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ドルチェ弦楽器店は弦楽器の販売とリペア、メンテナンス、それから各種小物の販売を営んでいる小さな店舗だ。
全体のスペースだけで見ればそこまで小さいと言うわけではないのだが、およそ半分を工房として使用しているため必然的に店舗スペースは小さくなる。
ドアはきっちりと閉まって密閉されるようになっており、ガラス窓もあるが締め切っている。
楽器を並べている関係上、温度や湿度を一定に保つ必要があるからだ。
入口から入って左側の壁には楽器本体と弓が壁に掛けるようにして飾られている。
弦楽器店としているように取り扱っているのは弦楽器全般……と言いたいところだが、掛けられているのは大半がヴァイオリンとその弓だけ、あとはヴィオラが数台あるだけだ。
これはひとえに店舗のスペースの問題である。
チェロやコントラバスといった大型楽器を並べるには、この店のスペースでは足りな過ぎるのだ。
右側の壁には楽器ケースが差すように並べられている棚と、楽譜や教本と言った書籍が並べられている棚の二つが設置されている。
入口から向かって奥にはカウンターと小物用の棚があり、奥の工房スペースとの仕切りになっている。
小物用の棚には弦や松脂、肩当て、クロスやアジャスターなどが整然と並べられていた。
「えーと……ヴァイオリン弦安売り実施します、と」
店内にお客さんが居ないため、瑞希はカウンターの中で椅子に座り、そこに置かれたノートパソコンで文字を打ち込んでいた。
彼女が打っているのはお店の宣伝のために始めたブログの宣伝文句である。
店長はそういったことにはあまり詳しくないため、ブログの更新を始めとしたIT関連全般は瑞希の仕事だった。
最初は文字だけの単調なページだったが、店内をスマフォで撮影して画像を載せたりしたおかげで、少しずつ賑やかになってきた。
ブログを見て来店したというお客さんも居て、瑞希は内心で密かにガッツポーズをしていたりする。
「写メも……うん、いい感じに撮れた」
今もカウンターの上に弦が入った四角い紙袋を並べて、スマフォでそれを撮影して画像をブログにアップロードしていた。
ヴァイオリンの弦の安売りフェアの宣伝ページを飾るための写真だ。
楽器の弦は基本的に輸入したものを販売しているため、為替の状況次第では安く仕入れることが出来る。
そんな時には安売りフェアを実施するようにしていた。
「メ―リスも流しとこうかな」
ブログの更新に加えて、常連のお客さん向けのメーリングリストでヴァイオリン弦の安売りフェアのお知らせをメールで送る。
メーリングリストの登録者は正直それほど多くはないが、弦のような消耗品は安い時にまとめて買いたいと考える人が多いため、常連のお客さんにとっては良い機会になるだろう。
おそらく数人は、メールを見て買いに来てくれるお客さんが居るだろうと瑞希は予測している。
「これでよし」
パソコンを使って行う一通りの作業を終えて蓋を閉じると、瑞希は椅子から立ち上がった。
別にカウンターの中で座っているのがいけないと言うわけではないのだが、お客さんが入ってきた時に座ったままと言うのは何となくあまり外面が宜しくないと考え、いつも基本的には立つようにしている。
例外的にパソコンでの作業を行う時だけは座るようにしているが。
瑞希はカウンターから外に出て、撮影用に持ち出していた弦をカウンター横の小物棚に仕舞ってゆく。
見栄えの良い画像を撮るために色々なメーカーの弦を一つずつピックアップしていたため、それぞれバラバラの場所に仕舞わなければならない。
加えて同じメーカーでも弦の種類やサイズ、ゲージなどの並び順をきちんとしていないと後で探す時に混乱してしまうため、その点についても注意が必要だ。
彼女をパッケージを見ながら、一つ一つ正しい場所に差し込んでいった。
弦を片付けを終わったところで、再びカウンターの中に戻る。
後は基本的には待ち一辺倒だ。
瑞希の役割はお店番なので、お客さんが来ない間は特にすることがない。
仕入れた商品の陳列や整理なども行うことはあるが、それほどの頻度ではない。
カウンターの中に立ち、お客さんが来たら接客、後は閉店後に軽く店内の掃除を行うくらいである。
瑞希はそのまま暫く、お客さんがやってくるのを待っていた。
♪ ♪ ♪
「いらっしゃいませ」
カランカランと鳴るドアベルの音に、瑞希は店の入口の方に視線を向けながら声を上げた。
ドアを開けて店内に入ってきたのはスーツを着た四十代の男性だ。
鞄を持っていることからも、おそらくは会社帰りにこのお店に寄ったのだろう。
その男性は何度もこのお店を訪れている常連客の一人であり、瑞希も彼の顔には見覚えがあった。
常連客と言っても、弦楽器店への用事というのはそう頻繁にあるものではないため、毎日訪れるような人はいない。多くても月に一度くらいといったところだろう。
その為、瑞希がこのお店でアルバイトを始めてから、彼を見掛けたのはおそらく数回程度の筈だ。
リペアやメンテナンスを請け負ったお客さんであれば名前も分かるのだが、生憎と今店内に入ってきたお客さんは販売のみの利用であったため、名前は分からない。
瑞希は内心で常連のおじさんと呼ぶようにしている。ちなみに、常連のおじさんは複数人居るのだが。
常連のおじさんは瑞希の挨拶に応えるように軽く会釈をすると、真っ直ぐにカウンター横の小物棚へと向かった。
足取りに迷いがないのは、流石常連というべきか。
彼はどうやら今日は弦を買いに来たらしく、紙パッケージが並んでいる中から目的の商品を探し始めた。
やがて、目的の弦を見付けたらしく二枚の紙パッケージを棚から取り出した。
続いて彼は、瑞希の方へと向き直って声を掛けた。
「ガット弦、ストレートのを出して貰えますか?」
「あ、はい。
分かりました」
弦の種類によっては巻いた状態で収納する紙パッケージではなく、真っ直ぐ伸ばした状態で保管しているものがある。
瑞希は彼の求めに従って商品を取り出すべく、棚の後ろ側に差してある筒状の入れ物へと手を伸ばした。
「ええと、D線でしょうか? それともG線でしょうか?」
置いてある弦にはヴィオラやチェロ、コントラバスのものもあるが、常連のおじさんがいつもヴァイオリンの用品を買っていたことを記憶していた瑞希はそこには触れず、弦の種類だけを確認した。
「D線とG線、それぞれ一本ずつで」
両方と言う回答に、瑞希はヴァイオリンのD線の筒とG線の筒をそれぞれ棚から抜き出した。
「ゲージはどうしますか?」
「D線が十六と四分の三、G線が十五と四分の一でお願いします」
「十六と四分の三のD線……これ、と。
あと、十五と四分の一のG線……ありました。
こちらで宜しいでしょうか」
筒から取り出した二本の弦をカウンターに載せ、弦に付いているタグを確認して貰う。
常連のおじさんは二枚のタグを見て、頷いた。
「確かに。
これと一緒に会計して貰えますか」
「はい、分かりました」
先程棚から取り出した紙パッケージを受け取り、包装をし始める。
ストレート弦は丸めてしまうわけにはいかないため、真っ直ぐのまま包装紙で棒状に包む。
紙パッケージはお店のロゴが入った袋に入れ、ストレート弦と一緒に手渡す。
「お先に商品の方お渡し致しますね。
それでお会計が、と……全部で九千七百二十円のフェアで十パーセントオフなので、八千七百四十八円です」
「これでお願いします」
「はい。
一万と四十八円のお預かりですので、お釣りが千三百円になります。
ありがとうございました」
「どうも」
常連のおじさんはお釣りを財布にしまうと、紙パッケージの弦が入った袋を鞄に仕舞い、ストレート弦の包装は手に持って出て行った。
「メーリングリストかブログを見て来てくれたのかな」
聞かなかったため真実は分からないが、弦をまとめ買いしていったところを見るとその可能性が高い。
せっかく宣伝したので、そうだったら嬉しいなと思いつつ、瑞希はお店番を続けるのだった。
 




