第2話
第2話
"捕食者"
梨沙がバイト先のパン屋に到着したのは、結局予定よりも20分早い時刻だった。
「(やっぱり早く着いちゃったか…)」
仕方ないものは仕方ないと思いながら、店内に入る。
するとすぐに、店主の女性、雪平彩が店の奥から出てきた。
「ごめんね梨沙ちゃん。急に入ってもらっちゃって…」
「いえ、どうせ暇でしたし、丁度良かったです」
心にも無い事を喋る梨沙。
「そう言って貰えると助かるわ。それじゃ、よろしくね!」
しかし、彩の混じり気の無い笑顔を見ると、まんざらでも無いかとも思えてきた。
「はい。よろしくお願いします」
店の奥に行き、エプロンを付けながら、壁に貼り付けてあるシフト表に目を通す。
「(今日入る予定だったのは…あの新人の子か…)」
その少女とは何度か会った事があるものの、人見知りが激しい梨沙はあまり彼女と喋った事が無く、親しい仲というワケではなかった。
「(悪い子には見えなかったけど、どうも話し掛けられないのよね…)」
自分の性格に、思わず溜め息を吐く梨沙。
その時、つい先程聞いたばかりの、自分の携帯の着信音が聞こえた。
「…今度は誰なの?」
誰に訊いたワケでもないが、そう呟いて携帯を開く。
「美由…?」
その名前を見た時、梨沙に嫌な予感が走った。
「どうしたの?」
『梨沙お姉ちゃん…。家の前に、お巡りさんが居る…』
「…警察が?」
『うん…。何か、ご近所さんで何かあったみたいなの…』
「何かって…」
何なのよ、と訊こうとする梨沙。
その時ふと、家を出た時に、近くの住宅から鈍い物音が聞こえた事を思い出した。
「…とにかく、お姉ちゃんが帰るまで家からは一歩も出ちゃダメよ?」
『わかった…。早く帰ってきてね…?』
「勿論よ。それじゃ…」
電話を切って、しばらく画面を見つめる梨沙。
「…どうしたの?梨沙ちゃん」
その姿を、いつの間にか彩がこっそりと見ていた。
「あ、雪平さん…」
「…何かあったの?顔色悪いわよ?」
「いえ、何でもないです…」
彩は梨沙を疑うように訝しげに見つめていたが、しばらくすると、表情を和らげてこう言った。
「…ま、緊急なようなら、遠慮しないで言ってね?」
「はい。ありがとうございます」
彩は安心したように微笑んで、売り場の方へと戻っていく。
「(何でもないわよ…きっと…)」
梨沙はここに来る前と同じように、自分に言い聞かせるように心の中でそう呟いた。
それから2時間後…
「お疲れ様、梨沙ちゃん。今日はもう上がって良いわよ」
「え?まだ片付けが…」
洗い場に行きかけて、立ち止まる梨沙。
「それは私がやっておくから、早く妹さんの所に帰ってあげなさい。これは店主命令!従わなかったらクビ!」
「は、はぁ…」
梨沙は、そこまで言われたら言う通りにするしかないと、渋々控え室に向かった。
「(妹さんの所に帰ってあげなさい…か。電話の内容、聞かれてたんだ…)」
今日は溜め息を吐く事が多いな、と思いながら、溜め息を吐く梨沙。
「(…電話入れておくかな)」
椅子に腰掛けた梨沙は、帰る前に一度美由に電話をする事にした。
しかし…
「(…寝ちゃったのかしら)」
美由は電話に出なかった。
梨沙は連絡を諦めて、携帯をしまう。
その時、部屋の中に慌てた様子の彩が飛び込むように入ってきた。
「梨沙ちゃん!ちょっと来て!」
「ど、どうしたんですか…?」
「いいから!」
「ちょ、ちょっと…!」
梨沙は彩に引っ張られて、売り場の方へ。
真っ先に目に入ったのは、彩が見ていたと思われるテレビのニュースだった。
「これ、今さっき入った速報らしいの。…梨沙ちゃんの家の近くよね?」
そのニュースには、梨沙の家の住宅街が映されていた。
「そうみたいですけど、何が…」
そこまで言って、画面の文字を見て言葉を切る梨沙。
"謎の殺人生物現る"。
梨沙は、恵美が話していた病原体の話を思い出した。
「何よこれ…!?」
「待って!」
焦燥感に突き動かされ、店を出ようとした梨沙を、彩が止める。
「"こっち"の方が早く着くわ。行くわよ」
彩の手には、車の鍵が握られていた。
「美由…」
美由が待つ梨沙の家に向かっている車の中で、無事を祈りながら彼女の名前を呟く梨沙。
すると、運転している彩が、助手席に座っている梨沙の前にあるグローブボックスを開け、その中にある物を取り出し、それを梨沙に渡した。
「…梨沙ちゃん。これを渡しておくわ」
「………」
彩が取り出した物は、1丁のハンドガンだった。
「こんな物…一体どこで…?」
「知り合いに"その手"の人間が居てね。護身用としていくつか譲ってもらったの。…まぁ、深くは訊かないでね?」
「はぁ…」
初めて持った銃の感触に、梨沙は困惑と恐怖の感情を抱く。
しかし、妹を守りたいという一心でその感情を振り払い、重く冷たいその銃を、強く握り締めた。
目的地に到着して、一番先に目に入ったのは、誰も乗っていない複数のパトカー。
梨沙は思わず銃を隠したが、それどころではないという事を思い出し、美由が居る家へと走って向かった。
家の扉の鍵を開けて、ゆっくりと中に入る。
家の中は洗面所やトイレ、更に普段使う事の無い物置までを含めた全ての照明が点いていた。
「照明が全部同時に点いてる家なんて、初めて見たかもしれないわ…」
「美由は恐がりな子なんです…」
苦笑いを浮かべる梨沙。
そんな一方、心の中では、こんな事も考えていた。
「(美由が…やったのよね…?)」
その時、2階の方から、"ガタン"という音がした。
「………」
「………」
顔を見合わせる2人。
梨沙は苦い表情を浮かべながら銃を取り出し、階段に足をかけた。
「美由…?」
声を出しては意味がないと思いながらも、足音を殺しながら進んでいく梨沙。
不気味な雰囲気に包まれた通路を歩いている内に、梨沙はここが自分の家ではないのではないかと思い始めた。
「妹さんの部屋はどこなの?」
「通路の一番奥です。…そこに居るハズです」
「そう…」
いつの間にか、彩も手に銃を持っている。
しかし、梨沙はそれを見ても、何とも思わなかった。
考えているのは、ただ1つ。
「(美由…)」
妹の安否、それだけだった。
美由の部屋の前に到着し、梨沙は恐る恐る呼び掛ける。
「美由…?居るの…?」
返事は無い。
梨沙は覚悟を決めて、扉を勢いよく開けた。
そこで見た光景に、2人は言葉を失う。
どく黒い血が壁の至る所に付着しており、部屋の中はその臭いが充満していた。
そして部屋の真ん中には、見た事の無い人物が、頭から血を流して倒れている。
当然、何があったのかなど、わかるハズも無かった。
「美由…!美由ッ!」
「梨沙ちゃん、落ち着いて。彼女がここに居ない事は確かなんだから、早く探しに行きましょう」
混乱状態の梨沙を、冷静な彩が宥める。
「美由は…どこに行ったんですか…!?」
「それはわからないわ。でも、ここでこうしているよりも、1秒でも早く妹さんを探し始めた方が良い事は確かな事よ」
「で、でも…!この部屋…」
そう言って、部屋の惨状に再び視線を移す。
その時、部屋の真ん中に横たわっている死体が、ぴくりと微動した。
「え…?」
目を疑う梨沙。
彩は動いたその死体に銃を向けて、じっと見つめていた。
「…梨沙ちゃん。銃を構えて」
「そんな…。だって、あの人はもう死んで…」
梨沙がそういい掛けた瞬間、突然その死体の腹部に大きな穴が開き、そこから大量の血が噴き出す。
そして穴の中から、人間の子供ぐらいの大きさの、芋虫のような生物が這い出てきた。
「な…何…これ…」
「………」
呆然とする梨沙と、まばたきもせずに銃を構えて警戒する彩。
しばらくすると、その謎の生物は自分が這い出てきた死体を、体に唯一ある不気味な口でむさぼり始めた。
「ッ…!?」
その光景に吐き気を覚える梨沙。
彩は銃を構えたまま、じっとその様子を見ていた。
死体をむさぼり終えた謎の生物は、飛び跳ねるようにして、死体から離れる。
そして、血まみれの口の中から、吐き出すように目と鼻が無い頭部を露出した。
そのまま、腕や足と思われる部分も次々と生えてくる。
結果、瞬く間に人間の大人に匹敵する程の大きさになり、後に"捕食者"と呼ばれる事になる生物に進化した。
「何よこいつは…!」
捕食者に狙いを付け、発砲する彩。
銃弾は胴体の部分に命中したが、特に怯んだような様子は無かった。
「雪平さん…!逃げましょう…!」
逃走を促す梨沙。
しかし彩は、それを却下した。
「いえ、ここで仕留めるわ」
「ど、どうしてですか…!?」
「奴の正体が気になるの。倒して調べてみようと思うわ」
「そんな…!?」
そこで捕食者が、銃を構えている彩に突進してくる。
彩はそれを避けて、捕食者の背中に銃弾を3発撃ち込んだ。
「…ダメね」
しかし、効果は無い。
すると今度は、壁を背に立っている梨沙に向かってゆっくりと歩き出した。
「い、いや…!来ないで…!」
足が震え、その場に崩れてしまう梨沙。
捕食者は、形が崩れているその手を前に出し、梨沙に掴み掛かろうとした。
その寸前で、彩が背後から近くにあった木の椅子を、捕食者の後頭部に勢いよく叩きつける。
更に、その衝撃で大破した椅子の木片を拾い、心臓の部分に突き刺す。
その一撃が致命傷になったのか、謎の生物は倒れてもがき苦しみ始める。
彩は謎の生物の胸部を踏みつけて、頭部に3発銃弾を撃ち込み、トドメを刺した。
「…ふぅ」
謎の生物が動かなくなった事を確認して、銃をしまう彩。
梨沙は謎の生物の死体を見つめて、放心状態のようになっていた。
「…大丈夫?」
彩が手を差し伸べる。
「大丈夫…です…」
梨沙はその手を掴んで、引き上げられるように立ち上がる。
彼女の足は、まだ震えていた。
「さてと…」
彩はしゃがみこんで、謎の生物の死体を調べようとする。
その時、異臭を放ちながら、突然死体が溶け始めた。
「え…?」
喫驚し、思わず立ち上がる彩。
調べる間もなく、謎の生物の死体があった場所には、緑色の液体だけが残った。
「…行きましょう」
死体を調べ損なった彩は舌打ちをして、部屋から出て行く。
「………」
梨沙は緑色の液体をおぞましそうに見つめた後、彩を追って部屋を出た。
第2話 終