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最後のお客さんを見送ってから暫くの時が経ち十九時半になると、店内に掛けられている時計から音楽が流れ始めた。
「あ、もう閉店時間ですね」
「そうだね。表のプレート、裏返してきてくれるかい?」
「はい、分かりました」
工房の方からの店長の言葉を受け、瑞希はお店の入口の方へと歩いてゆく。
内開きのドアを開けると、そこに掛けられていた「OPEN」と書かれたプレートを裏返して「CLOSED」に換えてから閉めた。
「そちら側お願いね」
「はーい」
閉店後に行うのは、店内の掃除だ。
ドルチェ弦楽器店は店内スペースと工房スペースに分かれているが、店内スペースは瑞希が、工房スペースは店長が掃除を行う役割分担となっている。店長が「そちら側」と言ったのは、今瑞希が立っている店舗スペースのことだ。
とはいえ、どちらのスペースも流石に毎日隅々まできっちりとやるのは大変なので、普段は軽く埃を払って床を掃くだけに留めている。
勿論、その分、週に一回土曜日に隅々まで掃除を行う日を設けているわけだが。
瑞希はカウンターの下から毛先の柔らかい毛ばたきを取り出すと、傷付けないように気を付けながら店内の商品や棚の埃をそっと払ってゆく。
一通りの埃を払い終えたら、毛ばたきを仕舞って今度は代わりに箒とちりとりを取り出した。
そして、床の掃き掃除を始める。
店内スペースは元々それほど広くない上に棚などもあるため掃き掃除をする範囲は狭く、さして時間も掛からずに掃き終えた。
「こっち、終わりました」
「はい、お疲れ様」
掃除を終えて道具を片付けながら店長に一声掛け、瑞希は後ろ手にエプロンの結び目に手を伸ばして解きながらスタッフルームへと向かう。
♪ ♪ ♪
スタッフルームの扉を開けると、エプロンを脱いで椅子の背もたれへと掛ける。
出勤時に椅子に置いた鞄はそのままにしたまま背中と背もたれの間に挟むように椅子に座ると、机の上に置いてあるノートを手元に寄せて開いた。
何の変哲もない大学ノートだが、これはドルチェ弦楽器店の業務日誌だ。
左手でページをめくりながら右手を背中の方に後ろ手に伸ばして、鞄の中を探る。
鞄の中を手探りで探して上手いことペンを取り出し、そのまま業務日誌に今日の出来事を書き連ねてゆく。
ドルチェ弦楽器店の営業時間は十時半から十九時半。
そのうち、平日に瑞希がアルバイトでお店番として入るのは、高校の放課後に限定されるため十六時半から閉店までだ。
開店から瑞希が入るまでの時間は、店長が一人でお店を回している。
当然、自分が居ない時間のことは業務日誌に書くことが出来ないため、瑞希が書くのはあくまで彼女がお店番をしている十六時半から閉店までのことだけ。
開店から十六時半までの出来事については店長が書くことになっている。
ノートは一ページを一日として割り当ててあり、真ん中で横線で区切られた上半分を店長が、下半分を瑞希が使うと暗黙の了解で決まっている。
日毎ではないとはいえ交互に書いていくため、さながら交換日記に近いような状態となっている。
「お疲れ様。はい、珈琲。
いつも通り、ミルク無しで砂糖は一個」
「あ! ありがとうございます!」
スタッフルームの奥側の扉から入ってきた店長に珈琲カップを差し出され、瑞希は日誌を書く手を止めてお礼を言いながら受け取った。
カップの縁に口を付けると、苦味の中に程良い甘さが染み渡るように入ってくる。
「今日はどんな感じだった?」
一度奥に引っ込んで戻ってきた店長が、自分の分のカップを手に向かいの椅子に座りながら店長が瑞希に尋ねてきた。
問い掛けに、瑞希はペンを口元に当てて今日のことを振り返りながら答えた。
「やっぱり安売りフェアのおかげで弦を買っていってくれるお客さんが多かったですね。
あ、ブログにも宣伝載せときましたよ」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
「よし、と。
日誌、書き終わりました」
珈琲を啜りながら日誌を書き終えた瑞希は、ノートを閉じる。
交互に書くので書いた文章は店長も読むのだが、流石に目の前で読まれるのはちょっと恥ずかしいためだ。後で読んでほしいという無言の主張である。
「了解。
それじゃ、今日はもう上がって良いよ。
あ、カップはそこに置いたままでいいからね」
「はい。珈琲、ご馳走様でした。
それじゃ、お疲れ様でした」
瑞希は飲み終えた珈琲カップを机に置き、背中の後ろに置いていた鞄の肩紐を持ち上げて肩に掛けながら、店長に向かって軽く一礼する。
「お疲れ様。
家まで気を付けて帰ってね」
「はい」
微笑みながら見送る店長の声を背に、瑞希はスタッフルームを出て、お店の中を通って外に出ると家路に着いた。
♪ ♪ ♪
瑞希の自宅のマンションは学校やドルチェ弦楽器店から駅を挟んで反対側にある。
駅からマンションまでは徒歩で五分程の距離にあるため、お店からは大体十分ぐらいの道のりとなる。歌川駅の駅前の踏切を渡り反対側へと歩いてゆく。
既に二十時を回っているために大分暗いが、幸いにして瑞希の家までの道のりは比較的大きな通りが続いているため人通りも多く、年頃の少女が一人で歩いていてもそれほど問題ない程度には安心な道だ。とはいえ、あまり遅くなるのも良くないと、瑞希は少し早足で歩みを進めた。
マンションに着くと、エレベータで四階まで上がり、自宅である四○三号室のドアに鞄から取り出した鍵を差し込んで捻る。ガチャッと音を立てて解錠したドアを開け、部屋の中へと入った。
「ただいま〜」
「おかえりなさい」
マンションのドアを開けて帰宅の声を掛けると、キッチンの方から母親の声が聞こえた。
ドアのカギを閉めた瑞希は靴を脱ぎながら、母親へと問い掛ける。
「お父さんは?」
「まだよ。
もう少しで帰ってくる筈だから、玄関の明かりは付けたままにしておいて」
「はーい」
玄関を上がり、脱ぎ終えた靴をかかとを揃えるようにして置き直す。
そうして、まずは洗面所に行って軽く手を洗ってから自分の部屋へと向かった。
瑞希の家庭は、元々両親と少し歳の離れた姉の四人家族だった。
しかし、姉は二年前に結婚して家を出ているため、現在はマンションで両親と三人で暮らしている。
住んでいるマンションは2LDKの間取りとなっており、瑞希は一人部屋を与えられていた。
廊下の奥の扉を開けて自室に入ると、鞄をベッドの上に置いた。
そのまま倒れ込みたい気分だったが、制服がしわになっては困ると思い寸前で踏み止まる。
制服の上着とスカートを脱ぐと、ハンガーに掛けて吊るしておく。
代わりにラフな部屋着を着て、鞄からスマフォを取り出すとそれを持ったままベッドへと倒れ込んだ。
ベッドの上でうつ伏せになり、枕を胸の辺りに敷いてスマフォをいじり、アルバイト中に友人から届いていたメールやSNSを確認して一つ一つ返してゆく。
そうこうしているうちに、玄関の方で声が聞こえた。どうやら、父親が帰ってきたらしい。
「お父さん帰ってきたから夕食にしましょう。
手を洗ってきて」
「はーい」
夕飯の声が掛けられ、瑞希はスマフォでのやり取りを中断して手を洗いに行った。
基本的に、この家では父親が余程遅くなったりしない限りは夕食はみんな一緒に取ることにしている。
学校やアルバイトで今日あった出来事を話しながら、夕食の時は明るい雰囲気で過ぎてゆく。
夕食後は部屋に戻り、翌日の授業の予習を軽くする。
一時間程机に向かった後、お風呂に入り、最後にスマフォをもう一度確認してから十一時過ぎに部屋の電気を消した。
「明日はお客さん一杯来るかな?」
常備灯だけが照らす部屋の中、一言の呟きと共に瑞希は枕を抱き抱えるようにしながら目を閉じた。
ドルチェ弦楽器店のお店番の一日はこうして終わりを告げた。