案件2 Mad Dog 36
あの時。マッドドッグに鉢合わせた、あの時。死体の側に蹲った彼に、愛美はすぐには気付かなかった。
その時も、愛美を殺そうと思えば殺せた筈だ。
「本当は君にだけは知られたくなかった。でもこれでよかったんだ。君が僕を殺してくれなければ、僕はいつまでも殺戮を続けていた。僕は呪いに支配される弱い人間だから」
長谷部は絡めていた愛美の手を解くと、身体の横にそっと横たえた。愛美は瞼を閉じた長谷部の頬に、頬を寄せる。
「長谷部先生」
「……ありが……と……う」
パトカーのサイレンが近付いてくる。誰かが通報したのだろうか。
愛美は立ち上がると、無言で東大寺の傍らに近付いた。愛美は東大寺の胸に顔を埋める。東大寺も黙って、愛美の肩を強く抱いた。
東大寺は気付いていたのだろうか、長谷部が本気で愛美を襲うつもりはなかったことに。
愛美はそっと、目を閉じた。
*
セーラー服の少女が誰もいない教室で、台に腰掛けてハミングしている。最近の流行歌ではなく、外国の民謡らしい。
少女は水槽の中に指を突っ込んで、カメの首のあたりを撫でていた。体長八センチほどのカメは、ぼんやりとしていて、どこを見ているのかも定かではない。
白い大きな実験用の机が、並んでいる。教室の扉が静かに開くと、一人の学ラン少年が顔を覗かせた。
「やっぱりここにおったんか。もう退学届は出してきたん?」
愛美はカメを触る手を止めずに、東大寺に視線を転じた。
「この学校には長居したくないわ」
愛美の言葉に東大寺は「でも、生物室には来ている」と呟いた。愛美は再び、水槽の中のカメに視線を移した。
今日、鷹宮高校は終業式だった。愛美は式が終わるとすぐに退学届を提出して、最後のホームルームにも出ずに生物室に入り浸っていたのだ。
「何これ。ゼニガメやん。餌やってもいいんかな」
愛美は水槽から腕を抜いた。カメの膚はサラサラとしていて、ひんやりとしている。
「ウェルズ君。世話をしてくれる人がいないの。二人とも死んじゃったから」
東大寺は黙って台の下に置いてあった透明なビニールの袋から、乾燥エビを取り出した。一匹ずつつまんで、カメの口元に持っていってやっている。
カメは一生懸命首を伸ばしては、干しエビに食いついて飲み込んでいた。
冬休み中、ウェルズの世話をする筈だった竹内は、マッドドッグの最後の被害者となった。
いや、最後の犠牲者となったのは長谷部実自身だろう。彼もまた、マッドドッグの被害者だった。




