希は、その言葉に後ろを振り返った。
「あ、終わりました?」
「ええ、この通りです」
そう言いながら、店長は器具に固定していた弓を手に取って瑞希へと見せてくる。
まだ松脂も塗っていない状態のため、多少生成りの色合いの真新しい毛が貼られているのが見て取れた。
張っているのは白馬の尻尾とはいえ、完全に真っ白ではないのだ。
「お疲れ様です」
「お客さんへの引き渡し、お願いしますね」
「はい、分かりました」
瑞希は弓を受け取ると、カウンターの上へと置いた。
カウンターの上を占拠するのは望ましくないが、どうせもうすぐ弓を預けていったお客さんが取りに来る筈だから問題ないだろうという判断だ。
それを肯定するように、ドアベルの音が鳴り響いた。
「いらっしゃいませ。
あ、弓の毛替え、終わってますよ」
入口から入ってきたのは予想通り弓の毛替えを依頼した少女だったため、瑞希はそう告げた。
その言葉に、その少女は笑顔になり足早にカウンターへと近付いてくる。
「あ、本当ですか?
良かったです。
ちょっと早いかと思ったんですが」
「お待たせせずに済みましたね。
こちらになります」
そう言いながら、瑞希はカウンターの上に置いていた弓を彼女へと差し出した。
少女はそれを受け取ると、翳すようにして弓の毛の状態を確認する。
「如何ですか?」
暫く眺めいた少女だが、やがて納得したのか瑞希の問い掛けに対して一つ頷いた。
「ありがとうございます。
大丈夫です」
「良かったです。
お会計ですが、ヴァイオリンの弓の毛替えで四千三百二十円になります」
「あ、はい。
分かりました」
瑞希が金額を告げると、少女は鞄から財布を取り出し、そこから五千円札を一枚差し出した。
瑞希はそれを受け取ると、レジに打ち込む。
「五千円お預かりしましたので、お返しが六百八十円になります」
「はい」
お釣りとレシートを受け取って財布に入れてから鞄に仕舞うと、彼女は弓を一度カウンターの上に置き、背負っていたケースをその手前に置く。
ケースを開いて弓を仕舞ってから蓋を閉じた。
「ありがとうございました」
「いえ、またのご来店をお待ちしてます」
満足そうに帰ってゆく少女の姿に、瑞希も何だか嬉しくなりながら見送った。