Ⅲ急報
このたびエストリカ麾下の第十二軍団として再編されることになった第二十六軍団は、元々は西部ゴルニアに広がるウァリア属州総督の下で編成された。
それ以前にもウァリア属州にはすでに三個軍団が配置されており、加えて二個の補助軍団を擁し、総兵力は二万を超えていた。属州防衛としては過剰とも言える戦力であったが、その上で新たな軍団の編成に許可が降りたのは、抵抗を続ける東部ゴルニアへの遠征計画のためだった。
ボーレア山脈に抱かれる形でなおも独立を守る東部ゴルニアは、四半世紀前に大規模な反攻作戦を展開しており、一時はウァリア属州の都ウァリクムの陥落が危ぶまれる程だった。二十年以上もかかってようやく鎮圧したが、それが二年前に実施されたゴルニア遠征のきっかけだった。
「従う者には寛容を、逆らう者には破滅を与えよ」
それがエルトリア人のモットーである。敵を退けるだけでは不十分で、敵は二度と立ち上がる事を許さぬほど徹底的に叩くしかない。小さな都市国家から始まったエルトリアを世界帝国にまで押し上げたのは、自らが滅ぶか、敵が滅ぶまで、諦める事を知らない信念だった。小さな都市国家にとっての戦争とは、生存競争だったからだ。
伝統とも言うべき信念はいまだに色濃く残り、かくしてゴルニア遠征は三個軍団と二個補助軍団によって大々的に始められたが、結果から言えば無惨と言えるほどの失敗だった。ボーレア山脈の裾野にあるエシュシュという城市を手に入れた他にこれと言った成果もないまま、遠征はなし崩し的に終わり、残ったのは消耗した軍団だけだった。
その中でも第二十六軍団は被害が甚大だった。遠征のために創設されたが故に、主力軍団として激戦の連続にさらされたからだ。軍団兵の半数と百人隊長の八割を失って、ほとんど全滅寸前の惨状だった。
「それでも全滅せずに帰還できたのは、軍団長のトゥリアス将軍の采配に負う所が大きかったとか。実戦経験、部下からの信望、ともに問題ないように思えます」
と、アリウスは居心地の悪さを感じながら、調査報告書を読み終えた。無論、それは上司たるエストリカに向けてのものだったが、当の上司は衝立の向こう側で着替えている最中だった。シノンの立ち回る音とともに、微かな衣擦れの音が聞こえて来る。
それだけなら気まずい程度で済むのだが、衝立の上には鷹のフレースが見張りのように留まって、しきりにアリウスを警戒しているので、何とも居心地が悪い。はっきり言えば、ここに居たくない。
「愚将ではないようで安心したわ」
アリウスの調査報告を口頭で聞いていたエストリカの感想は、聞きようによっては辛辣だった。事実だけを見れば、全滅させなかったとは言え、結局は軍団を壊滅させた将軍なのだ。そのような人物が、そのまま第十二軍団の軍団長として居座る事に、エストリカは強い懸念を示していた。
ただ、実戦経験者は必要で、エストリカやアリウスには、戦歴豊富な将軍を引き抜いて来られる人脈も政治的バックボーンもない。
やむなく、本当に無能ならば罷免、そうでないようなら続投という折衷案を受けて、アリウスが情報収集に当たっていた。とは言え、軍団や総督府の設置に関してアリウスも多くの雑務を抱えており、人手はまったく足りない。将軍の調査が完了したのは遅れに遅れて、第十二軍団と合流すべくウァリクムに入城した後の事だった。
エストリカが着替え中に報告をさせているのも、これからそのトゥリアス将軍と初面談を行うからだった。ウァリクムに入城したのは昨日のことだったが、旅の疲れを癒すのもそこそこに、何事につけても急ぐ必要があった。
総督就任の辞令を受けてから四十日ほどが経っており、今はエステルの月十日になっていた。残暑はとうに過ぎ去って、すでに秋の気配が色濃くなっている。軍事的に重要なのは、冬が近づいていると言う事だった。
北方に位置するゴルニアは積雪量が多く、自然と厳冬期の軍事行動は避けられる。無論、すぐさま遠征に取り掛かるわけではないが、せめてボーレア山脈を越えてエシュシュに入っておかないと、「ゴルニア総督府がウァリア属州にある」と言う奇妙な状況でひと冬を越えることになってしまう。
加えてエストリカの総督就任が枢密院の嫌がらせなのだから、現地入りの遅れは批判の材料として有効活用されてしまうだろう。
と言うわけで、新属州と新軍団設立のための手続きやらに大いに時間を取られたエストリカたちに、余分な時間は残っていない。
アリウスはこっそりと溜息をついた。引きこもりに近い文学青年は長旅にすっかり疲れていた。今日一日ぐらいはぐっすり寝て、ゆっくり湯につかりたい気分だった。
「シノン、少しお腹がきついわ」
「これぐらいの方が見栄えがします。……少し太られたのでは?」
「ち、違うわよ! これは――成長! そう成長したのよ!」
何とも明け透けな会話が聞こえて、アリウスは栗色の巻き毛をかき回した。あの主従はこちらの事を忘れているのではないだろうか?
さらに気まずくなったものの、こっそり部屋を抜け出すわけにもいかず、わざとらしく咳払いして存在をアピールする。
「……まだ居たの?」
嫌そうなエストリカの声が聞こえて、ほら見ろと言った気分だった。アリウスの前で年相応の言葉遣いを見せるようになったエストリカは、副官に気を許したと言うより、ただ扱いがぞんざいになっただけのような気がしてならなかった。苦々しさを抑えて、アリウスは事務的な口調で応じる。
「まだ総督閣下の御裁可が下されていませんので」
「裁可?」
「トゥリアス将軍を罷免するか、どうか」
「続投でいいわ。他に候補者もいないんでしょう?」
「ええ、まあ……」
エストリカの人事権が及ぶ範囲で、実戦で軍団を指揮した経験者は他に居ない。
「よっぽどじゃない限り、将軍は罷免しないと決めたはずよ。少しぐらい頭を使いなさいよ」
エストリカの容赦ない言葉にも一理ある。しかし、それはそれとして、そちらも少しぐらい気を遣ったらどうなんだと思わなくもなかった。もっとも、それも口に出せば空しい抗議である。借金さえなければ、こんな所に来る事はなかった――と言う前提がどうあっても覆らないからだ。
それはそれとして、状況に流されるままに望みもしない職務に従事するなど、アリウスには耐えられない。ならば、どうするか。悩みはしたものの、答は単純だった。
この征服戦争の実録記を著して世に問うのだ。思い付いてしまえば、それは素晴らしい企みのように思われた。何しろ十代半ばの皇女殿下が新たな属州を征服しようと奮闘する物語である。まず間違いなく大衆受けする。うまくすればベストセラー作家の仲間入りも夢ではない。あるいは作品を原作として演劇など公演されるかもしれない。
と、浮かれた気分でそこまで考えて、アリウスは一転して沈んだ気分にならざるをえなかった。「うまくいく」と言うのは、叙述の問題ではなくて、この戦争そのものの帰結に頼らざるを得ないからだ。敗北の記録など、誇り高いエルトリア人は読みたがらない。果たして、この征服戦争がうまくいく確率がどのぐらいあるのだろうか。
「いつまでぼーっとしているつもり? 行くわよ」
身支度で散々に待たされたアリウスに向かって、着替えを終えたエストリカは「気も利かないないんだから」と余計な事を言った。背後に控えたシノンが厚手の布を撒いた腕を差し伸べ、衝立からフレースを飛び移らせていた。
「分かってますよ」
憮然としたアリウスが答えて、部屋を出るエストリカの後に続いた。
エストリカたちが滞在しているのは、商人の邸宅だった。ウァリクム一番の豪商という触れ込みに違わず、大きな屋敷はエルトリア風の彫刻や壁画で彩られた豪奢なものだった。その客間を借りて、トゥリアス以下、第十二軍団の幹部たちと面談することになっている。
気ままな歩調で先を行くエストリカは、さすがに皇女らしく贅をこらした衣装と装飾品を身に着けていたが、中でも目を引くのは、繊細な金髪の上に戴く黄金の月桂冠だった。エルトリア帝国において、皇帝の権威を象徴する冠であり、つまるところ至尊の冠である。
それは出征する愛娘への、皇帝のせめてもの手向けだった。
「そなたに兜は重すぎようし、前線に出る事もあるまいから」
と、本来なら皇帝以外の戴冠が許されぬ月桂冠のレプリカを与えたのだ。さすがにこの処置を枢密院も阻害しなかった。確かに華奢な少女にゴテゴテと装飾のついた総督の兜は重すぎるし、レプリカを与えた所でどうなるものでもないからだ。逆に言えば、ラヴィヌス帝は実効性のある土産を娘に持たせることができなかった。
近衛軍団からエストリカの親衛隊を抽出することもできなかったし、十分な支度金を用意することもできなかった。それだけ病身の皇帝の権力は弱体化していた。他に与えられたものと言えば、多少の忠告だけだった。
「ゴルニア人を侮るな。信用するな」
治世の多くの時間をゴルニア問題に消費させられた皇帝の言葉である。西部ゴルニアはウァリア属州と名を変えて、征服から半世紀を経ても、なお情勢が安定しない。叩いて消しても、次から次に火が付くのが、ゴルニアという土地だった。
それというのも、東部の奥地にかつてルーヴェニア帝国を形成した主要部族が残っているからだった。皇帝までもが地方反乱に手を焼かされたのも、ルーヴェニア族の首長がかつての帝国再建を旗印に、全ゴルニアで反乱を扇動したからに他ならない。
二十年以上も反乱の鎮圧とウァリア属州の鎮静化に奔走した皇帝は、あるいはその生気をゴルニアの大地に吸い取られたようにも見えた。まだ初老には早いと言うのに、金髪は白くやせ細り、顔には苦悶を示すような深いしわが刻まれて、まるで衰弱した老人のようだった。
「ハルニウスの末よ、娘をしかと頼むぞ」
出征に当たっての謁見に付いて行ったアリウスに声をかけた皇帝は、老いて見えるだけ余計に、娘を心配するばかりの普通の父親に見えた。
自身が散々に手を焼かされたゴルニアに娘を送り出す心境いかばかりか、結婚すらしていないアリウスには想像も付かなかった。もっとも、そんなことよりもアリウスが気になったのは、エストリカを守り切れなかった場合、皇帝が自分にどのような処断を下すかという一点だった。
……どう考えても処刑しか思い浮かばなかった。名門の家名も零落したとあっては、皇帝の怒りの前に役には立たないだろう。しかし、剣も乗馬も素人以下と従兄弟に評されたアリウスに、エストリカを守ることなど覚束ない。
やはり、ここはトゥリアス将軍に頑張ってもらうしかない。将軍の素晴らしい采配で、エストリカを危険にさらさず、なおかつゴルニアを征服してもらう。……無理だ。三個軍団以上の遠征が失敗したのに、一個軍団ぐらいでどうにかなるとは思えない。
「……これは、もしかして詰んでないか?」
「何が?」
エストリカが振り返っていた。思考が口から漏れていたことに気付いて、アリウスは引きつった笑顔で「何でもありません」と答えた。
「そうか」
エストリカは拘る様子もなくうなずくと、将軍たちが待っている客間に足を踏み入れた。最近になってアリウスは気付いたのだが、皇女殿下は非常に大雑把な性格のようだった。興味か必要がない限り、だいたいの事には「どうでもいい」と言わんばかりの表情を見せる。どうりでサインの字が汚いはずだと思わなくもない。
エストリカの入室とともに、待たされていた軍の高級将校たちが一斉に立ち上がって、挙手の礼を取った。エストリカが軽く手を上げて応じながら、客間の主座を占める。アリウスはその右後方に立った。
第十二軍団の幹部たちは、いずれ劣らぬ巨漢ばかりで、決して背が低いわけではないアリウスが小さく見えるほどだった。しかし、それとてこのウァリア属州では珍しくもない。彼らはウァリア属州出身のゴルニア人であり、彼らの平均より大幅に体躯が大きいわけではないからだ。
これがゴルニア人か。意識的に彼らを睥睨するようにしながら、エストリカはその迫力に改めて思った。なるほど、これほど立派な体格の持ち主が多ければ、統治にも手を焼くはずだ。エルトリア人は個々人の腕力では敵わないだろう。
が、なにも腕力ばかりが事を決するわけではない。多種多様な民族を擁する諸国を統治する技術こそ、エルトリア帝国の真髄である。
総督の着席を待って腰を下ろした将校の中で、年長の中年男が口を開いた。
「このたびは皇女殿下を総督としてお迎えできましたこと、エルトリア帝国軍人として、光栄の至りにございます」
脂の乗った四十半ばの男こそ、軍団長のトゥリアス将軍だった。エルトリア人としては破格と言える巨漢は、ゴルニア人と並んでも遜色なかった。ぎっしりと筋肉の束を詰め込んだ肉体は、重厚な存在感を放っている。いかにも無骨な軍人といった顔立ちだが、一方で額に張り付いた細い髪がアンバランスな印象を与える。どうも将軍は後退した額を気にして、残った毛で隠そうとしているらしかった。
エストリカに祝辞を述べながら、無骨な外見に似合わぬ繊細な手つきで落ちかかる髪を直す姿は、余計に惨めったらしく見える。
「社交辞令はよい」
エストリカは彼女らしいとも言えるぞんざいさで将軍の口上を遮った。トゥリアスの目元が、一瞬、危うい感じで引きつったのを、アリウスは見逃さなかった。危惧した反応だったからだ。
実戦経験豊富な将軍からすれば、総司令官として軍務経験のない小娘を頂くことに不満がないはずがない。だからエストリカはトゥリアスに気を遣わなくてはならない。何かにつけて将軍を引き立ててやることで、ようやくトゥリアスも協力的な態度を取ることだろう。
なのに、当の総督はそのような些事を気にしなかった。
「何よりも時間が惜しいのは、貴公らも知るところであろう。わたしははるばるゴルニアまで遊びに来たわけでも、まして飾られに来たわけでもない。状況は?」
「は……エシュシュに関しては小康状態と言ったところであります。特に目立った衝突もなく、近隣の部族は友好を約定しておりますので、冬営地として駐留するに際しても問題はないかと」
明らかに鼻白んだ様子でトゥリアス将軍が応じた。他の幹部も当惑した様子だった。
「ゴルニアに動きはないのか?」
「奥地のルーヴェニア族に不穏な動きがあるとの報がもたらされておりますが、なにぶんゴルニアの最奥部ですので帝国の威光も届きにくく、いたずらな叛意はいつもの事と言ってよいかと」
「うむ。こちらの状況……軍団の編成はどうなっているか?」
「先に報告いたしました通り、編成は完了しており、古参兵を中心として行軍訓練を開始しております」
「それは聞いた。正規軍団ではない。補助軍団はどうなっているのかと訊いた」
それは各属州で自由な徴集を認められた軍団のことだった。名前通りに補助的な役割を担う軍団で、重装歩兵主体の正規軍に不足する騎兵や散兵――軽装で機動力に富む、主力を補助する歩兵のことだ――を提供する事が多い。戦力不足を補うため、エストリカはあらかじめ補助軍団の編成をトゥリアスに命じていた。
「それは、その……補助軍団とおっしゃいますが、資金調達が……」
「すでに十分な額を送らせていたはずだ」
突き放すように言ったエストリカは、シノンに確認の視線を送る。その手配を彼女が担当していたからだ。
「過不足ない額を貨幣および一部を金で輸送させました。確かにトゥリアス閣下に送り届けた由、確認も取っております」
「まさかとは思うが、懐にでも入れているのか?」
「そ、そんな、滅相もない……」
「ちょっと待って下さい」
エストリカが口を開く前に、それまで置物のように立っていたアリウスが口を挟んだ。
「僕が将軍の立場なら、そんな分かりやすい真似はしません。もっとバレないようにやるでしょう」
「それはそうだ」
総督はあっさりと納得した。アリウスがうんざりしたのは、少女の単純さではなく、シノンが「まあ、及第点でしょう」という顔をしてうなずいているのが見えたからだ。
エストリカの人柄など知らぬトゥリアス将軍が、困り果てた表情で「弁明しても?」と尋ねた。総督が鷹揚にうなずく。
「実はウァリア総督が、自らの統治属州で徴兵するなら、相応の代価を支払ってもらわねば困ると。正規軍団に関しては枢密院の指示でもあるのでやむを得ないが、補助軍団については聞いていないと……」
「それで賄賂に資金を使ったわけか」
「わ、賄賂などと……。ともかく、火急のことでしたので、自分の一存で代価を支払い、減った資金で徴用できるだけは集めましたが、二千名弱でして……」
「予定の半数ではないか!」
さすがにエストリカは声を上げた。ウァリア総督の言い分にも一理ないこともないが、そこまで多額の賄賂を要求されていたとは思わなかったのだ。先例がない事なので、法外とは言わないが常識外である事は間違いない。
「総督! どちらへ?」
席を蹴るようにして立ち上がったエストリカに、将軍が慌てて声をかける。
「ウァリア総督府だ。文句を言ってやる!」
「それはいけません! 彼らの機嫌を損ねでもしたら……兵糧の提供も反故にされかねませんぞ!」
「いえ、行きましょう、総督」
腰を浮かせた将軍を無視して、同調したのは線の細い副官だった。
「そうだ。いざとなれば裁判に訴えると脅して――」
「違います」
息巻いたエストリカを遮って、アリウスはきっぱりと言った。その顔には余裕が浮かんでいて、その場に居合わせた誰もが、この文学青年の真意を測ることができなかった。
「なんだと?」
「確かにウァリア総督府には行きます。ですが、それは文句を言うためではありません。そんなのは不毛です。それよりも、ウァリア総督から不足分の資金を借り受けましょう」
「は?」
ぽかんとした表情で振り返ったエストリカの向こうから、トゥリアスが咳払いで注意を喚起した。
「失礼だが副官殿、あの方は次の枢密院議員選挙に出馬するお考えで、いま選挙資金をかき集めておられる。返って来る当ても確かではない金を貸すようなことはなさらんだろう」
「なら、余計に好都合というものです」アリウスは楽観を崩さなかった。「ウァリア総督が代価として受け取った資金の大部分は、エリシオスの政財界を牛耳るお歴々からの借金ですから」
国庫から支給される支度金では、正規軍団の編成にも事欠くのがエルトリア帝国の軍制だった。十分な作戦戦力を集めようとするならば、それだけでは圧倒的に資金が足りない。そのため総督は個人資産で軍団を賄う必要があった。
本来、それは属州利権による稼ぎで賄われる。が、エストリカには税収を得るための属州がない。必然的にあちこちから借金をして資金をかき集めるしかなく、これが現地入りが大いに遅れている主要な原因だった。
しかし、アリウスの言葉の意味を理解できた者はこの場には居なかった。なんとなくニュアンスは分からないではないのだが、それにしても好都合と言うのはどういう意味なのか。トゥリアス将軍が首をかしげて疑問を口にする。
「いまひとつ分からんのだが……?」
「つまりこう言う事です。お歴々が結構な額を貸したのは、征服戦争の経過が良好であればリスクを補うだけの利権が確保できるからです。だと言うのに、ウァリア総督の妨害で新属州の征服が滞ったと知れば、彼らはどう思うでしょうか?」
「た、確かに、そうなればウァリア総督も選挙どころではなくなる」
「と言う事でいかがでしょうか、総督」
「気に入らない相手を脅しつける分には構わないけど、少し迂遠ではないかしら? 借りるのではなく、不当に取った金を返せと命じるのが筋だわ」
「それではウァリア総督の面目を潰してしまいます。まあ、無利息の借金ということで、あちらは表面上は大物ぶれる、こちらは金を取り戻せる――と言うのが双方にとって有益な落とし所でしょう」
エストリカは立ったまま細い顎に手を当てて考えていたが、少しして「分かったわ」とうなずいた。それから上機嫌に声をかける。
「それにしてもさすがね、アリウス」
「いえ、それほどでも」
「伊達に破産するほど借金していたわけではないわね」
「…………」
エストリカの評価に、アリウスは視線を宙に向けながらヘラっと笑った。幕僚たちも笑っていいのかどうか分からないまま、曖昧な笑みを口元に漂わせる。
なんとも形容しがたい空気が室内に満ちたところで、その気まずさを打ち砕いたのは、慌てて飛び込んで来た総督親衛隊の連絡士官だった。
「何事か! 無礼であろう!」
トゥリアスが最前の狼狽を微塵も感じさせぬ力強い銅鑼声で怒鳴ると、連絡士官は慌てて挙手の礼を取った。
「緊急の伝令であります!」
「よい。申せ」
エストリカが鋭く命じると、士官はごくりと生唾を呑み下してから、口を開いた。
「エシュシュがゴルニア軍の攻撃によって陥落! 守備隊は全滅の模様。騎馬伝令が先ほど――」
「エシュシュだと?」
エストリカが眉間にしわを寄せた。それはまさに、第十二軍の冬営地として考えていた場所に他ならない。その横合いから、将軍が鋭く問いかける。
「いつの話か!?」
「二日前の未明のことです。奇襲を受け――」
士官は報告を続けたが、その場に居合わせた高官のだれもが、それ以上を聞いてなどいなかった。