Ⅵ天賦
外周防衛に当たったトゥリアスは死力を尽くしていた。
むき出しの腕や足に幾つもの傷を負い、兜の前立ては斬撃を受けた衝撃で留め金具が折れて失っていた。跳ねた泥が装束を汚し、その姿はすでにして敗残兵にも等しかった。
将軍みずからが白兵戦のただ中で傷を負う状況にありながら、それでも彼は数十倍の物量を持つゴルニア救援軍の猛攻を支えていた。それを成し得たのは、この戦場において彼に勝る豊富な経験と知識を持つ者がいないからであり、同時に危急にあって中年男の粘り強さを発揮したからだった。
天性というなら、トゥリアスはエルトリア人には見えないほどの恵まれた体躯ぐらいしか持ち合わせていない。ウェルティスのように鋭い知性や、エストリカのようなカリスマを備えているわけではなく、アリウスのように機転が効くわけでもない。自慢の体躯も中年に入って衰えは隠せず、特に持久力は若者にはかなわない。
それでも中年男には若者たちが容易に持ちえない忍耐力があった。
栄光だけを過去に刻んで将軍に登り詰めたわけではない。敗北を何度も経験し、毛並みの良い貴族の若造に先を越され、それらをじっと耐えることで生き残ったしたたかな男の粘りである。
十回、二十回と崩れた戦線を立て直し、兵力を再編し、細心の注意を払って繰り返される作業は、きらびやかな天才とは無縁の緻密さで織りなされる職人芸だった。
これが職業軍人の姿だった。戦う技術を習得した職人を軍人と呼ぶのだ。精神をすり減らすような繊細な作業を積み重ねて、それを際限なく続ける者こそ名工と呼ぶのなら、この時のトゥリアスはまさに名工だった。
が、その手腕を以てしても、戦力差による消耗はくつがえしようがなかった。
ゴルニア兵を五人、六人と倒しても、エルトリア兵が一人倒れるごとに戦力差は開く一方で取り戻しようがない。
あるいは歴戦の将軍の相手を務めたサンジェナトスを讃えるべきか。戦力差はあっても、ばらばらに掻き集めた救援軍の団結力は脆く、トゥリアスの頑強な抵抗に遭いながら、いまだに士気が崩壊していないことは特筆されるべきだった。
ゴルニア王の右腕は、折衝を通じて培った政治力を遺憾なく発揮して、各部族の対抗意識をうまく引き出し、競い合わせることで救援軍の士気を補強していた。どこそこの部族は軍旗を何本奪ったとか、もう担当区画を占拠した部隊があるとか、その種の情報をコントロールしつつ流していたのだ。
もとより競争意識が高く、しかも向後の地位がこの決戦での働き如何にかかっているとなれば、協調性のないゴルニア諸部族も奮起せざるを得ない。ルーヴェニア族の下に付くのは仕方ないとしても、その他の部族の後塵を拝してなるものかと、攻撃は苛烈を極めた。
「相手もやりおるな」
サンジェナトスの働きを知るはずもないトゥリアスの感想は、崩れやすいゴルニア軍の性質を知るがゆえのものだった。どこか満足げですらある将軍に、部下が悲鳴じみた声を投げかけた。
「閣下、どうかお下がりください!」
「できん。これ以上の後退は、戦線の崩壊に繋がる。ここで支えるしかない」
決然と応じたトゥリアスは、眼前に迫った敵兵を洗練された動作で切り捨てると、転倒した若い兵士を助け起こした。今やこれぐらいのことがトゥリアスに出来る最後の仕事だった。
ついにエルトリア軍の体力が尽きていた。後方は立つことすらできない重傷者のうめきばかりで、再編すべき兵力は手元に一兵たりとも残っていない。この期に及んで恃むのは、ようよう前線を形成しているにすぎないわずかな将兵だけで、彼らが倒れても穴を埋める者はいない。
それでも、と不屈の意思を湛えたトゥリアスは、不意の苦笑を唇の端にひらめかせた。それでも、まだ、だが、と、これはまるで総督の癖が移ったようだと気付いたからだ。それも悪い気はしなかった。どんな苦境にあっても反駁し、抵抗を示すエストリカは、どこまでも自分を諦めることをしなかった。だから俺も自分を信じてみようと思ったのだ。
どこまで行けるのか。どこまでやれるのか。今まで積み上げたすべてを以て世界に問う気分は悪いものではない。まだだ、これからだと足掻くほど苦しいが、それでもここまで来たのだと思う時、心に吹き抜ける風は苦労に流れた汗を拭う爽快感があった。
それは限りない夢の途中で、不意に訪れる至福の感触だった。人生の秋を迎えて、トゥリアスはその心地よさを初めて知った。この先にも風は吹いているのだと思えば、それをもっともっと味わいたいと、前へ進む足を止めることなどできるはずがない。
だから、まだだ。まだ戦えるぞ。おまえたちもそう思うだろう?
大盾にしがみ付くようにして疲労困憊、満身創痍の身体を支える将兵を見やって、問いかける。こいつらもたいがい諦めの悪い連中だと、呆れつつも慈しむような気分があった。
主神ユーグよ、戦神ジグラトよ、ご照覧あられるか。生まれがどうあろうと、これらが、これらこそがエルトリアの子らに違いないと思しめさるならば、死せる者に祝福を与え、生きてある者には今ひとたびだけでも剣を振る力を与えたまえ!
「総員、構えぇーっ!」
トゥリアス将軍の大音声に、くたびれ果てた勇者たちが応じる。大盾を前に、剣を後ろに構えて、眼前のゴルニア兵を睨みつける。
その底知れぬ迫力に、ゴルニア兵はたじろいだ。まだやる気なのかと、敵兵の揺れる瞳は問うていた。おまえら、分かってるのか。もうボロボロなんだぞ。勝ち目なんかないんだぞ。なのに、なんで――
「総員、突撃!」
うおおお、と噴き上がった吶喊は、決して猛々しいものではなかった。それほどに将兵は疲れ果てていた。だが、それでも気迫として現れる執念が、地の底から噴き上がるような迫力でゴルニア兵を揺さぶった。
自ら胸壁を乗り越えて、エルトリア兵は盾ごとぶつかった相手を確認もせずに、しゃにむに剣で突き刺す。盾に防がれても、何度も何度も繰り返し、剣が折れれば鎧通しのナイフを抜いて、執拗に繰り返す。
なんだ、こいつら。いったい何なんだ。これが噂に聞くエルトリアの魔女の呪術なのか。それともエルトリア兵というのは最初から気が狂っているのか。
一時的にエルトリア軍は敵を押し返していた。それは気迫の勝利だったが、同時にもはや気迫以外に頼れるものがなくなっていた。疲労が溜まり、多くの血を失った体は鉛のように重たい。もう装備を支えている力さえ残っているのか怪しかった。ひたすら前に出ているというのも、胸壁を乗り越えた先の下り坂に踏ん張る力がもう残っていなかったからだ。
それでも、それでもと将兵の背中を支えるのは、死地にあって生への執着ではなく、彼らの背に守られている十六歳の少女の存在だった。たった十六歳の少女がゴルニアを征服するという大言壮語を、彼らは笑わなかった。そこに夢を見た。あんな小さな女の子に、そんな大それたことができるというのなら、俺たちも何か凄いことができるかもしれない。それを証明するために、大工事だってほとんどやり遂げて見せた。だと言うのに、その要塞で総督を死なせるわけにはいかない。
各所で、次々とエルトリア兵が倒れて行く。力を使い果たし、敵の攻撃を防ぐ術もなく無情にも倒れて行く。
ユーグよ、ジグラトよ。トゥリアスは頬に伝う熱い感触を振り払うように祈り続けていた。戦場で一体となった将兵の気概が、痛いほど胸に感じられてならなかった。あと一歩、もう一歩と、覚束ない足取りで前に前にと進みながら、エルトリア軍外周守備隊は全滅しつつあった。
「これがエルトリア軍人だ」
凄惨な戦場のただ中で、トゥリアスは全世界に向けて叫びたかった。だが、この戦場の記録は、ただゴルニアの勝利として歴史という記念碑に記されるだろう。それが悔しい。これほどまでに奮戦したのだ。みなが死力を尽くしたのだ。断じてそれを無視されることなど許せるはずがない。
だから、前へ進め。力尽きても前へ進め。我らの勇猛さが語り継がれることがなかったとしても、ゴルニア兵に恐怖としてその痕跡を刻みつけるのだ。我らの血肉が虚しく潰えるわけではないのだと、それを決めるのは他でもない我ら自身の働きにかかっているのだから。
片っ端から切り払って前に進んでいたトゥリアスの視界から、不意に後続の敵兵が絶えるのが見えた。なんだ? もう一人を斬ったところで、手の届く範囲に敵がいなくなった。
「なんだ?」
今度は口に出して呟いた。知らず、トゥリアスは膝を負って地面に座り込んでいた。剣戟の緊張が途切れて、体が疲労を思い出したらしかった。こなくそと気合いを入れても、体はもう言うことを聞かない。が、その無防備な将軍を狙う敵兵はやはりいない。生き残った守備隊の将兵も、やはり精根尽きて地面に突っ伏していた。
少し離れた位置に立つゴルニア兵は、変わらずこちらに向けて盾と武器を構えていたが、こちらを見ていなかった。仲間と目配せを交わし、何事かをゴルニア語でわめき合って、彼らはしきりに後方を気にしている様子だった。
と、その時、ゴルニア兵の列が大きく乱れ、割れた。その隙間を縫って飛び出して来たのは、数十騎の騎兵だった。いや、後続がある。百、二百、もっとか? トゥリアスは疲労に霞む目をこらして観察した。何のつもりだ。ここに騎兵隊など投入しても意味はないぞ。
「違う」
戦場に突如として乱入して来た騎兵隊は、力尽きたエルトリア軍に構うことなく、隊列を乱したゴルニア兵を斬り散らしていた。よくよく見れば、装束から武器から、ゴルニア人の騎兵ではなかった。
「ヴァラン人……ということは……」
間に合ったのか。いまだに眼前の光景を疑うような気分で、トゥリアスは呆然と呟いた。
エルトリア軍ともゴルニア軍とも異なる軽装歩兵が、突如として昏迷の戦場に雪崩れ込んでいた。
それは見間違えようもないヴァラン人の戦士団だった。盾も持たない軽装は、戦場で騎兵に追随してこれを補助するための装備である。
そんな連中が、どうしてここにと問うより早く、ウェルティスは事態の本質を見抜いていた。漁夫の利を狙ってのことではなく、これはエルトリア軍の援軍だ。その証拠を示すように、乱入してきたヴァラン兵は、疲労困憊で動くこともままならないエルトリア兵を無視して、動揺のうちに応戦も覚束ないゴルニア兵ばかりを狙って次々と血祭りにあげていた。
援軍を呼び寄せていたのは、なにもゴルニア軍ばかりではなかったのだ。
が、そのような事態もウェルティスの計算の中には入っていた。他の属州軍団は遠すぎて救援が間に合わない。となれば、第十二軍団が援軍として頼れるのはヴァラン人だけとなる。
「が、なぜだ?」
ウェルティスは事前の工作で、その可能性を詰んでいた。決起当初から可能な限りの金品を用意して、ヴァラン人が介入することのないように根回しをしていたのが、ここに来て決定的に効いていると自負さえしていたぐらいなのだ。
ゴルニア解放の暁には、さらなる贈答品も約束していた。追撃戦のために雇い入れたヴァラン騎兵も、元はと言えばそれらの交渉という素地があったからこそ緊急で要請することができた。
ゴルニア軍に消極的に加担することに利があると分からせてやれば、ヴァラン人は動かない。その前提でウェルティスは解放戦争の青写真を描き出していた。そのような情勢下でのヴァラン人の裏切りは、ユルゲニスの攻防どころではなく、戦争全体の根幹を揺るがすものだった。
「まさか……」
脳裏をかすめた可能性に、ウェルティスは弾かれたようにエストリカを見た。
ヴァラン人との交渉において、ウェルティスがどうしても譲ることのできなかった条件がひとつだけあった。それをエルトリアが約束したというのか?
「まさか、ゴルニアを割譲したのか!?」
ヴァラン人が何よりも強く執着したのは、ゴルニア東部地域の土地だった。それをウェルティスは却下した。全土を解放すると言う大義がある以上、必要な代償にしても土地の割譲は呑めない。代わりに十分な金品を用意した。エルトリア軍がこれ以上の報酬を用意できまいと見込んだ量だ。
が、いかに総督とはいえども、否、属州の維持を責務とする総督だからこそ、土地の割譲などできないはずだった。しかし、現にヴァラン軍が参戦している。割譲以外の条件は考えられなかった。
これは俺の落ち度なのか。冷静な計算のうちに済ませて、間違いないと油断していた俺の失態なのか。
「……そうだった」
エストリカはすべてを賭けて挑んで来た。何を失おうとも、必ず勝つと、その信念を巨大な封鎖施設に感じていたのは他ならぬウェルティス自身だった。狂気さえ孕む執念に、常識など通用しない。
「あいつは……」
エストリカはいま持てるすべてで足りぬならば、未来さえ差し出して、今ここにある勝利だけを掴みに来ていた。この戦いの先を見据えていた俺とは、戦に臨む覚悟が違っていた。その覚悟が俺には足りなかったと、そう言うことなのか。
エストリカは大きく息を吐いていた。戦局が決定的となった今にして寂しげですらある表情を見せたのは、確かに感情を共有していた証と見えたが、それも至福の時間の残り香にすぎず、もはや二人の間に意味をなすことはない。
雪崩れ込んだヴァラン兵の波に引き裂かれるように、二人の時間はその時、終わった。
ウェルティスの姿がヴァラン兵の壁に遮られて見えなくなっても、エストリカはそのまま立ち尽くしていた。
「遅くなりました、閣下」
いまだに慣れない甲冑を気にしながら、ヴァラン軍に守られるようにして総督の傍に辿り着いたのは、しばらく本隊から離れていたアリウスであり、戦況をひっくり返す援軍を呼び込んだ張本人だった。
エストリカはウェルティスの思うような大それた事をしたわけではなかった。ただアリウスの提案を、トゥリアスの承諾を得て認可し、言い出した本人に全権を与え、「何があっても援軍を引き連れて帰って来い」と厳命して送り出したに過ぎない。
万全を期していたゴルニア王を驚愕させたのは、これまで総督のカリスマと、将軍の手腕の影に隠れていた、ウェルティスがその名を知ることさえなかった総督副官の青年だった。
無論、援軍の着想はアリウスならずとも、誰でも思い付く。しかし、ウェルティスの打った先手を覆してヴァラン人を動かすのは、この文学青年を除いては不可能だったろう。
惜しげもなく新属州の領土割譲を約束して平然としていられるのは、それが必要だと思う限りにおいて、どこまでも直進する理想主義者だからだ。元を質せば、作品の資料を掻き集めるために巨額の借金をして少しも後悔しない貧乏文士なのだ。
預かった全権を正しく使っただけだと居直る青年は、待ち受ける枢密院の吊るし上げも、エルトリア市民からの批判も、まったく意に介さなかった。そんな些細なことよりも、アリウスにとって重要なのは、せっかく準備している新作が無駄になるかならないか、その成否がヴァラン人との交渉に懸かっているというその一事だった。
とは言え、そんなアリウスが内心で恐れていたのは、援軍を連れ帰るタイミングが遅くなり過ぎたことだった。ゴルニア救援軍の集結が彼の読みより格段に早かったのだ。何とか間に合いはしたものの、そのような情状を斟酌してくれる上司ではない。
アリウスは「遅すぎる! わたしを殺す気か!」と、理不尽な怒号を予期して身を竦めていたのだが、エストリカは「ご苦労」と答えたにとどまった。
少女の視線は最大の功労を果たした副官ではなく、今や立場を逆転させて撤退の指揮を執っているはずのウェルティスの姿を幻視していた。
ゴルニア軍は完全に不意を打たれて統率を失っている。疲労して動けないエルトリア軍に代わって、ヴァラン軍が果敢に追撃をかけて、ほとんど総崩れの体でユルゲニスの市門を目指していた。
「終わった」
他に言うべき言葉はない。
援軍を引き連れて来たアリウスを労うべきだと頭では分かっていたが、そのようにしようと心が動かない。終わったのだと戦場の空気を肌に感じるにつけ、寂寥感が心に吹きつけ、体と言葉を縛る。
熱く燃えた。熱を帯びた疲労が、燃え尽きた白い灰の温さに似て、一層の落差を感じさせる。
まるで祭りの終わりだった。苦しみと悔しさに彩られつつも、それは確かに祭りだったのだと、少なくともエストリカは感じていた。否――ゴルニアを駆け抜けたわずか三月は、エストリカの青春だったと言うべきか。
思い通りにならぬことに怒り、苦しさに奥歯を噛み締め、悔しさに涙した。そして恋もした。それは誰もがごく普通に経験する青春の印象だった。ただエストリカのそれは、あまりにも苛烈で、スケールが大きく、それゆえに短かったという、それだけだ。
「殿下?」
「……何でもない。ゴルニアの救援軍はどうなった?」
不意の涙に襲われたエストリカは、傍らのアリウスの怪訝そうな問いかけに、ようやく自分を取り戻した。
「ヴァラン軍の騎兵隊が急襲して、本営を壊滅させました。今頃は算を乱して逃げ出している救援軍を、騎兵隊が追撃して戦果を挙げていることでしょう。トゥリアス将軍もご無事を確認しています。疲れ過ぎて動けない様子で――」
まだやるべき事は残っている。それまでは……せめてそれまでは、泣くことはできない。固く誓いながら、それでもアリウスの説明の半分ほどは聞き逃していた。




