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2-2

「………………はぁ」


 翌日の放課後、瑞希は重い足取りで下校していた。

 下校と言っても真っ直ぐに家に帰るのではなく、昨日も拠ったドルチェ弦楽器店に今日も拠る予定だ。

 あのお店の店長に、やはりヴァイオリンを両親に買っては貰えそうにないことを伝えて、取り置きの断りをしなくてはならないのだ。

 お目当ての楽器を買えなくて残念という気持ちと、折角店長が取り置きしてくれると言ってくれたのに申し訳ないという気持ちが混ざり合い、彼女の足枷となっていた。


「店長さんには言い辛いな……」


 昨日と同じように商店街の入口で右に曲がり、最初の曲がり路地へと入る。

 トボトボと歩いていたが元よりそれほど大して距離があるわけでもない。瑞希は程無くして目的地であるお店のドアの前に着いてしまい、顔を上げる。

 昨日と同じ「Dolce Strumento a Corda」とお店の名前──昨日は読めなかったが、店長に教えて貰った──が書かれた看板プレートと開店中であることを示すドアノブに下げられたプレート。

 しかしその時、瑞希は昨日は気付かなかった一枚の貼り紙の存在に気付いた。


「あれ? こんな紙、昨日も貼ってあったっけ?」


 ドアの横に掛けられたボードに画鋲で留められたその紙には「アルバイト募集」と書かれている。

 貼り紙はそこまで新しくは見えないため昨日もあった筈なのだが、どうやら見落としていたようだ。


 その紙に書かれていたのは、このドルチェ弦楽器店のアルバイトの募集だった。

 勤務内容はお店番や簡単な品出しと掃除、曜日や時間については特に明記はされておらず、応相談となっている。

 時給は接客業としては一般的な範囲で、格別高くもなければ安くもない。


 最初は気にせずに流してそのままお店に入ろうとした瑞希だったが、その時ふと脳裏にある思い付きが稲妻のように閃き、足を止めてバッとその紙を凝視した。


「────これだ!」


 書かれているのはオーソドックスなアルバイトの募集要綱に過ぎなかったが、彼女はそこに確かな光明を見出した。


 瑞希は衝動的に画鋲を引き抜いてその紙をボードから外すと──後から考えれば、勝手に剥がすのはあまり宜しい行動ではなかったが、その時の彼女にはそれを考える余裕が無かった──それを片手に持ったままドルチェ弦楽器店のお店のドアを開けた。

 昨日はそっと開けたために鳴らなかったドアベルの音がカランカランと響き渡り、カウンターに立っていた赤茶髪の青年が入口の方に顔を向けた。


「いらっしゃいませ。

 ああ、昨日の……」


 来客に向けて挨拶をしてきた店長はどうやら途中で相手が昨日も訪れた女子高生であることに気付いたようで、優しそうな微笑みを浮かべた。

 しかし、瑞希はそんな店長に向かって挨拶もそこそこに手に持った紙を掲げながら告げる。


「あの! 私をこのお店でアルバイトとして雇ってください!」




 ♪  ♪  ♪




「あの時はお店に他のお客さんが居なくて良かった……」


 壁に掛けられた楽器を見ながら数ヶ月前のことを思い返していた瑞希は、その想像に思わず顔を赤く染めながら呟いた。


 いきなりお店に入ってきたと思ったら、次の瞬間に「アルバイトとして雇ってください」と叫ぶ女子高生。

 そんな光景を見たら、誰でもポカンとするしかないだろう。そして、そんな光景を見られた側としては、恥ずかしくて相手の顔をまともに見られない。もしも常連客などだったら目も当てられないことになるところだ。

 尤も、それを言ってしまうと店長にはしっかりそのシーンを見られているわけだが、そこは敢えて考えないようにしている瑞希だった。


「ああ、あの時ですか。

 あの時は本当に驚きましたよ」

「て、店長……うう、すみません」


 ヴァイオリンの前に立っていた瑞希に、横合いから店長が話し掛けてきた。

 瑞希はその言葉に、更に顔を赤くしながら俯くしかない。


「取り置きしてほしいと言って帰った翌日に、いきなり『雇ってください』でしたからね」

「あの時はもうそれしかないと思ったんですよ……」

「それだけ、このヴァイオリンが欲しかったんですね。

 そこまで気に入って貰えると、作った方としては嬉しい限りですけど」


 そう言って、店長も「売約済み」の紙が貼られた楽器を見遣った。


 二人が見ている楽器──瑞希が初めてこの店を訪れた時に店長が弾いていたこの楽器は、「瑞希のために」取り置きして貰っているのだ。

 両親に買って貰えなかったこの楽器だが、ある約束の下に取り置きをしてもらうこととなった。

 それは、彼女がこのお店でアルバイトとして働いていることに繋がっている。


 ちなみに、瑞希はすっかり見落としていたのだが、アルバイトの募集要項の紙には「十八歳以上」という条件が書かれていた。

 彼女はその条件を満たしていないのだが、熱意に圧された店長が折れた形で無事に雇われることとなった。


「あの時、このヴァイオリンのこと頼んだんでしたよね」

「『アルバイト代は要らないから、代金分貯まったらあのヴァイオリンをください』でしたっけ」

「はい」


 彼女のアルバイト代は当然ながら募集要項に記載されていた時給に沿って支払われる筈なのだが、実のところこれまでの数ヶ月間の中で一度も支払われていない。

 とはいえ、別に瑞希がタダ働きをさせられているとかそういうわけではない。

 彼女に支払われるべきアルバイト代は、現金や振込でお金を渡す代わりに店長に積み立てて貰っており、目標金額に達したら目の前のヴァイオリンを売って貰う約束になっているのだ。実質的な現物支給だった。


 尤も、法律や税金の関係で、実際には一度支払ったお金を店長に預かって貰っている扱いになっている。

 その辺は詳しくない瑞希にはよく分からなかったため、店長に任せた状態だ。


 別にアルバイト代をお金で支払って貰ってお金を貯めるのでも良いと言えば良いのだが、その場合は貯めている間に他のことに使ってしまうこともあり得る。

 このお店でのアルバイトで得たお金は全てヴァイオリンを買うために投じよう、という瑞希の決心がそこにはあった。


 それ以来、このヴァイオリンには「売約済み」の札を貼られている。

 瑞希が代金分アルバイトで働くまで、彼女の手に渡されるその時まで「売約済み」なのだ。


「最終的に瑞希さんの物になる予定の楽器です。

 少しくらい触ってみたり弾いてみたりしても良いんですよ?」

「う……心惹かれますけど、我慢します。

 ちゃんとお金を貯めて買ってからにしたいので」

「ふふ、瑞希さんらしいですね」


 ヴァイオリンに興味深々の瑞希に対して店長が気遣いでそう告げたが、瑞希は少し悩みながらも断った。

 そんな彼女の姿に、店長は微笑ましく見るような表情になる。


「さて、それではそろそろ時間ですし、開店しましょうか。

 瑞希さん、表のプレートを裏返してきてくれますか?」

「あ、はい。分かりました」


 店長の指示を受け、瑞希はお店のドアを開けると、そこに掛かっている「CLOSED」のプレートを裏返して「OPEN」へと換えた。

 ドアを閉める時に、数ヶ月前にアルバイト募集の紙が貼られていたボードがチラリと視界に映った。

 勿論、そこには今は何も貼られてはいない。

 あの日のことは思い出すと少し恥ずかしいが、アルバイトに慣れてきた今となっては良い思いででもある。


 軽く口元を緩めながらドアを閉めた瑞希は、アルバイトの目的である楽器を最後にもう一度横目で見ながら、前を通ってカウンターへと入った。


 ドルチェ弦楽器店は土曜日の営業を開始した。

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