案件1 そして誰かがいなくなる 38
(……お人好しって。貴重な優しい人材に対して、まぁ)
だが、言い得て妙ではある。
分かり辛くマニアックな蘊蓄だが、綾瀬は分かり易い比喩を使うので雰囲気的には掴み易い。
「自身の損得や報奨で釣るには、言葉を重ねるしかない。呪文は、よりイメージし易い形で作られているが、時代や個人によって改定も加えられている。僧侶や神官は、文言をあまりいじる訳にはいかないが――別の神仏に差し替えたり、略したりじゃあ、信仰の根幹を揺るがすことになるからな。陰陽師の場合、信仰ではなく思想が根幹にある。陰陽道では木火土金水という世界を構築する五要素を表す呪文によって、その事物がもつ力を引き出すと言う」
綾瀬が、右手を振るとその手には形代が握られていた。
まるで超能力だが、東大寺の持つ力とは似て非なるものなのだ。
もう片方の指先で愛美にも見えるように紙に何か書きつけると、形代はあっと思う間もなく火を吹いて燃え落ちた――灰さえ残らない。
「私が今使ったのは、上月に伝わる火の呪法だ。陰陽師になるには陰陽力が必要で、誰もが持って生まれる訳ではないが、訓練によって身につけることはできる。陰陽力とは自然と同調する力。厳しい鍛練で能力を極限まで研ぎ澄ます為、優れた陰陽師は早死にしやすい。そして鬼道とは別名神の力とも呼ばれ、全てを制するとされる。卑弥呼だけでなく役の行者小角や、あの化生の陰陽師安倍晴明も鬼道に通じていたと言うが、今となっては何も分からない。陰陽道や他の呪法なら私と紫苑がレクチャーしてやれるが、鬼道ではな。頼れるのは自分だけだ」
綾瀬から陰陽道を教わりながら、愛美は早くも自分の限界を薄々ながら感じていた。綾瀬がそれほど愛美に期待を掛けていないことも、分かっていた。
立派な陰陽師になれと言って死んだ、二匹の山犬神の遺言を叶えてやることはできないのだろうか。
「私が陰陽師になるのは無理なんですか?」
「陰陽師の修練はアナクロでハードだぞ。断食。滝行。座禅。写経に武道。指示なら出してもいいが、やるだけ無駄だ」
鼻で笑う綾瀬に、愛美は悪かったわねとイーッとしてやった。子供っぽいと思われたって構うものか。まだ愛美は十六なのだ。
愛美は、綾瀬から渡された二通の退学届を丁寧に鞄にしまった。
緑ケ丘高校に在籍したのはたった一日だけなので未練はないが、立ち去るとなると少し寂しい気もする。落合朋子や林万里江とは、案外いい友達になれたかもしれない。