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平日は学校が終わった後の放課後だけ働いている瑞希だが、土日は朝からアルバイトを入れていた。
開店時間は平日と同じく十時半だが、その三十分前にはお店に入って開店の準備をする。
スタッフルームでエプロンを着けた瑞希は、店内の整理を行ってゆく。
棚の上の商品の並びを整えたり、仕入れたものを補充したりといった具合だ。
その時、作業をしていた瑞希の視線がふと一点に留まった。
それは、店内の一角に掛けるようにして飾られているヴァイオリンの内の一台だった。
鮮やかな薄茶色に仕上げられたその楽器には、他に並んでいる楽器とは一点だけ異なる部分がある。
それは、各楽器の下に付けられているプレートだ。
飾られているヴァイオリンも当然商品であるため、各々の楽器の下にはプレートが掲載されており、そこには金額が記載されているのだ。
最も安い物で数万円から百万円に近い値段の物までその金額は様々だが、瑞希が目を留めた一台だけは価格が書かれたプレートの上に紙がテープで貼り付けられており、値段が見えない。
その紙には一言「売約済み」とだけ記載されていた。
尤も、それ自体はそこまで珍しいというものでもない。
楽器と言うのは高価な買い物であるため、即金で支払って当日楽器を持ち帰る人ばかりではない。むしろ少数派だ。
基本的にはお店で購入の約定をした後、別途口座への振り込み等で支払ってから商品を受け取りに来ると言うパターンが一番多いだろう。
では、瑞希が目を留めた楽器もそのように代金を振り込まれるのを待っている物なのかと言えば、そうではない。
実のところ、そのヴァイオリンはもう数ヶ月も売約済みのままで飾られているのだ。
とはいえ、別に購入者から音沙汰無くなってしまったとかそういうわけではない。
話は瑞希がこのドルチェ弦楽器店でアルバイトを始めた頃に遡る。
♪ ♪ ♪
瑞希がそのお店を初めて訪れたのは、高校二年に上がった春のことだった。
あまり運動が得意ではなく、かと言って文科系の趣味があるわけでもない瑞希は帰宅部だ。
その日も放課後、彼女は部活に出る友達を見送って下校していた。
「うわ」
坂を下りて駅前の商店街の入口まで歩いてきた瑞希は、その光景に思わず声を上げて顔を顰めた。
何かのキャンペーンでも実施していたのか、普段の数倍の人だかりが出来ていたのだ。
瑞希の住むマンションは駅の反対側であり、いつもの下校コースなら商店街の中を通っていくのだが、今のこの状態の中に乗り込んでゆく気力は無かった。
「裏道を通るしかないかな」
商店街の中に入らず、一本裏の道を通れば人だかりを回避して駅まで行けるだろう。
そう思った瑞希は商店街の入口で右へと曲がった。
そうして最初の路地を左に曲がって駅の方に行こうとしたのだが、ふとそこにあるドアが目に留まった。
「えーと、ドルチェ……読めない。英語じゃないのかな?
ドアに掛けられたプレートの文字を読もうとする瑞希だったが、生憎と最初の一単語しか分からなかった。
その最初の言葉も、何処かで見聞きしたことがあるから偶々読めただけで、意味までは分からない。
「お店みたいだけど、何のお店だろう?」
読めなかったプレートとは別に、ドアノブの辺りに「OPEN」と書かれたプレートが下げられていることから、瑞希はそこが何かのお店であると考えた。
普通なら何のお店かも分からないようなところに入ったりはしないのだが、普段の下校コースとは違う道を通っていた彼女は、思わぬ発見があるかもしれないと好奇心を擽られた。
「……おじゃましまーす」
何となく気後れして小声で呟きながらそーっとドアを開けた瑞希の耳に、美しい旋律が聞こえてきた。
木の香りがする小ぢんまりとした店内に響き渡る澄み切った音に、思わず瑞希は聴き惚れる。
クラシックに造詣の深くない瑞希はそれが何と言う曲かは分からなかったが、後から曲名を教えて貰ったバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第三番は今も瑞希が最も好きな曲であり、最も思い入れの深い曲となった。
カウンターの向こう側の工房のようなスペースで、赤茶色の髪をした長身の青年がヴァイオリンを左肩に載せて演奏している。
身体の向きは入口の方を向いているものの、その視線は真剣に自らの奏でる楽器を向いており、ドアを開けた瑞希のことは気付いていないようだった。
ドアの音がこの音楽を壊してしまわないように、瑞希は店内に入って後ろ手にそっと閉める。
そうしてドアの内側に立って曲を聴き続けた。
店内には他に客の姿は居らず、ただ瑞希一人だけが聴衆となっている。
十分程の演奏が続いて締めの音が奏でられた時、瑞希は思わず反射的に拍手をしていた。
「……あ」
「え?」
──そして、自分の行動に固まることとなった。
同時に、ヴァイオリンを演奏していた青年も突然の拍手に驚愕して目を見開きながら彼女の方を向いた。
「あ、あれ? お客さん?」
「ご、ごめんなさい! お邪魔してます!」
「こちらこそ申し訳ない、気付かなくて……」
本来であればドアを開ければドアベルが鳴り気付けた筈なのだが、瑞希がドアをそっと音が鳴らないように開け閉めしたためにベルが鳴らなかったのだ。
お店の店長はお客さんが入ってきたにも関わらず気付かず放置してしまったことを謝罪するが、瑞希の方もまるで忍び込むようにお店に入ってしまったという負い目があるため、恐縮するしかなかった。
一しきり謝った後、赤茶髪の青年はカウンターの方に移動して問い掛けた。
「ええと、それでご用件の方は何でしょう?」
「あ、すみません。特に何か買うものがあったわけじゃないんです……。
たまたまドアを見掛けて何のお店なのかなって」
興味本位で立ち寄っただけで厳密には客とは言い難いことを正直に告げる瑞希。
怒られるかと思ったが、青年はそれを聞いても微笑みを浮かべていた。
「成程。それでも全然構わないですよ。
弦楽器に興味を持ってくれるだけでも嬉しいです。
是非、店内を見て行ってください」
そういうと、青年は先程弾いていた楽器をカウンターの右手にある棚へと掛けるように置いた。
瑞希は思わずその楽器を目で追ってしまう。
「その楽器……ええと、ヴァイオリンですよね?
さっき弾いてたそれも商品なんですか?」
「ええ、うちでは海外から輸入した楽器の他に楽器の作成も行っているんです。
先程弾いていたのは作成した楽器の試奏ですよ」
「え!? この楽器、貴方が作ったんですか!?」
青年は瑞希よりは歳上だが、それでもまだ大分若いように見える。
職人というと大分年配の人だろうと想像していた瑞希は、目の前の青年があんな素晴らしい音を奏でる楽器を作ったということに驚きを隠せない。
「恥ずかしながら。
父が楽器職人をしていて小さい時から仕込まれたんです」
「凄いです!」
恥ずかしそうに頬を掻く青年だが、瑞希は目を輝かせて彼を見る。
そして、改めてその楽器を見詰めた。
「気に入って頂けましたか?」
「え、ええ……」
青年が問い掛けてきたが、瑞希は半ば放心したまま答えを返す。
先程の演奏はそれだけ鮮烈で、彼女の心を掴んで離さなかった。
あんな風に自分も演奏してみたい、そう思ってしまったのだ。
その後、店内に飾られている他の楽器や商品も眺めた彼女だが、やはり最初に目を留めた楽器が気になる気持ちを抑え切れなかった。
♪ ♪ ♪
家に帰った瑞希は思い切って両親にあのヴァイオリンの購入を頼んでみた。誕生日やクリスマスのプレゼントに買って貰えないかと駄目元で聞いてみたのだ。
青年──店長だった──からは取り置きも可能だと言われていたので、もしも先になっても買って貰えそうだったらお願いするつもりだった。
しかし、結果は玉砕。
あの楽器はお店に並んでいた中でも最も高いというわけではなかったが、それでも数十万円はする。
流石に高校生のプレゼントとしては高額過ぎた。
予想通りとはいえ少しくらいは期待もしていたため、瑞希はその結果に少し落ち込んで、枕を濡らしてその日はそのまま不貞寝した。