Ⅶ檄
エストリカが本営にしている幕舎に足を踏み入れると、卓上に頭を突き合わせて難しい顔を浮かべていた幕僚たちが一斉に振り返り、挙手の礼をとった。
それを片手で抑えて、総督は小さく息を抜いた。幕僚たちはいずれも煮詰まった表情をしていた。おそらく、報告があってから議論を戦わせていたのだろう。それが一定の結論を見たか、はたまたその逆に陥ったか、その段階で総督を呼びに遣らせた、と言った所か。
一方で使い走りをさせられた総督副官は、眠たげな眼であくびを噛み殺している。責任の所在を感じる程度には職務に忠実なはずなのだが、その姿はやる気があるようには見えなかった。あるいはここに至っては自分の領分ではないと思っているのだろうか。
「状況を」
エストリカははっきりとした口調で説明を求めた。鬱々とした感情を感じさせない声に、あくびを噛み殺していたアリウスが「おや」と少女の横顔に視線を走らせた。しかし、張り詰めた表情は危機に対する緊張としか推測できなかった。エストリカの内に燃え上がる闘志を汲み取るには、幕僚たちは悲観しすぎていた。
「第二軍団は沼沢地の縁、ほとんど海岸線を迂回して来たようです。これなら補給用の馬車も沼地に足を取られなくて済みますが」
そつなくトゥリアスが応じて、状況の説明を始めたが、すでにアリウスから聞き及んでいた以外では、地図上での第二軍団の行動経路がおおよそ明らかになったぐらいだった。
「なにか問題が?」
「輜重隊が北海を荒らし回る海賊どもに見つかれば、ただでは済みますまい。それがあって、今まではこのルートを使わなかったはずなのです。そもそも、レムニア属州は海賊に対する沿岸防備で手一杯ということで、二年前のゴルニア遠征も拒否していたはずが、いまさら……」
「と言う事は、やはり火事場泥棒ということなの?」
エストリカが尋ねると、トゥリアス将軍は厳つい顔を歪めて苦々しく首肯した。
「おそらくは。時期的に見て、こちらの撤退が伝わっていないということでしょう。このままではゴルニアを独占されると思っての短慮かと。冬場は北海も荒れますでな、海賊どもも多少は大人しくなるのでしょうが……」
「兵力は?」
「トゥーレ族の報告で第二軍団は確定しておりますが、おそらく補助軍団も動員しているでしょう。とは言え、まさか残りの第二十九や第四十一軍団まで動員することはないと思いますので、多くとも全軍で二万以下と見積もっております」
主席百人隊長のフィリポスが答える。うなずいたエストリカは、不意に彼の額に巻かれた包帯に目を止めた。白い包帯には滲んだ血が褐色に乾いている。
「傷は、いいの?」
「無論です、閣下。情けない所をお見せしました」
それはエストリカを守るための防御指揮で負った傷だった。傷こそ浅かったものの、額を大きく切り裂いただけに出血量が多かった。血を跳ね飛ばしながら戦っていたせいで、ゴルニア軍の撤退とともに貧血で失神したのだ。
「大事ないなら、いい」
エストリカはうなずいて、そう言った。負傷しているのは、主席百人隊長ばかりではなかった。二人の大隊長も腕に包帯を巻き、頬に血止めの軟膏を塗り込んでいる。トゥリアスにしても、どうやって作ったのか目の下に青黒い痣が浮かんでいた。鎧に斬撃の後を残す者や、外套を兼ねるマントが鉤裂きになっている者も、一人二人ではなかった。
煌びやかな姿を見せるのは、戦闘にはまったく役に立たない総督と副官だけだった。
「皆、ボロボロね」
不意に少女が口にすると、軍人たちはバツの悪そうな顔を見合わせて、思わず苦笑した。お互い、ひどい姿であるのは承知している。まるで敗残兵のようだとは言わないが、少なくともこれまで勝ち進んで来た軍の幕僚団の姿には見えない。
少し気分のほぐれたところで、エストリカは切り出した。
「でも、我々はまだ負けていない」
「その通りです」
熱意を込めて答えたのは、アリウスと同年代の若い第一大隊長だった。くすんだ青い瞳に、悔しさを滲ませるのは、裏切ったサンギ族と、火事場泥棒に出て来た第二軍団への怒りがあるからだ。その感情の温度が伝わったものか、もう一人の大隊長も賛意を示した。
「この借りは返しましょう、来季に、必ず」
流れを受けて、中年の将軍が無難にまとめた。それは大人の判断と言うより、常識的な判断だった。サンギ族を鎮定し、第二軍団の行動を掣肘する。軍団兵の補充も行い、戦力を整えて、再び征服戦争に挑むなりすればよい。
だが、エストリカはそれでは我慢できなかった。
「今すぐよ。今すぐに、借りは返しに行く」
「今すぐ……と言っても……」
「まだ軍団は全滅していない。滅ぼすべき敵もいる。だのに、どうして軍を引ける?」
エストリカは青い瞳を燃え立たせて、真っ向からトゥリアスに言葉をぶつけた。
「ゴルニアは征服する。すぐにでも、可能な限り早く、よ! それ以外は許さない。わたしはあのふざけた男を許さない。絶対に!」
「無茶なことを……」
唐突に癇癪を起したようにしか見えないエストリカの様子に、トゥリアスは呆然とした。いや、それは本営に詰めていた高級将校たちにしても同じだった。
確認されていた基本方針は、サンギ族を鎮定して後に備えるというものだった。確かにゴルニア軍の襲撃を受け、第二軍団の乱入と言う不測の事態まで起こっているにしても、基本方針は変わらないはずではないのか。いや、前よりも状況が悪化しているのなら、なおさらエシュシュへの帰還を急ぐべきではないのか。
エストリカには是非ともゴルニアを征服して欲しいと願っているアリウスからして、彼女の主張の非現実性に呆れ返っていた。
トゥリアスは周りを見回して、軽く息を吐くと、仕方なくエストリカを説得に回った。
「兵の疲労も限界に達していますし、これから冬も厳しくなります。何より、サンギ族の鎮定がなければ、食料さえ調達する目途が立たないのです。とてもではありませんが、戦争の継続は不可能です。お気持ちは分かります。我らとて同じ気持ちですが、ここは――」
「そうやって、先の遠征でもすごすごと引き返して来たのではないか!」
切り返された鋭い声に、トゥリアスは大いに顔をしかめた。侮辱ではあったが、それ以上に痛いのは、エストリカの指摘がほとんど事実だったからだ。ゴルニア軍が思ったより手強いなどと言い訳して、遠征軍は奥地にまで踏み入ることはなかった。第十二軍団に数倍する戦力を持ちながら、メサ川流域に到達するどころか、スタニウムを臨むことさえできなかったのだ。
「エルトリアの誇りとは、ありとあらゆる困難に立ち向かい、決して屈する事のない気高さではなかったのか? いま、わずかの困難を理由に引き返したのならば、我々は二度とゴルニアを征服することはできないだろう」
カチカチと小刻みに鎧の金属が鳴る。興奮したエストリカの身体が震えているのだ。トゥリアス将軍は目を細めた。今にも泣き出しそうな総督の姿に、かつての幻影が重なっていた。腰ぬけのウァリア総督の決断に泣かされた、まだ野心に燃えていた頃の自らの姿だ。
あと少し、あと少しなのだ。ほんの数メイルを進撃すれば、敵はたちまち瓦解する。絶好の戦機を前にして撤退しなくてはならなかった苦さは、容易に忘れられるものではなかった。
「しかし……」
中年男の分別は、容易く情に流れない。気概を持つのは良かろう。だが、世の中には出来る事と出来ない事がある。ユルゲニスを落とすには兵力が足りない。補給物資はさらに足りない。気合いで何とかなる問題ではない。最後まで戦うということは、全滅するまで突き進むことではない。
「一時の屈辱を甘受しても、再起の余地さえあれば――」
「撤退などしない」
堂々巡りだった。と言うより、もう議論ですらない。ただエストリカがごねているだけだ。厄介なのは、この意固地になった少女に全体の指揮権が与えられているということだった。
総督とはすなわち皇帝の代理人である。まして慣習的な権能を尊重するエルトリア人にとって、生殺与奪まで含めた絶対的な全権は、逆らうべくもない神聖なものと見なされていた。だから、トゥリアスは説得しなくてはならない。しなくてはならないのだが、
「何度でも言う、撤退などしない」
「ですが、ゴルニアのしたたかさは侮って良いものではありませんぞ」
「そうだ……もう認めよう。ゴルニア軍は強い。ウェルティスとやらも傑物だ。だが、敵が強いからと、敗北を認めるのがエルトリアの流儀ではなかったはずだ。奴らに思い知らせずして、どうしてすごすごと帰れようか!」
だから、と総督は頭を下げた。
「頼む、力を貸して欲しい。我らに不可能などないと示すためには、どうでも皆の力が必要なのだ」
まったくもって不器用な少女の要請に、しんと静まり返った幕舎の中で動いたのは主席百人隊長だった。
「顔をお上げください、閣下。我ら第三大隊、閣下のご下命あらば、どこへでも馳せ参じる覚悟であります」
ハッと顔を上げたエストリカにうなずきながら、フィリポスはこちらを睨みつけるトゥリアスに苦笑を返した。撤退が最善策と信じる将軍には、裏切り行為に見えただろう。しかし、軍人として、男として、どうして断れるだろうか。
総司令官の頼みである。しかもその重責を担うのは、わずか十六歳の少女に過ぎなかった。細い肩にのしかかる重圧を思う時、フィリポスにはどうしても反対する事が出来なかった。
この判断を愚考と後世の人々は笑うだろうか? 情に流されるままに局面を判断することができなかった無能と謗られるだろうか?
笑えばいい、謗るのも構わない。だが、忘れてはならない。頑なな少女の願いこそは、ゴルニアの動乱を戦い抜いて来た我らの宿願でもあるのだ。これを果たさずに帰れるかという気分は痛いほどによく分かった。
「我らも無論、お供いたします」
続いて同意したのは、親衛隊長だった。何の力も持たない少女が、エルトリアの矜持を説いているのに、大の男が臆病風に吹かれているべきではない。そして何より、親衛隊長はスタニウムで総督とともに立った前線の熱気を忘れてはいなかった。
親衛隊がエストリカに付いたことで、幕舎の空気が二分される。まずい、と慌てたのは、トゥリアスだった。
「ならん! これ以上の進撃など不可能だ! みすみす軍団を奈落の底へ突き落すようなものだ」
「そんなに命が惜しいか!?」
叫び声を叩きつけ、エストリカはそれ以上の議論を切り捨てた。
「もういい。臆病者は引き返してエシュシュで冬を越し、どこでなりと怯懦の謗りとともに生命を全うするがいい。わたしは親衛隊と第三大隊のみ率いて進むだろう。彼らの忠誠だけは疑う余地がないのだから」
強引に言い置いて、エストリカは幕舎を後にした。
しんと静まり返る幕内で、アリウスはその瞳に輝きを得ていた。目下の状況も忘れて、文学青年は高揚していたのだ。そうでなくては、書く意味がないというものだ。
幕僚たちの白眼視を気にも留めず、懲りない男は懐から筆記用具を取り出していた。木の皮を削って紐で束ねたそれは、羊皮紙も品薄になった陣中で作らせた物で、はるか東方の文明で用いられていると伝え聞く木簡を模した代物だった。
『エストリカはスタニウム攻城戦において、自身とともに戦場に立った親衛隊と第三大隊を深く信頼していたので、彼らだけは何があっても最後まで付いて来ると信じていた。
彼女の檄が陣中に伝わると、たちまち驚くべき変化が訪れた。
まず親衛隊と第三大隊が自分たちを高く評価した総督に対し、隊長を通じて感謝の意を表し、自分たちは総督の行く所にどこまでも付いて行く所存であると伝えて来た。他の大隊でも中隊ごと百人隊ごとに相談して、総督への弁解を申し立てた。「我らは敵を恐れたことはなく、指揮権は総司令官に属するものであると知っている」と。
翌朝、ユルゲニスに向けて野営地を出た第十二軍団に逃亡者はただ一人もいなかった。』