案件2 Mad Dog 35
――タ・ス・ケ・テ・ク・レ
ほんの一瞬の猶予が、愛美を目覚めさせた。首筋に今にも牙が食い込みそうな予感の中、愛美は自分の力が爆発するのを感じた。
「破」
犬の身体が吹き飛ぶ。
黒い大きな塊は歪んだ放物線を描いて、窓に直撃した。窓ガラスが割れる派手な音に続いて、ドスンという何かが地面に叩きつけられる鈍い響き。
愛美は身体を起こすと、慌てて窓辺に駆け寄った。愛美は下を覗いて、顔を歪める。東大寺も愛美にならって窓に近付こうとしたが、思わず焦ってげぇっと叫んだ。
愛美は窓枠を乗り越えて、下に飛び降りる。ここは三階だ。
「ちょっと、普通の人に幾ら何でも無理や」
東大寺は窓枠を蹴って、落下していく愛美を捕まえると、中庭の石敷きの道の上に降り立った。
流石にこの高さだと足に響く。しかも自分の体重+愛美の体重だ。東大寺は腕に抱えた愛美を、そっと地面に降ろした。
愛美は東大寺を置いて駆け出すと、血溜りの側に近付いた。
本当に無茶をする子だ。後先考えずに飛び降りるのだから。
物事に夢中で、他には頭が回らないのだろう。それほど長谷部に、傾倒していたともとれる。
「長谷部先生」
愛美は血溜りの中に、膝を折った。
マッドドッグ――いや長谷部実が、石畳の道に両手両足を広げて仰向けに倒れている。
腹部が裂けて、臓器がはみ出していた。後頭部や全身から血が流れ出し、長谷部が倒れている周囲を赤く隈どっていく。
「ずっと誰かが僕を殺してくれるのを待っていた」
長谷部はまだ息があった。しかし、もう何も見えていないらしい。まるで何かを求めるかのように指を宙空に彷徨わす。
「騙そうったって、そうはいかないわよ」
愛美はそう言いながらも、長谷部の指を掴んだ。長谷部の顔に、安心しきった子供のような微笑みが浮かぶ。
「もう誰も、この手にかけたくなんかなかった」
愛美の頭は混乱する。どれが本当の長谷部で、どれが本当の彼の言葉なのだろう。
彼の想いは彼の願いは、真実はどこにあるのか。
「何言ってるの。何よ、それ」
信じれば裏切られる。長谷部を信じたがっている愛美がいて、長谷部の死が自分の所為だと認めたくない愛美がいる。
本当なら愛美は、長谷部に喉を噛み裂かれていた筈だ。それなのに彼は一瞬、躊躇したのだ。
「学校で転校生の君に初めて会った時、懐かしい気がした、なぜだろう」
「マッドドッグのあなたには、その以前に会っているもの」




