案件3 魔女裁判 43
気を取り直すかのように紫苑は口を開いたが、声からは覇気が失われていた。
「我が御名に於て命ずる。我が名は……」
我が名は…… 。
紫苑はそれ以上、言葉を続けることはできなかった。唇を手の平で押さえたまま、震えている。
愛美は、紫苑の突然の変化についていけず、うろたえた。
愛美が紫苑の肩を支えると、凉れた声で「私には出来ない」と呟いた。
「呪文を発動させる鍵は、洗礼名なんです」
紫苑が洗礼を受けていない筈はない。愛美は口にはしなかったが、紫苑には通じたらしい。
紫苑は力なく首を振ると、自分の名前が分からないのだと答えた。愛美はえ?と口を開きかけたまま、茫然となった。
名前が分からない。それが意味するものは一体何だろう。紫苑は……?
「私には、この悪魔に魔界に還るよう命じることはできません。それなら簡単なんですが、闘えば愛美さんに被害が及ぶでしょう」
困惑する愛美に、紫苑も困ったような顔をして俯いた。夕璃は勝ち誇ったように、最後通牒を突きつける。それが、彼女が女王様でいられた最後だった。
「召喚者の願いを叶える時は今よ。ケィフィウス。二人を地獄へと突き落としなさい」
突然、蝋燭の灯りが一本残らず消えた。悪魔の咆哮が、不気味に辺りの空気を振動させる。
悪魔の名をみだりに唱えることは許されない。
黒魔術に手を出すことは、自分の身を危険に晒すことに他ならないことを、この少女は理解していなかった。
無知が破滅を呼び寄せたのだ。地獄からの使者であるその悪魔は、甲虫のような巨大な腕を夕璃の方に伸ばした。
悪魔の鉤爪が夕璃の胴体に食い込むのを見ると、紫苑は愛美の肩を引き寄せて、守るように抱き締めた。
――悪魔トハ本来、人ニ与ミスルモノデハナイ。幾ラ召喚デ呼ビ出サレヨウトモ、望ミヲ叶エルカ否カハ、タブンニ我ラノ気紛レニヨルモノ。一度ダケナラマダシモ、性懲リモナク呼ビ出ストハ。ソノ魂、地獄ニ引キズリコンデクレル。
その瞬間。
夕璃の表情は、何とも捉えられない漠然としたものとなった。
悪魔の姿が、沼を思わせる闇の中に同化していく。それにつれて、悪魔に捕らえられたままの夕璃も呑まれていった。
少女は、驚愕と混乱がないまぜになった表情を浮かべていた。ズルズルと引きずり込まれ、ついには手首の先と、頤の先だけが見えるのみだ。
潮のように闇が引いていく。
「嫌ーッ!」
愛美は、夕璃の最後の悲鳴に耳を塞いだ。




