Ⅰ皇女
帝都エリシオスを中心とした、帝国本土はごく小さな領域でしかない。ユーテリア大陸南部とロンドキア大陸北部によって囲まれたアララト海のほぼ中央に位置し、ラビア内海からアララト海へと注ぐニムレト海峡の両岸を保持しているに過ぎない。
それは小国と言うのではなく、エルトリア帝国が獲得した十二の属州が、本土に比してあまりに広大であるがために、そのように見えると言うだけに過ぎない。北はユーテリア大陸の過半、そして南はロンドキア大陸の北岸を掌握し、東には大国クノス朝パルス帝国を圧迫して勢力を拡大している。アララト海のほとんど全周を囲い込む形で、広大な帝国の支配領域は広がっている。
常備兵力は各属州に配置された正規の帝国軍団だけで四十二個軍団――単純計算で約十八万もの兵力を持つ。これに匹敵する常備軍を抱える国家は、当時、他に存在しなかった。
小さな都市国家から始まったエルトリアの支配領域は拡大を続け、帝政エルトリアは絶頂期に達しようとしている。
地図の上では微細な一点に過ぎないとしても、エリシオスとは、数えるほどしかない世界帝国の一つを支配する、言わば世界の中心の一極であった。垢抜けない田舎の都市国家とは格が違う。
帝都の人口は五十万を数え、その居住空間だけでも凄まじい過密を強いられると言うのに、巨費を投じた公共事業によって建設された神殿を始めとした公共施設や、記念モニュメントが所狭しと乱立している。限られた土地にどれだけの建物が建造できるかに挑んでいるかのようだった。それでもなお、都市計画に基づく区画整理が維持されているのだから、その非合理的な合理性は一種の偏執的な執念を感じさせずにおけない。
そうやって限度を越えて密集する建築群から少し離れ、「始まりの丘」と呼ばれるなだらかな丘陵に踏み入ると、そこには猥雑なほどの喧騒はなくなる。エルトリア建国伝説において最も重要な聖地として、常にエルトリア政府の中枢を担った要地であるからだ。
王制時代の王宮に始まり、共和制時代の議事堂を経た建造物が、現在は皇帝の宮殿として白亜の威容を誇っている。
時代を経て多くの改修を受けた宮殿の長い回廊を、二人の女性が足早に歩いている。
先に立って大股に歩いているのは、まだ成人して間もない、十五歳の少女であった。丁寧に巻き上げた黄金色の髪は、列柱の隙間から差し込む南洋の日差しを受けて、白々とした涼やかな光を放っている。いや、光るのは髪ばかりではない。編み上げた後ろ髪を束ねる銀細工には大粒の真珠があしらわれ、両腕には繊細な細工の施された金の腕輪が艶を湛え、荘重にひだを重ねる着衣の絹地までが輝いている。
その出で立ちから身分の高さが窺われるばかりでなく、金髪に飾られた小さな白い顔はよく整っており、さながら小さな女神像に命を吹き込んだような美しさがあった。が、その印象を裏切るように、大きな青い瞳が人を呪い殺さんばかりの鋭い怒気を湛え、影に沈む回廊の奥を見据えている。
そちらに誰か居る、と言うわけではない。ただ脳裏をよぎる顔を眺めるたびに、少女は苛立ちを眼光に込めて発散させずにおけなかったというだけだ。
「姫、姫様、お待ちくださいまし」
声をかけながら後を追う娘は幾つか年長で、二十歳を過ぎたばかりと見えた。素朴な麻の貫頭衣を着て、飾り気と言えば、腰帯に飾り紐をしている程度だったが、褐色の肌には健康的な若い色香がうっすらと立ち上るようだった。肌の色もさることながら、エキゾチックな紫紺の髪や目鼻立ちの特徴から、北ロンドキアは属州エシュト出身の側仕えの奴隷だろうと簡単に推測できる。
「姫様!」
強い呼びかけに、ようやく前を行く少女が振り返った。その表情は良家の令嬢とも思えぬ、強い苛立ちに満ちていた。
「うるさいわよ、シノン」
奴隷娘の名は、正しくはキュノッサリアと言うのだが、エルトリア人にはあまり音が良くないとあって、愛称のシノンで通されている。
「申し訳ございません。しかし、議場をいきなり飛び出されるのはいかがなものかと」
シノンは睨むようにした。主人が舌打ちしそうに見えたからだ。そのような無作法は、淑女としてはしたないどころの話ではない。
「いきなり、ではないわ」舌打ちしそこねた口を開いて、少女は答えた。「ちゃんと話は聞いたし、枢密院の指示も了解したわ」
少女の言う枢密院とは、エルトリア皇帝の諮問機関であり、門閥貴族によって構成されている。帝政の開始とともに、独裁を望まぬエルトリア市民の感情に配慮する形で、元老院の一部機能を残したのがその始まりであった。
シノンは頭痛を覚えたように、頭を振った。それは知っている。
シノンは高等教育を受けた最高級の奴隷であり、主の身の回りの世話ばかりでなく、公務における私設秘書のような役割も受け持つ。ために、少女が飛び出すまで、議場に同席していたのだ。
枢密院の命令が限度を越えた無茶な内容だということも知っている。主人の態度も分からなくはないのだ。
とは言え、無茶な指示を押し付けられたからと言って、「分かったわよ、やってやるわよ!」と一喝して即座に退出する事を、一般的に「いきなり飛び出した」と言うのである。
「枢密議員の連中が悪いのよ。クラッソス帝も言ったわ。『礼を欠く者に、こちらが礼を尽くす必要はない』って。わたしは向こうの礼儀作法に合わせただけよ!」
腕組みをして傲然と薄い胸を張る少女に、シノンは溜息を漏らした。正論と言えば正論であるし、屁理屈と言えば屁理屈だ。それを子供らしくもなく、初代皇帝の金言などを引き合いに出して武装するのだから手に負えない。
しかし、確かに今回の枢密院の命令は度を越した悪ふざけとしか思えなかった。その点に関してはシノンも同意する。だからこそ、
「あの場に留まり、理を尽くして説得すべきだったのです。それを後先も考えずに……」
「分かってるわよ、それぐらい」
「分かっていることを為さらないのは、ただの怠慢か自暴自棄でございます」
少女の青い瞳が微かに泳いだ。シノンの言葉こそ正論だからだ。
視線を泳がせた先で、アララト海に浮かぶ島を見つけ、少女は悔しさを思い出して臍を噛んだ。
「お父様さえご健勝なら、こうはならなかったものを」
少女が見つめた島の名をサレド島と言う。良質の鉱泉が湧出することで知られ、皇帝領として召し上げられて離宮が造営されている。そこに彼女の父は静養のために逗留していた。
少女の父の名をラヴィヌス・クラヴィウス。後の世に征乱帝ラヴィヌスとして知られる、第十五代エルトリア皇帝であった。
そして、少女の名をラヴィニア・エストリカと言う。「ラヴィヌスの娘、エストリカ」というほどの意味である。
「枢密院の協議の結果、このたびラヴィニア・エストリカ皇女殿下をゴルニア総督に任じ、麾下として第十二軍団の創設を許可するものである」
それがエストリカに下された枢密院の命令であった。病状悪化の著しいラヴィヌス帝が帝都から離れている今、枢密院は国法に基づく国政の代行者として絶大な権力を有する。今のうちに、邪魔な相手を僻地へ送り出してしまおうという魂胆が見え透いていた。
邪魔と言うのも、次期帝位を巡る争いが水面下でにわかに激化しつつあったからだ。兄皇子たちも自らの郎党を率いて、あるいは逆に担ぎあげられて、その競争に参加している。これ以上の混乱が困るのは、枢密院議員とて帝位継承レースに一枚も二枚も噛んでいるからだ。議員同士で反目しながらも、エストリカの排斥という点においては利害が完全に一致したのだろう。
エストリカはラヴィヌス帝の末子であり、それゆえに溺愛と言って過言ではないほど愛された皇女だった。男系継承の原則により、彼女自身には帝位継承権はないが、いずれ現れる彼女の婿はその限りではない。
国法は血統による帝位の継承を義務付けていたが、過去にも皇帝の娘が夫とともに共同統治者として帝国を統治した前例はある。
まして自らの命数に限りの見えたラヴィヌス帝は、存命の間に最愛の末娘に最良の夫を選ぼうと門閥の若者の吟味を急いでいたのも事実である。
にしても、エストリカに下された沙汰はあまりにも――常軌を逸した厳しさだった。
「ゴルニア……ゴルニアですって?」
属州総督と言えば、枢密院議員に次ぐ顕職として聞こえはいいが、この場合においては事情が異なる。ゴルニアは蛮族の跋扈する未開の地であり、ゴルニア属州などと言う物はまだ存在しない。
「つまり、蛮族を滅ぼして自分で属州を作れと、そう言う訳ね」
「このような無体な命令など、聞いた事がありません。今からでも命令撤回のために動くべきです。おそらく、それを見越しての小細工でしょうが、それでもゴルニアなどという文明の及ばぬ最果てに飛ばされては……」
「いいえ、やるわ」
シノンの忠言を振り払うように、エストリカは硬い表情で言い放った。そして小さな拳を胸の前に固めて宣言する。
「見ているがいいわ、あの枢密院の老いぼれども。主神ユーグに誓って絶対、絶対、絶対に後悔させてやるんだから!」
シノンはがっくりとうなだれた。負けず嫌いな主人は、こうなると絶対に折れない。分かっていた事ではある。エストリカが憎むべき相手に、表面上だけでも膝を折るなどするはずがない。皇帝の愛娘としてなに不自由なく育てられた少女は、小さな身体に不釣り合いなほど高い矜持を備えていた。
シノンはこれからエストリカを待ち受けるであろう過酷な運命を不安に思ったが、その運命に付き合わされる自身の先行きも嘆かざるを得なかった。
……時に帝国歴二〇四年、その六番目の月であるファムの月二日。暦の上では秋に移り変わっていたが、なお残暑の厳しい時節のことであった。