案件1 そして誰かがいなくなる 37
綾瀬は鏡をハンカチで包み直し、机の引き出しに仕舞い込んだ。綾瀬は本気でそう思っているらしい。愛美には自分がどうやったのかも分からないので、ただ黙っていた。
「【お前は陰陽師ではないな、鬼道を使うとは】そう言われました」
綾瀬は驚いたようだったが、顔色を変えたりはしなかった。
愛美が陰陽師に不向きなことは最初から分かっていたが、にも関わらず〈明星〉を召還して使い熟す技量があることを不思議に思っていたのだ。
「鬼道・・・か。日本史は得意だろう? 『鬼道を事とし能く衆を惑わす』卑弥呼について書かれた一文だ」
「『倭人は帯方の東南大海に在り、山島に依りて国邑を為す。・・・乃ち共に一女子を立てて王と為す。名を卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし能く衆を惑わす』魏志倭人伝ですね」
どこかで聞いたことがあると思っていたら、日本史の教科書に載っていたのだ。
綾瀬はそこまで覚えているのかと言うように、愛美を見直したようだった。伊達に日本史オタクは、自負していない。
「鬼道とは古代の呪術だ。陰陽道などよりもずっと古く、平安期以前に廃れたとされる。鬼道の名残は陰陽道や民間の土俗信仰にも残っているようだが、どうやら言霊信仰そのものだと考えられる。はっきりしたことは何も言えないがな」
綾瀬や紫苑にこの手の話をさせると、いつまでも講義を聞かされる羽目になる。
愛美が飽きてきて適当に頷いたりすると、余計に話が長くなるので神妙な顔をしていなければならない。
「言霊信仰とは、言葉はそれ自体が呪力をもっているという考え方だ。呪文というのも、言葉が持つ呪力を、引き出すことに他ならない。言葉によってイメージを定め、己の呪力の方向や量を調節する。呪力の介在を抜けば、超能力の催眠術に近いだろう。東大寺の力が加えられるのは、人間の脳に対してだけだが」
言葉には魂が宿るという考え方は、ヨーロッパやアフリカにまである。不吉な言葉を使うと不幸が訪れると、根強く信じられているぐらいだ。
「本来、どんな言葉でも呪文にできる。神道の祝詞でも真言でも、構文は単純だろう? 人が神仏と名付けた存在に呼び掛け、何をして欲しいかや、それへの報酬を明示する。人に頼み事をするのと変わらない。例えば私が、お前達に手伝えと一言言っても、内容も聞かず二つ返事で引き受けるのは、お人好しの紫苑ぐらいだ。遥ちゃんなど私への当てつけだけで、全面拒否するだろう」




