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異説ゴルニア戦記  作者: pepe
三章
21/23

Ⅴ祝福

 振り下ろされた刃は空気を焼いたように思える鋭さだった。

 ぎっ、と異様な声を上げて、エストリカの直衛に当たっていた親衛隊員が倒れる。そのまだ生きている男を踏みしだきながら、目を血ばらせたゴルニア兵が手斧を振り上げた。

 ――やられる。

 エストリカは全身を緊張させた。とっさに剣を構えてはみても、それが何の抵抗にもならないことは分かりきっている。だが、その敵兵はエストリカに襲いかかろうとしたまさにその時、唐突に膝をついた。踏まれていた瀕死の親衛隊員が、最後の力で剣をその男の真下から突き込んだためだった。

 目をむき、激痛にうなりを上げたゴルニア兵を、別の親衛隊員が突き殺し、さらにその隊員を別のゴルニア兵が殴り倒す。地獄もかくやという壮絶な殺し合いが、総督の間近ですら繰り広げられていた。

「盾を並べよ。総督をお守りせぬか! 閣下、お下がりを!」

 親衛隊長の声に反射的にうなずきかけたエストリカは、すぐに我に返って「下がらぬ」と叫んだ。

「わたしの兵が戦っているのだぞ!」

「しかし、このままでは……」

「分かっている。トゥリアスは、将軍はどこか!?」

 エストリカは歯噛みした。この状況を持ちこたえるには、もはや総督のカリスマでは不足だった。わずかでも可能性があるとすれば、それは歴戦の将軍の差配をおいて他に考えられない。だが、トゥリアスは危急を告げる外周の防衛線を統括するために、エストリカの傍を離れて以来、姿を確認できないでいる。

「まさか、もう……」

「まだ外周が総崩れになっていないからには、将軍はご健在でしょう。しかし、それもいつまでもつか……」

「逃げろ、と言うのか?」

 言い淀んだ親衛隊長の提言を汲み取って、エストリカはその弱気を拒絶するように睨みつけた。

「この期に及んでは、もはや……。血路は親衛隊が必ず開いてみせます」

「だが……」

 反論しようとしたエストリカは、親衛隊長の後ろでなぎ倒される兵士に視線を奪われ、言葉を失った。親衛隊の防壁で一時は遠ざけた敵刃が、再び総督の近くにまで迫っていた。

 このままでは全滅する。それは避けようのない未来であり、単に無駄死ににすぎなかった。そうさせるのが自身の我がままなのだと分かり切っているだけに、エストリカは怯まざるをえない。そうさせるだけの資格をわたしは持っているのか? 一時の退却や敗北も許さぬのがエルトリアの誇りなのか?

 容易に言葉を紡ぐことができなかった。エストリカの眼前に突きつけられている情景は、我を通した彼女の決断の帰結に他ならないのだ。勝利の道筋さえ見えぬまま、わたしが彼らを無惨な死に引きずり込んでいる。その責任を負い、いまや決定的となった敗北を認め、かくなる上はわずかでも被害を減らすべく撤退の判断を下すのが総大将としての責務だった。

「それでも……」

 臓腑をわしづかみにされたような息苦しさと痛みの中で、エストリカは必死にもがくように口を開いた。

「それでも、撤退はしない。まだ負けてなどいない」

 責任など知ったことか。わたしは勝ちたいだけだ。ゴルニア人に――ウェルティスに思い知らせてやりたいだけだ。ラヴィニア・エストリカは大した女だと、破格の存在だと、その名を遍く知らしめてやりたいだけだ。

 そのためになら、何もかもを差し出して惜しくなどない。だから、

「持ちこたえてみせろ! わたしに勝利を捧げよ! そなたらの死が、虚しく冥神ミタスに引き渡されるのか、主神ユーグの至上の祝福に浴するのか、それはそなたらの働き如何にかかっているのだから。それこそがそなたらがここに在って、命を賭ける唯一の理由なのだぞ!」

 だから、みな死ね。わたしのために死ね。ただの一人とて徒に死ぬことは許さぬ。みな、わたしの大望の下にあって、等しくわたしがそなたらを殺すのだ。エストリカは阿鼻叫喚の地獄絵図を前に吐き出した。それは総督として辺境の平定に乗り出した少女の魂そのものの叫びだった。

 それを残酷と呼ぶのは容易く、また正当な評価である。

 しかし、この時、死地にあって、冥神ミタスの前に逃れようもなく引きずり出された兵士たちには、残酷なエゴこそが祝福だった。無駄ではないのだ。たとえ死ぬにしても、それは素晴らしい大義とともにある。

 だから逃げられない。逃げるや否や、総督の祝福は呪いと変じて彼らの死を無価値に貶めるのだから。

 祝福を受けて親衛隊を中核に、守備隊の戦意が再び高まる。親衛隊は侵入して来た周囲の敵兵を一掃すると、その余勢を駆って攻勢に転じようとしている。

 何度目か知れぬ逆転の気運の高まりを、誰よりも早く察して飛び出したのは、その知性と感受性において人並み外れたゴルニア王以外にありえなかった。

 反転攻勢の機運がエルトリア軍の前衛に伝播するより早く、ウェルティスは手近なところから手当たり次第に兵を掻き集めた。それらに付いて来いと命じたのみで飛び出すや、巧みにエルトリア軍の守備をすり抜けにかかる。

 王に追随できたゴルニア兵はわずか百にも満たなかったが、そのタイミングは芸術的な領域に達していた。エルトリア軍が勢いを付けようと力を貯め込んだ機先を制して、その鼻面に痛打を浴びせたに等しい。鮮やかに戦場の呼吸を読んだウェルティスが狙い澄ました一撃は、エルトリア軍後列の機能を一時的に麻痺させていた。

 親衛隊とて例外ではなく、前に出ようとした瞬間を抑え込まれて、勢いに乗り切れなかったばかりか、浴びせられた一撃に動揺を隠し切れないでいる。そこへウェルティス麾下の小部隊がぶつかった。

 いける。ウェルティスは今まさに勝利に指をかけたと実感していた。エストリカは兵を奮起させるというその一点において、確かにウェルティスを上回った。予想以上の激戦であり、無謀ともいえる突破に我が身を引きずり出されるとは想像さえできなかった。だが、翻ってウェルティスは他の全てにおいてエストリカを上回っている。

 いけるぞ。これで終わりだ。このまま押し込み、あの女を殺す。それで決着だ。単純明快な結末だが、ウェルティスには幕引きを惜しむような気持ちがあった。孤独な英雄にただ一人、向こうに回って並び立ったエストリカの存在を過去のものと捉える時、ウェルティスの胸に去来するのは哀惜の念だった。

「それでも殺す」

 英雄とは時代に冠絶するただ一人の存在である。並び立つ者は敵味方の区別なく、ただ一人として許容してはならない。英雄になることで孤独が訪れるのではない。孤独とは英雄になるために必要不可欠な条件だった。

「だから殺す」

 盾を並べる親衛隊に向かって、手勢とともに飛び込む勢いのままにぶつかり、押しのける。エルトリア式の鋭い刃を親衛隊員の首筋に叩き込みながら、ウェルティスの翡翠の瞳はただ一直線に愛しい女を見つめていた。

「常世で俺を待つがいい」

 おまえの命を祭壇に捧げて、俺はゴルニアを新たな帝国に変える。生涯をかけてエルトリアと戦い抜き、いずれユーテリアを制する覇王となる。その覇王を常世で迎える相手は他のだれでもなく、おまえしかいないのだから。

 大義に自らを飾ってきたウェルティスは、その果てにただ一つの真実を見つけていた。

 そうだ。これが、これこそが、ゴルニア王ではなく、俺が俺として生まれ、ここに生きている意味だと実感できれば、もはや迷うことはなかった。俺の生涯はただこの時、この場所に結晶する。始まりとして、終りとして、それぞれに意味を持ちながら、この時、この瞬間は永遠となるのだ。

「あ……」

 エストリカはその鮮烈な意思を宿した瞳に打たれていた。冷たい殺気というものではない。むしろ暖かく、愚直なほどまっすぐに、ただエストリカを求める愛情だった。

 おかしな話だ。顔を三色に塗り分けた、いかにも未開の野蛮人に見える大男が、血塗れの刃を振りかざしているというのに、そして間違いなく自分を殺すつもりでいるというのに、エストリカがそのとき感じていたのは、息苦しいほど純粋な男の愛だった。

 そうまでなのか。そうまでわたしが欲しいのか?

 ゴルニアなど手に入れなくとも、顕職に飾られずとも、ウェルティスがただエストリカの気性を愛するというのなら、それは彼女が彼女である証になる。何者かになる必要などない。ただウェルティスという男が必要とするエストリカという女であればいいのだ。

「ウェルティス……ウェルティースッ!!」

 エストリカは叫んだ。それでは我慢できない。わたしがわたしであるために、やはりおまえの手に自らを委ねることなどできない。だから、これが唯一のおまえとわたしの物語の結末なのだ。相手を殺すことでしか成就できぬ想いの在り方なのだ。だから、殺しに来いと、殺してやると、エストリカは万感を込めて叫んでいた。

「エストリカァアアッ!!」

 親衛隊の必死の抵抗をがむしゃらに乗り越えて、男が応えた。猛々しい咆哮のような呼びかけが、この男には相応しいとエストリカは思った。恋人に甘やかに呼びかけるような男ではない。自らの魂を丸ごと相手にぶつけるような荒々しさこそが、この男には相応しい。そう――その野生こそをエストリカは愛したのだ。

 振りかぶられた剣が、以前に奪われたみずからの佩剣だと悟っても、エストリカの心に屈辱は湧かなかった。今はただ、この世に二つとない、恐ろしいほどに鋭く、苛烈な愛が結晶する瞬間が待ち遠しくさえあった。その美しさを前に、エストリカはついにみずからを放棄せざるをえなかった。この瞬間のために生まれ、そして死ぬのだと思う時、少女の心に後悔はなかった。

 が、その美しい輝きに影が差した。

「させるか!」

 ゴルニア兵を振り払った親衛隊長がエストリカの前に立ちはだかる。

「邪魔をするな!」

 吠えたウェルティスが渾身の力で振り下ろした一撃を、親衛隊長が剣で受ける。それは勢いか、それとも気迫の差か、激しく火花を散らした鉄剣が砕け、親衛隊長の肩口にウェルティスの剣が喰い込んだ。

 二人はもつれ合うようにしてぬかるんだ地面の上を転がり、その末に馬乗りになったウェルティスが猛獣のような唸り声とともに拳打を何度も何度も叩きつける。抵抗しようとしていた動きが止まり、顔面が血塗れになった男を離すと、ウェルティスは相手の肩口に食い込んだままだった剣を引き抜いた。

 これで邪魔者はいない。いよいよウェルティスがその望みを成就させようとしたその時、鋭敏すぎる男の肌感覚が異変を捉えていた。

「なんだ?」

 確信していた勝利の気配が、引き潮のように遠ざかっていた。明確な答が見つからぬままに、確かにウェルティスは戦場の変化を総身に感じていた。



『その時、エストリカはかつてないほどに追い詰められていた。それは風前の灯に似て、逆風を受けて一時は燃え上がったとしても、より強い風に対しては虚しく消え散るのが定めであった。

 片やウェルティスは、ここぞと見てとった機会を逃すことなく、自ら百に満たない兵を率いて前線の隙間を掻い潜り、エルトリア軍の抵抗を完全に粉砕すべく行動を起こしていた。

 ここに至り、ウェルティスは何が敵の強い抵抗の意思を支えているかをよく弁えていた。すなわちエストリカというただ一人の少女が、エルトリア軍に戦意を吹き込んでいるのだという事をよく理解していたのである。

 彼は非常に頭の切れる男であり、エルトリア軍に状況を覆す術のないことを弁えていたし、従って歴戦のトゥリアス将軍でさえ今や無力であることを理解していた。ただし、味方の損害と疲労を考慮して、今や無意味な抵抗を続けるエルトリア軍を沈黙させるべく行動したのである。

 それは実に合理的で正確な判断だったが、一方で全能ならざる人間である彼は、一つの取るに足らない要素を見落としていた。』

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