Ⅶ終焉
帝国暦二〇五年。サラルヴァの月も終わろうとする頃合いにも関わらず、積もった雪は溶ける気配もなかった。帝都エリシオスではそろそろ衣替えの時期だろうに、東部ゴルニアにとどまるゴルニア方面軍はいまだに防寒具を必要としていた。
ユルゲニスでの決戦が終わって、早くも二月が過ぎ、部族連合諸国の寄り合い所帯だったゴルニアは姿を消し、エルトリア帝国十三番目の属州ゴルニアが誕生していた。
エストリカ率いるゴルニア方面軍はユルゲニスを占拠してそこで越冬しつつ、本国に対して制服完遂の報告書を送ると共に、凱旋式の許可を出願していた。
巨大な武勲を挙げた軍団は、通常は立ち入れぬ帝都エリシオスで凱旋パレードを行う栄誉を与えられる。属州征服を記念したパレードとなると、実に半世紀ぶりの記念すべき式典となるはずだった。
ただし、やはりというべきか、枢密院は領土の割譲を問題にしているらしかった。ゴルニア統治のための第二十一軍団の新設は即座に認められたものの、凱旋式の認可はいまだに降りていない。どころか、議会ではエストリカの総督解任も議題に上っているようだった。
「勝手にするがいいわ」
初志を果たしたエストリカは、狼狽する雰囲気さえある枢密院の対応を突き放して考えていた。ざまをみろと笑う気分もない。
依然として反乱の火種がくすぶるゴルニアの鎮静化に忙しくしながら、エストリカは気分の晴れない日々を送っていた。時に陰鬱にも傾く心を持てあまして、そんな時に彼女は一人ユルゲニスの市壁に登ることが多かった。今も執務がひと段落ついた時間を使って、櫓の傍に立っていた。
吹き渡る風は冷たく、鋭かった。地平の向こうに太陽が没しつつあり、血のように赤い輝きを投げかけていた。
地上に視線を転じれば、周囲にはいまだにエルトリア軍の築いた広大な封鎖施設が残っていた。だが、それは至る所で埋め立てられ、崩され、倒壊した櫓も一つ二つではなかった。あと少し、ほんの少しの差で、エルトリア軍は全滅していた。トゥリアスら、生き残った軍団幹部は、各所の守備隊から上がってきた報告を受けてまとめながら、余りにも際どい勝利に冷や汗を隠せなかったぐらいだ。
不意に背後で足音が聞こえた。シノンが呼びに来たのか。いつの間にか気温が下がっている。もう屋内に戻らなくてはと思いながら、動けない少女は声をかけられるまで待つことにした。
「やっと見つけましたよ」
エストリカは振り向いた。かけられた声はシノンのものではなかった。そこに居たのは、数巻の木簡を抱えた総督副官だった。どうしたの、と問うより先に、アリウスは抱えていた木簡の中から一巻をエストリカに差し出した。
「読んでみてください」
晴れやかな笑顔を浮かべたアリウスに意味もなく苛ついたが、エストリカは差し出された巻物を手に取った。括り紐をほどいて中身を見ると、一行目に『アリウス・ハルニオスのゴルニアに関する覚書』と題名が振られていた。
どうやら、以前に聞いたアリウスの大作が完成したらしかった。引き籠って何をしているかと思えば、職務もそこそこに執筆に専念していたらしい。何をやっているのかと思いはしたが、叱責する気分にもなれず、エストリカは興味のない内容を斜め読みしはじめた。
「どうですか? これを帝都で大々的に発表すれば、大反響は間違いなしですよ」作者の方は読者の都合も置き去りにして、興奮気味にまくし立てた。「そうなれば、枢密院も過ぎたことをいつまでもウジウジと言っていられなくなります」
「……つまり、あなたの新作の出版費用を、総督府の公金から捻出しろと言うこと? 下心が丸見えよ。まったく、枢密院対策を任せろって自信たっぷりに言うから、何をするのかと思ったら……」
「心外だな。僕としては、あと半年はかけてじっくり推敲したかったのを、仕方なく大急ぎで仕上げたんですよ」
「分かったわよ」
うるさげな顔をして、エストリカは飛ばし飛ばしに読んでいた。教養はあっても大して文学に興味のない彼女からすると、さして面白くもない。それよりも気になった部分があった。
「この、ところごころ黒塗りになってるのは何なの? これは清書じゃないの?」
「そ、それは清書していて、やっぱり良くないかもしれないと思ったところを消したんです。それだけです」
先に嬉々としてシノンに見せに行った際に、問答無用で検閲されたとは、口が裂けても言えなかった。言論の弾圧だと、文学青年は反発しそうなものだが、スタニウム包囲戦の折の虐待が心に少なからぬ傷を残して、とうとう抵抗できなかった。それを文士のプライドが許せないだけに、なおさら他人に口外できるはずもない。
そのようなアリウスのジレンマなどお構いなしに、元から興味のないエストリカは、少ししか読んでいないアリウスの新作を突き返した。
「いいわ。出版費用ぐらいならたかが知れてるし、後は財務官に相談してちょうだい」
土台が丼勘定の総督は、内容にさして拘る様子もなく結論を伝えた。選挙にばらまくビラではあるまいし、とエストリカは軽く考えていた。多くて百部かそこらの写本出版なら、大した出費にはならない。まさかアリウスがビラと同じ規模で出版を考えているとは想像しておらず、後で財務官から苦情を受けることになるとは思いもよらなかった。
「分かりました。さっそく行って来ます」
夢の実現に向けて、現実的な一歩を踏み出した文学青年は、目を輝かせてその場を後にしようとした。が、市壁の降り階段に足をかけた所で、不意に立ち止まって振り返った。夕陽の中で影絵となった少女のシルエットは、どこか寂しげだった。
あんなに肩は薄かったろうか。あんなに背は低かったろうか。改めて眺めた総督は、このゴルニアの征服者に似つかわしくないほど、頼りない普通の少女に見えた。少し前まで見慣れていた甲冑を身に帯びていないから、というだけの理由ではないように思えた。
初めて会った時は、皇女にしても無礼な少女だと思った。その印象は裏切られることなく、今だって力作をつまらなさそうに扱われて、アリウスはちょっとした不満を覚えていた。少しぐらいこっちの気分に合わせてくれてもいいだろうに、エストリカはいつだって自分自身を優先して憚らない。
だのに――なぜだろうか、いつからだろうか。この我がままで鼻もちならない皇女殿下に振り回されるのを、悪くないと感じるようになったのは。
エストリカには、アリウスに足りない――否、大の男たちが揃いも揃って持っていなかった、とんでもない活力があった。向こう見ずに飛び込んでいく彼女に、だれもが慌てさせられつつ追随せざるを得なかった。
エストリカが将兵に与え続けたのは、自信という名の勇気に他ならなかった。
だというのに……今のエストリカはひどく空虚に見えた。拘り続けたゴルニア征服を完遂し、ウェルティスに対しても勝利を収めた。なのに、なぜあれほど哀しげに見えるのか。
アリウスの記憶に、まったく異なりながら重なる印象があった。初老にも達していないというのに、すっかり老け込んでやつれた、病床のラヴィヌス帝の姿だった。ゴルニアは――柄にもない迷信がアリウスを捉えていた。ゴルニアはやはりのろわれた土地なのか。関わる物の生気を吸い取る、魔性の大地なのか。
「ウェルティスも……」
その呪いに囚われたのだろうか。ハッと胸を衝いたのは、壮絶な終焉の光景だった。
決戦の二日後。乾坤一擲の逆転劇を果たせず、備蓄した物資も使い果たしたゴルニア籠城軍は、正式な降伏を申し入れて来た。
降伏の使者は、他ならぬゴルニア王ウェルティスであった。
白馬に乗って姿を現した青年は、ひどくみすぼらしく見えた。
切開で固められていたはずの尖った髪はぼさぼさに崩れ、憔悴した白い顔には青い無精ひげが浮いていた。ユルゲニスに残っていた白馬も、すっかり痩せて、今にも膝から崩れ落ちそうな様子だった。
輝くほどの威容を誇った美丈夫が、その時はみすぼらしい敗軍の将に堕していた。
あるいは痩せた頬に落ちる陰影を、滅びゆく美しさと言うべきか。身だしなみを整える余裕さえ失った籠城軍の窮状をその身に示しながら、それでも若者はきりりと鋭い眼差しを前に向けて、うなだれることはなかった。
「精一杯やったのだ」
まるでそう宣言しているかのような姿に、アリウスは称賛の念すら抱いていた。世界最強のエルトリア軍をこうまで苦しめたのだ。敗れたとはいえ、自分より幾つも年の若いゴルニア王は、ほんの僅差にまで迫っていた。エストリカの赴任があと少し遅ければ、ウェルティスが今しばらくの経験を積んでいたなら、結果は裏返るどころか圧倒的な差でゴルニアに傾いていただろう。
そう思うほどに、文学青年の心は惜しさに傾いていた。やはり傑物だ。やはり英雄だ。ここで死なせるには惜しいと思うと、助命の嘆願さえ頭に浮かんでいた。
そのアリウスに冷水を浴びせたのは、原野に運び出した玉座に座って敵将を待ち受ける総督の姿だった。周囲を親衛隊に守られ、背後に生き残った遠征軍とヴァラン軍を控えさせながら、ゆったりと座した少女はその白い面になんの表情も浮かべていなかった。あれほど拘った相手だというのに、憎しみも怒りも、あるいは憐れみや共感といった類の感情さえ、ひとつとして浮かんでいない。ただ透徹した冷たさに凝った少女は、ウェルティスを殺すつもりだと、そうとしか解釈できない冷厳さがあった。
そうだ。何を勘違いしていたのだ。アリウスは自らを恥じた。あいつは敵なのだ。それも恐るべき敵だった。生かしておけば、何度でも立ち上がってエルトリアを苦しめる。だから、殺しておかなければならない。好敵手への敬意は敬意として、これは別の話なのだ。
やがてエストリカの前まで来たウェルティスは、騎乗したまま、玉座の周囲をぐるりと回った。作法にない行動にトゥリアスらは緊張を強いられたが、何事もなく一周したウェルティスは馬から降り、エストリカの前に跪いた。
ゴルニア王は流暢なエルトリア語で降伏の意思を伝えた後、不意に顔を上げて、見下ろすエストリカの顔を見た。
「そうか。殺すか」
続けた言葉はゴルニア語で、アリウスが後でゴルニア語の分かる士官に尋ねたところ、そのような意味のことを言ったと教えられた。さらに一言、二言を続けたようだったが、それを聞き取れた者はいないようだった。
「武器を差し出すがいい」
トゥリアスに言われて、ウェルティスはエルトリア陣営の外までついて来ていた兵士らに武器を捨てるように、示し合せていた手振りで命じた。それから自らの武器を外し、差し出す。それはかつてウェルティスが手ずから奪ったエストリカの剣だった。
それを受け取り、降伏の印とする。その手はずだった。が、エストリカは剣を受け取るより早く、静かに命じた。
「殺せ」
控えていた幕僚たちが眉をひそめた。
手順はどうあろうと、ウェルティスを処刑するのは既定事実である。が、今は降伏の儀式さえ終わっていない。この場は降伏を受け入れ、ウェルティスを捕虜とした上で、ゴルニア人に広く告知して処刑するのが段取りのはずだった。
短期ながらも激戦となった征服戦争は、王の処刑という大々的な演出によって節目を迎える。ゴルニア人にも、エルトリア将兵にも、それぞれ戦争が終わったのだと知らしめるのが、ゴルニア王に与えられた最後の役目となるはずだった。
「何をしている。殺せ」
再度、エストリカに命じられて、困惑気味に親衛隊がトゥリアス将軍を窺った。どういうことかと、視線で尋ねられた将軍こそ、どういうつもりなのかを問いたいぐらいだった。
その時である。両手に捧げ持っていた剣を、ウェルティスは素早く持ち直して抜き放った。
「こやつ……!?」
総督を庇うようにして前に出たトゥリアスの脳裏に、暗殺の二文字が瞬く。あくまで総督に――エルトリアに盾突くか。将軍は心底から恐怖を感じた。勝ったとはいえ、もはやエルトリア軍に余力はない。いまエストリカを失えば、軍団は崩壊する。
「捕えよ! 早くせんか! 殺しても構わん」
トゥリアスの怒号に突き飛ばされるように、呆気に取られていた親衛隊が前に出た。抜き放った白刃をきらめかせて、ウェルティスを包囲する。
ウェルティスは瞬く間に構築された親衛隊の壁の中で、剣を抜きつつも動かなかった。ゆったりと構えたままで、飛び出す気配さえない。
鋭い眼光で親衛隊の動きを封じ、ウェルティスはにやりと笑った。狼狽するエルトリア軍を嗤ったというよりも、どこかいたずらを成功させた子供のような笑みだった。そのウェルティスが、何かを言った。
「これが俺の死に様だ」
最期の言葉はそのようなニュアンスであったらしかった。が、アリウスが後で聞き取り調査を行った限りでは、「死」という言葉以外はばらつきがあって、はっきりとはしない。ましてゴルニア語の「死」は「犠牲」の意味もある。
「ここに余を贄とする」と、そう取れなくもない証言もあった。将来のゴルニア解放への供物として命を捧げると、そうした意図があったのか。それとも単に虜囚の辱めは受けないという、それだけだったのか。
どちらにせよ、その真相を知る術はない。それを知るのは彼自身と、他には彼を守護してきたゴルニアの神ぐらいだろう。
そして、結果は違えようもない。
ウェルティスは、激戦を物語る刃こぼれた剣で、分厚い自らの胸を刺し貫き、息絶えた。
「あるいは王としての尊厳を保った死だったか」
後にしてアリウスはそう思いもしたが、その時は意外な展開に動揺していた。それはトゥリアス以下、多くの将兵も同様だった。
貴重な捕虜の自刃に加え、状況を見守っていたゴルニア軍の動向を気にして、騒然としたエルトリア陣営の中で、ただひとり、総督だけはひどく醒めた眼で王の死を見ていた。
「……殿下」
引き返したアリウスは、夕陽を受けて壁上にたたずむエストリカに声をかけた。
「どうかしたの?」
エストリカはちらりとアリウスを見ただけで、また遠景に視線を投じた。
「あ、いえ……」
何を言うつもりだったのか、アリウスは自分でも分からずに困惑した。
頭で考えることに慣れ過ぎた文学青年は、衝動によって動かされ、不用意に声をかけたことを恥じていた。
「用がないなら、行きなさい。しばらく一人になりたいから」
突き放すように言ったエストリカに従うことは容易かった。だが、それは良くないと、アリウスは自分でもよく分からない理由からそう思った。そう思わせるほど、エストリカの姿は孤独だった。それが英雄の肖像なのだと割り切ることはできない。まだ彼女は十六歳なのだ。輝くほどに強く陰影を刻む英雄の姿など、似合って欲しくはなかった。
シノンなら、なにを言うだろうか。考えてみても、まったく思い浮かばなかった。当たり前だ。考えて引き返したのでも、言葉をかけたのでもない。それはアリウスが自らに戒めてきた、感情で動くという衝動に他ならなかった。
困り果てた末に口から出たのは、ひどく凡庸な言葉だった。
「時には、休むことも必要だと思います」
「……休む? 何を言っている? 征服しても、まだゴルニアは沈静化していない。やるべき事はたくさんある。トゥリアス将軍とて、今も小規模な反乱の鎮圧に向かっているではないか」
叱責を受けて、アリウスは再び自らを恥じた。僕はなにを言っているんだ。休めるはずがないじゃないか。
戦争に勝利して、アリウスの描く物語は完結した。だが、現実はそうではない。戦争の勝利は終わりではなく、始まりだった。これから先、十年、二十年と時間をかけて、ゴルニアを属州として順応させていかなくてはならない。今はそのための基盤作りに誰もが忙しくしていた。
エストリカとて、ここに足を運ぶ直前まで、ゴルニアの首長や長老らと談議し、軍団の新設や補充に関する多くの書類仕事に追われていた。他にも安定した基盤など存在しないゴルニアにあっては、総督を必要とする仕事は多い。それらの仕事がすべて終わって、ようやく彼女は休むことが出来る。
戦争が終わって即座に休むことができるのは、敗者だけだ。勝者には多くの権利と同等に、多くの義務が課せられる。
「だから、休んでいる暇などない。休んでなど……」
「殿下……?」
エストリカの声は不安定に震え、途切れた。具合でも悪いのかと、的外れなことを思いながら近付いたアリウスの腕に、こつんとエストリカの額が当たった。
「うっ……ううっ」
しめやかに聞こえてきたのは、抑え込もうとしている泣き声に違いなかった。慌てた青年は思わず寝食を忘れて書いた大作を取り落としていた。
「殿下、どこか具合でも……」
「……ばかっ」
気の利かない副官の不器用さを罵りながら、エストリカはそれでも掴んだ袖を手放せなかった。一度、堰を切った涙は容易には止まりそうになかった。
何が悲しいのか、少女には分からなかった。ウェルティスの結末は当然の帰結だと、十分に納得していた。むしろ、殺せと命じたのは他ならない自分自身だ。エストリカが最も恐れたのは、男が死ぬことではない。時間が経つにつれて鈍って行くかもしれない決意だった。だから、あれでいい。
いや、違う。悲しいのではない。恐ろしいのだ。
今にしてエストリカに湧き起こるのは、勝ってしまったという、ある意味で忠誠を誓った部下たちへの裏切りにも等しい感慨だった。
勝って良かったのか。ウェルティスにはその先の夢があった。だが、翻って我が身にはこれ以上の望みはない。名を示し、ウェルティスにも勝った。それだけがここまでエストリカを支え続けた望みだったのだ。
結果として華々しい勝利を飾り、いまやエルトリア市民の中にエストリカの名を知らぬ者はいないだろう。彼女の名は諸外国にも届いているはずだった。だが、その先は? これからは何を望めばいい?
今のエストリカには、未来は茫漠とした長い時間に過ぎなかった。これが、こんなものが多くの未来と引き換えた末に手に入れた時間であっていいのだろうか。
この先に、果たしてゴルニアで手にした以上の何かを見つけることができるのか。自らに問う時、それは鋭い恐怖を感じさせた。茫漠とした時間の中で穏やかに成長し、老いていくという普通の人生を、エストリカの魂の持つ激しさは受け容れようとはしなかった。身を焼いた灼熱の炎の中で燃え尽きながら、その灰の中から再生しようとする魂は、温いまどろみの中でもがいていた。
あるいはこれこそシノンに指摘された悪い部分なのだろうか。すべてを曖昧の内に済ませられない、潔癖すぎるエストリカの悪癖なのか。
考えるほど深みにはまり、エストリカは一歩も動けなくなっていた。
そのことが恐ろしい。茫漠とした曖昧な時間に囚われたまま、ここから二度と歩き出せないのではないのかと、その漠然とした恐れが彼女を竦ませていた。
それでも――もうじき寒冷な北にも春が訪れる。冬の寂寥感とともに、過去を振り返る時期ももう終わる。目覚めの季節とともに、エストリカも新たな時間を生きなくてはならない。それがどうにも重荷に感じられた。
「…………?」
頭の上から、不意に布地が被せられた。人肌の温さを持つ布は、アリウスの羽織っていた外套だった。
「臭うかもしれないですが、人目についてはまずいですから」
珍しく気を利かせておきながら、余計なひと言を付け加えるあたりが、いかにもアリウスらしい。
そのことにエストリカは、なぜか奇妙な安心を覚えた。きっとこの頭でっかちな副官は、こちらの内心などちっとも理解していないだろう。だから、今だけは泣いてもいいのだと、理屈にならない結論を得て、外套の温もりに包まれたまま、さめざめと泣いた。
アリウスは涙に濡れた袖の重みを感じながら、少女の華奢な肩を抱くようなこともできず、ただ佇んでいた。
いつの間にか、鮮烈だった夕陽は徐々に色を失い、空を銀月や星々の輝きに開け渡そうとしている。これから暗く冷たい北の夜が始まる。けれども時は巡り、また朝はやって来る。だから、今は涙に濡れたエストリカの顔にも、また晴れ間が差すだろう。また溌剌とした元気な顔を見せて欲しい。
ああ、そうかと、アリウスはようやく気付いた。
威張ったり、罵倒したり、怒ったり、時に笑い、不機嫌は隠そうともしない。それは面子に拘る男たちにはない、ありのままの感情の発露だった。だれもかれもが灰色の花弁で自らを隠す中で、彼女だけはありのままの色で咲き誇っていた。
多分、自分はその鮮やかさに惹かれた虫なのだ。
その鮮やかさで魅せるままに、彼女はアリウスをこんな北の辺境まで連れ出していた。アリウスが知りもしない世界へと、エストリカが連れて来てくれたのだ。酷い目に遭ったと言いながら、それでも楽しんでいたのだ。新しい世界、新しい経験、それらが世間に対して不満を漏らすばかりの貧乏文士を、少しだけ成長させてくれた。
だから、この先もきっと、僕は彼女に付いていくだろう。
だから、今は夜の訪れに閉ざされた花弁も、朝の訪れに花開き、また鮮やかに咲き誇って欲しい。それを願い、微かに伝わって来る少女の体温を感じながら、アリウスは天上に輝き始めた星々を静かに眺めていた。




