Ⅱ貧乏文士
「ああ、やっぱりなあ……今回のは出来が悪いと自分でも分かってはいたんだ」
呟いたアリウスは、露天商が盛んに声を張り上げる広場で、噴水の縁に腰をかけていた。片手には巻物が握られており、細身の青年はちらちらとその巻物を未練がましく見ては、溜息をついた。
栗色の巻き毛を短くした顔は端正だが、やや若さに欠ける。老け顔というわけではなく、それは若さに任せた勢いが感じられない、良く言えば老成された雰囲気のせいだ。悪く言えば覇気がないと言うことになる。実年齢は二四歳だが、その雰囲気のために五、六歳は上に見えた。
その様子を、物売りの娘や、市場に買い物に来ていた奥方たちが盛んに気にしていた。なるほど、細身の青年は顔立ちこそ整っているが、やや血色が悪く、そうなると物憂げな溜息は儚い病身の美しさにも見えた。
が、このメリウス・アリウス・ハルニオスは、病人などではない。よくよく見れば、身にまとった貫頭衣の裾はほつれているし、垂らした腰帯も端が鉤裂きになっていた。要は金がなくて、満足に食えていない。自身では作家などと名乗っているが、その客観的な評価は身なりからだけでも十二分に窺い知れた。
「ラッサロやメソスとは言わないが、僕にもそれなりに才能があるはずなんだけどなあ」
今をときめく文壇の主役たちの名を挙げて、若者はまた溜息をこぼした。売れない理由は分かっている。アリウスの文章は良くも悪くも華がない。昨今の流行は華美な装飾の施された、文法の芸術と見なされるような文章だった。さりとてアリウスには大衆好みのエピソードを盛り込むようなサービスもない。となれば売れるはずがなく、今も出版業者に断られて来たところだった。
「あなたのような学士さんならともかく、普通の人はね、高尚な哲学やら政治理念やら、そんなものよりも恋愛話の方に興味を引かれるんですよ。もし、そういう気の利いた本があるなら、是非持って来てくださいましよ」
写本制作の親方は、そう言って断った。
元手があるならともかく、売上から製作費を回収しなければならないアリウスのような貧乏文士の作品を出版するのはリスクが大きい。それは分かる。分かるが、これでは文学が堕落してしまう。アリウスは彼なりの危機感でそう思う。
自称作家の青年に若さがないと言うのは、決して世を渡る術を身に着けたと言う意味ではない。物書きを目指す若者という類は、おしなべて頭でっかちのインテリだった。動く前にじっくりと成否を考えるのを知的と讃え、時々の感情に流される事を恥じる人種である。向こう見ずに飛び出した先で勝負するなど下策だと嘲笑する者に、溌剌とした若さが垣間見えるわけがない。
この時も、アリウスはこみ上げて来た危機感を飲み下した。
「いや、いや、結論を急いではいけない。東方では、大衆に媚びない作風が評価されると聞く。いずれエルトリアでも、下賤な作品が捨て去られる時が来るはずだ」
そうとも、その時のために今は耐えるのだ。雌伏の時を経て、いずれ文壇の頂点に上り詰めて見せる。大志は大志として結構なのだが、アリウスの作品が売れない点に関して、自身ではまったく気付いていない理由が含まれていた。
その著作に政治批判が多分に含まれていたことだ。いや、悪政を批判するのはエルトリア市民の常である。帝国市民が一斉に声を挙げれば、皇帝や枢密院とて譲歩する。それは共和政の歴史を通じて培われて来た文化の一端だった。ゆえに為政者たちは大衆の機嫌取りには余念がないぐらいなのだ。
が、最盛期を迎えつつあるエルトリア帝国にあって、神格化された皇帝や格式ある枢密院を槍玉に挙げて批判する者は多くはない。まして、アリウスの文章は実直なだけに容赦がなかった。もういっそのことクーデターだ革命だと煽るようなら、だれも本気にしない分だけ夢物語と笑って済む話だが、過去の政策をこれでもかと理屈っぽく批判するのだから、ちょっと笑いごとでは済まなかった。
折しも病身の皇帝に対して、帝位継承レースを含めて枢密議員たちが利権獲得の攻勢に出ているという、四半世紀ぶりの政治変革期である。近衛軍団までどの勢力に付こうかとふらふらしている状況で、物騒な著作は触らないに限る。
まして、その作者の身分が厄介だった。こう見えて、アリウスは平民ではない。れっきとした貴族、それも名門と呼ばれる出自なのだ。その昔、東方のジャール地方を征服した功績によって、“ハルニウス”――「ジャール(ハァル)の制服者」を意味する――の称号をクラッソス帝から賜った、メリウス将軍直系の子孫である。
その栄華も二世紀前のこと。アリウスにもしっかりと受け継がれている、実直かつ不器用な家風が災いして、たび重なる政変で家門は傾き、今や零落していた貴族の家計を破産させたのは、作家と名乗って本の蒐集に糸目を付けず金を使ったアリウス自身であった。
陰で「ハルニウス一門の放蕩息子」などと呼ばれるアリウスは、それでも門閥貴族の末裔であり、そういう男が政権の中枢に居る者たちをペンで攻撃しているのだから、傍目から見ると危うくて仕方ない。
「はあ……恋愛、恋愛ねえ……」
書けば売れるのだろうか。しかし、志を捨てた筆を取って、いったい何になるというのか。作家青年が誘惑と理想の間で葛藤している所へ、「失礼」と声がかかった。
アリウスの様子を気にしていた女性たちのものではなく、低く、野太い声だった。頭を抱えていたアリウスが顔を上げると、そこにはいつの間に現れたのか、青銅製の鎧を黄金色に輝かせた軍人が数人の供を引き連れて立っていた。帝都で武装しているということは、皇帝を警護する近衛軍団の所属と見て間違いない。
共和制時代からの伝統として、エルトリア本国には解散していない――即ち武装した軍団兵の立ち入りが厳しく禁止されている。それは属州総督のクーデターを牽制するための規制だったが、代わりにエリシオスを防衛する近衛軍団が、本国唯一の即戦力として力を付ける結果となったのは皮肉としか言えない。
その近衛軍団だ。
「失礼ですが、メリウス・アリウス・ハルニオス殿ですな?」
謹厳そうな四角い顔を見つめながら、いきなりのことにアリウスは「はあ」と曖昧に答えた。
すると、恐らく百人隊長以上の位にある将校は、背後に控えていた部下から丸めた書状を受け取って、蝋の封印を解くとアリウスの前で開いて見せた。
「ラヴィニア・エストリカ殿下よりの召喚状です」
「ラヴィニア……」
アリウスは唐突な展開に目を丸くした。たとえ政治に疎い者であったとしても、その名で出された召喚状に驚かずにはいられないだろう。なにしろ、名前そのものの意味が「ラヴィヌスの娘、エストリカ」という意味になり、帝国市民で現皇帝の名を知らぬ者などいない。
「な、なぜ、皇女殿下が僕を?」
「自分は召喚状を渡されただけですので、存じません。確かにお伝えしましたので、これにて失礼いたします」
顔の印象を裏切ることのない実直な態度で、将校は身を翻した。
理解が追いつかないアリウスは、渡された召喚状の書面を改めて眺めながら、「ラヴィニア・エストリカ」のサインを見て、皇女様にしては汚い字だな、と余計なことを考えた。
それはそれとして、召喚状には従わなくてはならない。アリウスが出頭した先は、エストリカの私邸だった。
無論、それが私的な召喚を示すわけではない。官僚制度の完備されていないエルトリア帝国において、公私の区分は感覚的な慣習に従うもので、成文化されていないからだ。
にしても、近衛軍団を使って呼び出したのだから、これは公的な呼び出しのはずだった。だが、アリウスの記憶が確かなら、皇女殿下は公職には就いていないはずで、するとまったく呼び出された理由の見当が付かなかった。
まさか何かの陰謀では、と疑ったのは、あながちアリウスの勘ぐり過ぎと言うわけでもない。皇帝の権力すら盤石ではないエリシオスでは、血みどろの政争も珍しくはなかった。
帝国暦八〇年の「枢密謀議」事件では、皇帝派と枢密議員派の双方で暗殺を含めた権力闘争の陰謀が進められ、そこに近衛軍団のクーデター未遂まで加わると言う、エルトリア史上でも類を見ない混沌とした陰謀劇が繰り広げられ、一連の暗殺と粛清による犠牲者は数百人に及ぶと伝えられている。
それほどの惨劇は古今に類例がないが、にしても、エルトリア帝国の政治構図というのは、言ってみれば皇帝の権威、枢密議員の政治力、近衛軍団の武力から成る三すくみである。皇帝の余命幾許もないと噂される昨今は、まさに陰謀劇の舞台として申し分のない状況だった。
――しかし、まさか……
皇女殿下がクーデターを画策しているとも思えないし、第一、僕にそんな陰謀劇での使い道があるとも思えないし。アリウスは自分の取り柄を考えて、首を傾げた。もしかして、何か執筆の依頼だろうか?
だとすれば願ってもない。理想は理想として、やはりどの世界でも貴人とのコネは重要なのだ。だが、残念ながらアリウスは華人に捧げるような華美な文体は好まない。花も恥じらう乙女の依頼となれば、恋文の代筆ぐらいと考えるのが妥当であると、エストリカ本人を見知る機会のなかったアリウスは、そんな的外れな考えをしていた。
案内役の奴隷に連れられて、手入れの行き届いた中庭を横切る。南国の植物が植えられた庭は小さいが、女性らしい細やかな配慮が感じられ、流行のけばけばしい異国情緒とは無縁だった。アリウスとしては好感の持てる趣向である。
それにしては、字が汚かったような?
などと思っていると、いきなり茂みの奥から何かが飛び出して来た。ばさり、と重たい羽音。
「わっ、うわわっ!?」
飛び出した物体は、アリウスの顔めがけて一直線に突っ込んで来た。一瞬だけ見えた全体のシルエットは、猛禽類のものだった。何が何だか分からないまま、顔を庇った腕をでたらめに振り回すが、それを嘲笑うようにバサバサと猛禽の翼がアリウスの横顔を左右から叩く。案内役の奴隷はあたふたと右往左往するばかりで助けてくれない。
「なんだ、なんなんだ!?」
「フレース!」
凛とした鋭い声が中庭に面した一室から響いた。その声に反応して猛禽がアリウスの顔から離れる。バサリと重い羽ばたきを残して飛び去った姿は、見事な体格の鷹だった。飛び去った猛禽は、声のした部屋に入ると、手近な梁の上に留まったらしかった。
無礼に対して案内役が恐縮しながら謝罪を延べ、「あちらでお待ちです」と告げたのも、その部屋だった。
アリウスは顔に怪我がない事を確かめて、頭上にいるはずの鷹を気にしながら入室した。虫よけを兼ねる紗のしきりをまくり上げると、その奥では長椅子に腰かけた「字の汚い」皇女殿下が待っていた。
「失礼をした。フレースは屋敷の番人でな。わたしの身を案じての事であるから、大目に見てやって欲しい」
「はあ……」
どのように応じていいのか分からず、アリウスは曖昧に応じた。見上げると、梁の上からこちらを見下ろす立派な鷹の姿が見えた。あまつさえ、警告するように「クッ、クゥ」と喉を鳴らしている。直接の加害者は詫びるつもりがないらしかった。
畜生に怒っても仕方ないとアリウスは自身を納得させたが、風を司る神の名に相応しい猛禽の威容に委縮したせいではない、とは言いきれなかった。
エストリカとてひとまず謝罪したが、すぐに背後に控えているシノンに顔を向けた。
「これが? 本当に?」
小声と言うには大きすぎる声で尋ねる。その口調は年齢相応のもので、そちらが普段のエストリカなのだろうと思えたが、それはそれとして、「これ」とは失礼ではないかとアリウスは口元を歪める。
「間違いございません。ハルニウス一門の末、アリウス様です。二四歳、無職」
「無職ではなく作家です」
流れるように答えたシノンの情報を一部訂正した。なんだ、この失礼な主従は。気に食わない話なら、蹴って帰ってやると心に決めて、アリウスは「まあ、座りなさい」と示された腰掛に腰を落ち着けた。
アリウス自身、自分のみすぼらしさは重々、承知していた。衣装は清潔にしているものの着古して色褪せ、あるいはくすんで変色している。若さの不足した表情とは反対に、痩せた体はいかにも頼りない青二才と言った感じで、見栄えのするものではなかった。
エストリカは銀盆に盛られた果実の中から、小ぶりの葡萄を一房選んでつまみ上げた。
「それで、どのような御用件でしょうか?」
勧められた果物を断って、アリウスは性急に尋ねた。とても礼儀作法を順守する気にはなれなかった。
「何とも忙しいな。しかし、こちらも時間がないので手短に説明しよう」
エストリカは葡萄の実を房からかじり取って、そう答えた。呼びつけておいて時間がないというのも失礼な話だと、アリウスはますます不機嫌になる。
「実はこのたび、ゴルニア属州が新設されることになった。十三番目の属州だな」
「え? ゴルニア属州? ちょ、ちょっと待ってください。ゴルニアを征服したという話は、寡聞にして知りませんが……」
ここの所、作品の仕上げに引きこもっていたのは事実だが、それにしても、半世紀ぶりの征服戦争完遂ともなれば、市内全域が狂乱するほどの大騒ぎになっているはずだ。凱旋式に先立って、パンばかりかワインとて大々的に振る舞われて、今頃は飲めや歌えやのお祭り騒ぎだろう。しかし、エリシオス市街はいつもと変わりなかった。
エストリカはアリウスの疑問を無視して説明する。
「そのゴルニアに、わたしが属州総督として赴任することになった」
「はあ、それは、おめでとうございます」
反射的にアリウスは祝辞を述べた。属州総督と言えば、皇帝の代理人として属州統治の全権を預かる役職である。また属州に駐留する軍団の総司令官でもあり、名実ともに属州において絶対的な存在となる。もっとも、それゆえに総督の土着化による反乱や独立を防ぐ目的で、五年間と任期が定められているわけだが。
多くは大貴族によって占められ、だいたいは五年の任期の間に属州の富を絞り取ってから、枢密議員選挙への政治資金を蓄えると言うのがお決まりのコースであり、それがエルトリア帝国におけるエリートコースでもある。
なので、アリウスは常識に則って応じたのだが、エストリカの口元が歪んだ。舌打ちしそうに見えたが、まさかな、とアリウスは自分を冷やかした。皇女ともあろうお方が舌打ちなどするはずがない。
背後に控えたシノンが、かすかに咳払いの音を立てた。
「何がめでたいものか」舌打ちする代わりに、面白くもなさそうに皇女は答えた。「そなたの言う通り、ゴルニアはこれから征服するのだからな」
「それは――いや、分かりました。で、これから征服予定のゴルニア属州を新設して、殿下がその総督になられるとして、それと僕と、何の関係があるのでしょうか?」
疑問を飲み込むと、アリウスは必要な情報を求めた。それこそが肝要なのだが、ここまでの話でだいたい想像できなくもない。いくらこれから征服すると言っても、いざ属州統治となると行政官は必要になる。おそらくその文官として白羽の矢が立ったというところだろうと、痩身の青年は当たりを付けていた。
しかし花の都エリシオスを離れて、遠く北の――それも蛮族が跳梁するような秘境の属州に赴任するなど、アリウスには考えられない。そこで必要なのは、文学ではなく正確な報告書であり、さらに言えばペンよりも蛮族を従わせるための剣だった。とてもではないが、そこは作家の赴くような場所では……。
それに対して、エストリカは性急さを戒めるように軽く手を振った。
「まあ、待て。属州を新設するに当たり、当然だが軍団も新設される。二年前のゴルニア遠征で壊滅したままとなっている第二十六軍団の残余を中核として、第十二軍団が創設される。軍団長は第二十六軍団からそのまま用いることができるが、総督副官の当てがなくてな」
なるほど、とアリウスは自分の勘違いに気付いて表情を緩めた。総督副官と言えば、副司令官に相当する役職で、総督の代理や助言を行う者のことだった。行政官とは異なり、軍人が就任するべき地位である。となると、これは名門ゆえの交友関係に目を付けて、毛並みの良い人物を紹介しろという流れなのだろう。
「はあ、しかし、僕も人脈があるとは言い難い交友関係でして……」
「違う、違う。そなたの交友関係など、どうでもいい。そなた自身が副官になるのだからな」
しれっと言われた。あまりにも簡単に言われたので、アリウスは「はあ」と生返事をしてしまった。それから、誰か知り合いに適任が居ただろうか、などと考えようとした所で、椅子を蹴るように立ち上がった。
「はあっ!? ちょっと待ってください! なんで、そんな話に!」
アリウスは混乱のままに叫んだ。その頭上から鋭く「ケーッ!」と最後通牒のような鳴き声と、ばさりと大きく翼を広げる音での警告が聞こえて、青年は首を竦めた。しかし、怯えてなどいられない。
「他に幾らでも適任がいるでしょう? よりによって、なぜ僕が? と言うか、僕は志願なんかしてない!」
思わず敬語を放り出したものの、アリウスの主張じたいは正当なものだった。
栄誉あるエルトリア軍団は志願制であり、エルトリア帝国は公私ともに軍人というステータスが大きく幅を利かせる軍事国家だった。貴族ならば高級将校、平民なら軍団兵と、とにかく軍団に属していれば、周囲から一定の敬意を払われる。ゆえに志願者で多数の軍団を構成することができた。
しかし、いかにそれが名誉であっても、アリウスは軍隊勤務などするつもりはなかった。自分は作家として大成するという夢があるのだ。それに痩身を見れば分かる通り、体力にも自信がない。
すると、エストリカが「む」とうめいて眉根を寄せた。
「おかしいな。レドニス殿に相談したら、適任がいるので是非にと、そう言ったのだが」
「レドニス!」
その名を聞いて、アリウスは天を仰いだ。そう、それは紛れもなく「あの」レドニスに間違いあるまい。何事につけても独善的で、無駄に自信に溢れた十歳年長の従兄弟のことだ。今では近衛軍団の大隊長にまで出世して、世間では大した人物だのと言われるようになったものだが、その性格は昔からまったく変わっていない。
幼いころから何かと余計なお節介ばかりしてくる男で、家に籠って本ばかり読んでいるアリウスを引きずり出して、やれ乗馬だ、やれ剣術だと、平和な毎日をかき回していく。そんな迷惑な男は、有り余る体力を活かして近衛軍団に入り、アリウスはようやく安息の日々を得られたと喜んでいたのだが……。
「あの野郎……」
アリウスはぶるぶると固めた拳を震わせた。軍隊が好きなら、自分だけ入っていればいいのだ。なにも従兄弟まで引きずり込むことはあるまい。しかも質の悪いことに、そうした余計なお節介を、レドニス自身は善行だと思っている。なので、昔から何を言っても聞き入れない。どれだけ迷惑顔をしても「おまえのためなんだから」と言う訳だ。
が、今度という今度はさすがにやりすぎだ。しかもゴルニア属州とは敵地のど真ん中に放り込むようなものだ。何を考えている、僕を殺す気か? いや、それよりも、今度という今度こそは言ってやる。殴ってでも目を醒まさせてやる。
そこまで決めたところで、目の前にいるのが迷惑な従兄弟ではなく、皇女殿下だと言うことを思い出して、咳払いとともに腰を下ろした。
「と、とにかく、その推挙は申し訳ありませんがお断りいたします。僕は文人でして……」
「失礼ながらアリウス様」
と、会話を見守っていたシノンがそっと声を滑り込ませた。その声は涼やかで耳に心地よいが、何やら不吉なものを直感して、アリウスは彼女に視線を移した。待っていたのは掛け値なしの凶報だった。
「時間がございませんので、すでに人事は枢密院に提出して、認可を得ています」
「は?」
「つまり、皇女殿下の御言葉は辞令であって、ここはお願いするために設けた席ではございません」
何を言われているのか分からない。ふらふらと視線を向けられたエストリカは、「うむ」と当然のようにうなずいた。
「いや、いやいやいや、待って下さい。いくら皇女殿下であっても、勝手に僕を徴集するなんてことはできませんし、僕のサインがなければ、その提出した書類も無効のはずで……」
「いえ、問題ございません」にっこりとシノンが答える。悪魔に見えた。「推挙をお願いしたついでに、レドニス様に後見人として承認のサインを頂きましたので」
「バカな……」
確かにレドニスは早くに両親を亡くしたアリウスの後見人だった。それは事実だ。しかし、
「い、いや、それも無効のはずだ。僕はもうとっくに成人して、アリウスの後見人としての資格は失効しているはずだ」
「通常ならその通りでございますが、この場合はいまだ有効でございます。なにしろ、債務者は家督を相続できませんし、レドニス様は貴方様の借金の保証人でもございますので」
「ば、バカな……」
アリウスは床に崩れ落ちた。
本の蒐集のために借金をしていたのは事実だ。その保証人にレドニスの名を借りたのも事実である。家督がいまだに相続できていないのも事実だが、どうせ財産はもう残っていないので忘れていた。全てが理解できた。
つまり、今回ばかりはレドニスの行動は迷惑な善意などではなかった。借金を代理で返済してくれていた従兄弟は、負債を回収するべく、アリウスを高給の見込める役職に叩き込む機会を虎視眈々と狙っていたのだ。エストリカの相談は彼にしてみれば渡りに船というわけだ。
本人の知らぬ所で人身売買が成立していた。
嬉しそうにシノンが付け加えた。
「そのような事情ですので、目下、アリウス様の実質的な身分はわたくしと何ら変わりありません。無論、拒否権もございません」
「では、よろしく頼むぞ、アリウス。貴公の働きに期待している」
何をどう期待していると言うのか。期待されるような能力など自分でも知らないアリウスだが、もはや何も言う気になれず、小さくうなずいた。
拒否すれば、借金の形に実質的どころか本当に奴隷身分に落とされかねなかった。そうなれば作家どころではない。今度だけは、嫌々ながらもレドニスの「善行」を認めないわけにはいかない様だった。