Ⅶ展開
「……死にたい」
閲兵を終えて間借りの邸宅に戻ったエストリカは、げっそりとした表情でそう言った。演説はこれ以上なく上手くいった。基礎教養として弁論をしっかり学び、直前まで練習していた甲斐があったと言うものだ。しかし、なぜ剣を抜く練習をしておかなかったのかと、激しい後悔が満足感を彼方に押し流していた。
これからゴルニア方面軍の行動指針を決定する会議が開かれるのだが、エストリカとしてはベッドに潜り込んで全てを忘れてしまいたい気分で一杯だった。
「所詮は挨拶ですから、そこまで気にしなくてもよいと思いますが」
アリウスは慰めを口にしたが、彼自身も新作の出足に関する不安を覚えており、言葉尻が揺れているし、曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だった。
せめてもの救いは、エストリカの連れていたフレースが、留まり木がわりにしていた軍旗の上から飛び立って、剣を拾ったことだ。単にいつもの――投げた物を取って来る――遊びの一環だと思ったのかも知れないが、何にせよ、最後の面目は保った形に落ち着いた。
鷹は帝国軍の象徴であり、軍神ジグラトの遣いでもある。そのため軍旗の先端には鋳造された鷹の象が鎮座している。強引に解釈すれば、今回の戦争に勝利の加護を得たと、そう考えられなくもない。
しかし、多感な十六歳の少女には、とんでもない過失だった。特に拾い上げた剣をやけくそで掲げた直後に、将兵が「おー……?」という困惑混じりの声で掲げた勢いのない剣の林はトドメに等しかった。せめて、せめてそこは見なかった事にして、調子を合わせてくれるぐらいの優しさがあっても良かったのではないか。エストリカの最後の望みを打ち砕いたのは、純朴すぎて気の利かない兵士たちだった。
「このままでは、総督としての威厳が……」
せっかく緒戦を制したというのに、すべてが台無しである。
「良いではありませんか」
エストリカの苦悩に、影のように付き従っていたシノンが、気楽に応じた。
「何も良くはない!」
噛みつかんばかりの勢いでエストリカが返すと、気心の知れた奴隷はしれっと答えた。
「ドジっ子総督として、一部のマニアックな男性の心はがっちり掴みましたよ」
「ど、ドジっ子……」
アリウスの目には、衝撃の一言にたじろいだエストリカの脳内で、がらがらと音を立てて崩れさる理想像が見えたような気がした。
エストリカは颯爽とした自身の雄姿を妄想していたに違いなかった。軍団を勝利に導く戦女神として、部下の信頼厚く、難局に屈せず、最終的な大勝利を手にするのだと夢物語を膨らませていたのだろう。先の演説からしても、そうしたヒロイズムが匂っていた。
が、現実はそんなに甘くはないのさ。過去の自分を棚に上げて、アリウスは世間知らずな少女の願望をそんな風に評した。
「あー、おほん」
そのうち脱走しかねない総督を見かねて、咳払いで注意を引きつけたのは、他でもなく軍団長のトゥリアスだった。
「そろそろ軍議を始めたいと思うのですが、よろしいでしょうか?」
慇懃に尋ねた軍団長に、エストリカは消沈した様子でうなずいた。室内にはすでに二人の大隊長と主席百人隊長、それに財務官などの軍団幹部たちが参集していた。
「まずは現状の確認をいたします」
不慣れな上に落ち込んでいるエストリカに代わって、トゥリアスが会議の音頭を取った。特に慰めたりしないのは、それが無骨な男の優しさと言うより、年頃の少女の扱いに苦慮する父親の心境だった。
「数日中にはエシュシュの後片付けも一段落するかと。それと、編成の遅れていた補助軍団ですが、こちらも近日中にウァリクムを進発するとの報告がありました。十日以内には合流できるはずです」
エストリカは気のない様子でうなずいた。それを見かねたアリウスが口を挟んだ。
「騎兵が千騎、軽装歩兵が三千でしたね。これで正規軍団と合わせて一万弱。戦力としては最低限を確保できたことになります。将軍としては、この先の展望をどのように?」
トゥリアスが彼の副官に命じて地図を持って来させる。
卓上に地図を広げてから、トゥリアスは口を開いた。
「来春まで軍団の訓練を行うとしていた当初の計画を変更し、補助軍団の到着を待って東進。今年中にスタニウムを攻略すべきと考えます」
意外な具申に、エストリカとアリウスは首を傾げた。それはエシュシュ奪還に際して慎重な姿勢を見せていた将軍が、積極的な主戦論を展開したからというだけではなかった。
スタニウムはルーヴェニア族と唯一肩を並べるロンダリア族の本拠地であった。当然、その規模はエシュシュとは比較にならず、急襲による不意打ちでどうこうできるような城市ではない。そして、冬の訪れの早いゴルニアにおいて、エステルの月が終わる頃には本格的な冬季が始まっているだろう。
素人目にも上策とは思えなかったが、エストリカは慎重に将軍の様子を窺った。
「……理由は?」
「補給線の問題ですが、畢竟すればゴルニア王を僭称する男が現れたためです」
エストリカは眉をひそめた。二つとも、すでに問題としてエストリカの耳にも入っていた。しかし、その二点がどのように結び付くのかが、彼女には理解できなかった。
「ゴルニア王とやらは、先の動乱の際に王を名乗った――エルニムス、であったか? その遺児と聞く。しかし、その支配力は弱いのではないか?」
「確かにそうでしょう。父親の威光と血統を除けば、何も持たぬ若者です。ゆえに、エシュシュで同胞を処刑するというような暴挙に出たのです。足りぬ威厳を恐怖によって補おうとしたと考えて間違いないでしょうな」
トゥリアスは、エストリカへの説明を続けた。
「しかし、実際にゴルニア王を継ぐ者が出て来たことで、ゴルニアの諸部族に抵抗の機運が広まることも間違いないでしょう。また、速やかに奪還したとは言え、エシュシュを一度は奪われた事で、親エルトリア系の部族にも動揺が走ったと思われます」
エストリカはうなずきながら、頭の中で図式を整理する。エシュシュ近辺に定住するサンギ族、その北方に位置するトゥーレ族を筆頭に、周辺の小部族は親エルトリアの姿勢を見せていたが、一方でルーヴェニア族やロンダリア族といった大部族の動向を注視している。
「諸部族がゴルニア王の下で結束する前に、彼らを我が方に引き寄せる決定的な勝利が必要です。副官殿の言う通り、軍勢の規模は最低限でしかなく、全軍を前線に投入せざるをえませんので、補給線の確保は友好部族に頼るしかないのです。幸い、スタニウムまでの補給路は概ねサンギ族など親エルトリア派の勢力圏内です。彼らの支援が確実な内に行動するべきかと」
「つまり、ルーヴェニア族の叛意がロンダリア族に飛び火しない内に、ロンダリア族の本拠地を叩くべきだということですか?」
アリウスが要約すると、将軍はいかつい顔を縦に振った。
「ルーヴェニア、ロンダリアの両部族が統一戦線を形成すれば、一万弱の軍勢では手出しできなくなります。とはいえ二大部族ゆえに、ゴルニアの覇権を争った不仲な歴史がありますゆえ、おいそれと連合は成らんでしょうが、予断はできないかと」
「だが、今の練度でスタニウムを落とせるのか?」
「幹部は攻城戦の経験がありますので、相当の被害を覚悟すれば、可能かと」
エストリカは目を閉じた。それはエシュシュを即座に奪回しようとした時と同じ命題だった。被害のない勝利などあり得ないが、勝利するために犠牲を払う価値がそこにあるのか、どうか。そういう問題だ。
が、最悪は引き返せた前回とは違う。今回は気軽に引き下がるわけには行かず、本格的な攻城戦になることは必至だった。
「もし、もしも、来春まで行動を待てば……?」
「訓練を積ませれば、スタニウムを奪取するための犠牲は最小限になるでしょう。が、最悪の場合、反エルトリア勢力に囲まれてスタニウムを落とせぬまま孤立無援となり、帰り道を失うことさえ覚悟しなければなりますまい。無論、これはゴルニア王とやらの政治手腕次第ですが」
そこにアリウスが口添えした。
「ですが、こちらに決起の情報が入る前にエシュシュ攻略に着手した相手です。それぐらいはやるかもしれません」
幕僚の言うことは、説明されてみればもっともだった。だが、エストリカは即決できなかった。
「他に、もっと確実な方法は?」
「……着実に支配領域を増やし、十年、二十年とかけて徐々にゴルニアを呑み込んで行くのが、最も確実な方法でしょう」
エストリカは首を横に振った。総督の任期は五年だ。借金のこともある。だが、何よりもエストリカの心を強く揺らしたのは、こんな北の果てで若さを浪費していいのか、という一人の少女として切実な自問だった。
「……少し、考えさせて」
うつむいたまま、少女は力なくそう言った。
トゥリアスたちは目配せをかわして、「では、今日のところはこの辺りで」と、結論を出さぬまま会議を解散させた。年端もいかない少女に重大な決断を強いているという引け目を感じないではいられなかった。
どうするにせよ、補助軍団の到着まで時間がかかる。それまでに考えを纏めればいい。だが、同時にトゥリアス将軍の提案を採用するなら、そこがタイムリミットになる。冬は近い。決断を促すだけの材料はあり、傍目にもどうすべきかは明白なように見えたし、エストリカ自身もそれを理解している。
だが、即断即決はできなかった。
会議の解散からしばらくして、エストリカは就寝前に身を清めていた。考えがまとまらないなら、少し寝て気分を変えた方がいいとシノンに勧められたからだった。一抱えもあるタライに湯を張って、その中に座り込んだ主の背中を、シノンが布で丁寧に拭っていく。
「どうされましたか?」
エストリカの大きな溜息を見て、シノンが口を開いた。従前の会議内容など知らぬような、いつも通りの口ぶりだった。
「……シノン、わたしには総督を務める価値があるのかしら?」
いつになく気弱な発言は、幼少期から姉妹のように育ったシノンにしか聞かせられないものだった。とは言え、それは常に心の隅に引っ掛かり続けた疑問でもある。元来の性格がそうさせるにしても、部下に弱みを見せられないと思えばこそ、強気に振る舞っている面もあった。
時代の常識に合わせれば、若すぎるとはいえ重職に就く資格はあったし、それは枢密院が保障する所でもあるが、エストリカの問いはそうした「公的な」意味合いではなかった。
アリウスのような知略も、トゥリアスのような武勇も持ち合わせていない。エストリカは直系皇族という肩書があるだけの十六歳の少女に過ぎなかった。
「さあ?」
気楽に答えた奴隷に、エストリカは肩越しに睨みつけた。すると、シノンは笑みを浮かべた。
「姫様の悪いところは、すぐに何でも決めつけてしまう所です。白か黒か、その場ではっきりさせようとする所です」
「今は精神修養の話などしていないわ」
「そうですね。わたくしには軍事の知識などございませんから、総督の適性など分かりません。ところで、逆にひとつお窺いしたいのですが」
「なに?」
「総督というのは、姫様が務められるほど価値のある役職なのですか?」
すっとぼけたシノンの言葉に、エストリカは思わず呆れてしまった。
「何を言うかと思えば……」
「わたくしは務めを終えて、姫様に解放して頂いた後は服屋を営もうと思っています」
丁寧に白い肌を拭いながら、シノンは無関係に思える話を始めた。解放奴隷となれば、参政権こそないが、私有財産は認められる。奉公時の貯蓄と、解放時の支度金を元手に商売を始める解放奴隷は多い。
それはエストリカも知らなかったシノンの夢だった。
「最初は小さな店になるかもしれません。エリシオスで店を持ち、少しずつ商売を広げて、各属州の州都に支店を持つぐらいの大店に育て上げる。それがわたくしの夢です」
「素敵な夢ね。もっとも、そうするとシノンを解放奴隷にする際には、かなりの支度金を取られそうだけど。……こんな所で、借金を抱えて死んでもらっては困るということかしら?」
「そうですわね」
くすくすとシノンが笑ったので、エストリカもちょっとだけ笑った。しかし、声を上げて笑うような気分にはなれなかった。ゴルニア征服に失敗すれば、姉妹のように育ったシノンの夢も壊してしまうかもしれない。
「姫様は」と、改めてシノンが口を開いた。「一度も夢をお話して下さいませんね。とうてい総督になりたかったとも思えませんけれど、姫様は何になりたかったのですか?」
「わたしは――」
エストリカは答に詰まった。改めて自問すれば、彼女の中に夢などなかった。
普通の貴族の娘なら、こう答えただろう。素晴らしい恋をして、なに不自由ない幸せな生活を送る事だ、と。くだらないとは思わない。しかし、エストリカは同じように夢見る少女ではいられなかった。
他人はどうであろうと、それではつまらないと思ったからだ。
「チャンスだと思った。ただ誰かの妻で終わるなんて、我慢できない。枢密院議員に継ぐ地位を得られる。そうすれば世界が変わると、そう思ったわ」
だが、降って湧いたチャンスを手にしただけでは、何も世界は変わらない。エストリカは今もなお、自分では何もできないお飾りの姫君に過ぎなかった。
帝国の威信を背に、ゴルニア人と交渉することはできる。総督の地位を盾に、大人たちに命令することもできる。だが、それはエストリカ自身の力ではなかった。それは偉大な帝国の力であり、突き詰めれば皮肉にもエストリカに居丈高な命令を下した枢密院の力だった。
作戦を提案したアリウスと、それを実行したトゥリアスは、軍団内で大いに株を上げていた。翻ってエストリカを称賛する声は寡聞にして聞かない。なるほど、それが正統な評価というものなのだ。
実際、総督が他の誰であっても、部下の足を引っ張る無能者でない限り今の結果は大して変わらなかったはずだ。十代の小娘に何ができると、そのように見くびられて、あれは飾りなのだと断じられても仕方ない。まだエストリカは実力の片鱗も示してはいない。
しかし、その風評に甘んじて、すべては有能な部下の功績だと仁徳者面するぐらいなら、枢密院の吹っ掛けた喧嘩を買って辺境に赴任したりしない。
それはエゴイズムとも呼べる自己顕示欲だった。わたしはここに居ると、わたしの生き方をだれにも否定させないと、叫んでやりたかった。だから、わたしを見ろ。だれにも無視させない。軽んじさせない。ラヴィニア・エストリカは大した女だと、見直させてやる。
「わたしは何者かになりたい。皇帝の娘ではなく、ただのエストリカとして、名を知らしめてやりたい!」
言葉そのものより、危うく張り詰めた青い瞳が狂おしいほど絶叫していた。それが皇女として生を受け、飾り人形と見なされて来た少女の渇望だった。
シノンは黒い瞳を軽い驚きとともに瞠った。彼女の主は気が短いし、気に入らない事があるとすぐに拗ねる。だが、それと同時に少女にしては聡明すぎる知性が災いしたと言うべきか、我がままを言わない質だった。
性格とは関係なく、むしろ淡々と与えられた役割を演じる少女である。あるいは皇女として相応の器だったと言うべきか。だから、総督としてゴルニアに赴いた時も、口では不満を漏らしながら、いつもと同じように振られた配役をこなしているに過ぎないのだと、シノンはそのように思っていた。
「そうですか」
溜息混じりに呟いたシノンの声は、優しい諦観に彩られていた。これでは、逃げろと言えるはずもない。順当に五年をやり過ごしてエリシオスに戻ればいいと、言えるわけがない。なぜなら、その時、エストリカは自身を今度こそ人形として認めるしかないのだ。
「ならば、なさるべきを、すでに姫様は知っておられるはずです」
背後から優しく抱きしめられて、エストリカは小さくうなずいた。
やってやる。失敗してもいい。笑われても、嘲られても――たとえ恨まれても、ゴルニアを征服する。その時にこそ、ラヴィニア・エストリカは何者かとして天に輝くのだ。
「やってやる」
全てを振り払って走り出した、それが少女の不器用な青春だった。