案件4 きみにあいたい 57
「いつか人々が事件を忘れても、真実が歴史の中に埋没してしまっても、私だけは決して忘れたりはしない。それが私にできる全てだわ。真実は胸の中に秘めておくべきものだと、あなたにもいつか分かるかも知れない」
萩原が、愛美の手を強く握り返してくる。
同意しているかのように愛美には思えたが、そうではなかった。萩原が愛美の耳許で低く「彼だ」と、囁いた。白い霧の中に人影が見える。
よかった。東大寺は無事だ。
二人の歩調が早くなる。愛美は敏感にも、足元の地面が岩場に変わったのを感じて足を止めた。つられて萩原も足を止める。
東大寺さん?
嫌な予感が、愛美の胸を締めつける。
愛美は、行っては駄目だと声を限りに叫んでいた。東大寺が驚いて、こちらを振り返る。
「東大寺さん!」
愛美は、東大寺がそのまま消えてしまうのではないかと不安になって、思わず彼の方に駆け寄ろうとした。
東大寺がやんわりと首を振って、微笑を浮かべる。大丈夫だと言いたいらしい。
東大寺は、前に差し出していた腕を、ぎこちない仕草で引き戻した。
俯いていた顔を、東大寺は上げる。そこには微笑が浮かんでいた。
「ごめんな千尋。俺、ちゃんと頑張ってるから。兄ちゃん一人でも、何とかやっていけるから、一緒にはいかれへん。俺はまだ死ねんのや」
愛美は、身体を硬くする。
そこにいるのか。
愛美には見えない。幽霊だから見えないのか。それとも、それは東大寺にしか見えないのか。
泉の水を飲んだ者だけに見える幻。
不意に霧が薄れたかと思うと、雲散霧消した。
愛美と萩原は、ほぼ同時に駆け出していた。東大寺が尻餅をつく。
「おい、大丈夫か?」
うっと呻いて、萩原が身体をのけぞらした。
東大寺が立っていたのは、切り立った崖の上だった。
深い谷底を、細い水流が流れている。
愛美は安堵して、思わず座り込んだままの東大寺に抱きついた。
無事でよかった。
「あと一歩でも動いていたら、まっさかさまね。いくら東大寺さんでも、助からなかったわよ。もう。心配させないでよね」
東大寺がすまんと一言、謝った。
本当に悪いと思っているのかと、問い詰めたくなる。
もう少しで死ぬところだったのだ。
萩原が呑気に崖下を覗き込んで、感嘆の吐息を洩らしている。
どっもどっちだ。
今の状況を分かっているのかと、愛美は文句の一つも言いたくなった。
(しかしそれにしても)
愛美は立ち上がると、辺りの空気を嗅いだ。
霧は消えたが、妙な気配がまるで愛美を呼ぶかのように流れてくる。